AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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若いころからの知り合いであることは決定的に重要

 しばらく前、次のニュースを目にした。

阿川佐和子さんが結婚

 私は、阿川佐和子氏が独身だったことすら知らなかった。(正確に言うなら、既婚かどうか考えたこともなかった。)だから、上のニュースについて、特別な感慨や感想があるわけではない。60歳を超えて結婚するというのは、ずいぶん大変なことだろうと思っただけである。

 ただ、次の記事を読んだときには、今回の出来事について、考えるところがあった。

曖昧な交際開始時期、阿川佐和子の夫の前妻語る胸の内|ニフティニュース

 不倫がよくないとか、男性の前の奥さんがかわいそうであるとか、そのようなことを言うつもりはない。当事者のあいだの関係は、当事者が決めればよいのであり、第三者が口を出すべきことではないように思われる。

 とはいえ、結婚する時点での年齢には関係なく、やはり、若いころから知り合いであることは、結婚にとって決定的に重要な要素である。今回の場合、30年以上にわたる付き合いがなければ、60歳を過ぎてから結婚することは不可能であったに違いない。

私たちは、家族の顔に昔の面影を重ねる

 私たちは誰でも、顔を1つしか持っていない。しかし、他人の目に映る私の顔は、つねに同じではない。1年前からの知り合い、10年前からの知り合い、30年前からの知り合いは、それぞれ異なる相貌の私を見ているはずである。

 若いころからの知り合いは、現在の私の顔に、若いころの面影を読み取り、これと重ね合わせる。これは、若いころの私を直接には知らない新しい知り合いにはできないことである。

 休日に近所の住宅街を散歩しているとき、驚くほど高齢の夫婦が散歩しているのを見かけることがある。見ず知らずの他人である私に、この2人は、魅力に乏しい老人にしか見えない。けれども、彼らにとり、相手は決して単なる老人ではない。何十年も前から眺めて暮らしてきた相手の顔には、若いころの面影が自然に重なり、途方もない厚みを持つ共有された経験が不知不識に繰り返し想起される。夫婦のそれぞれは、相手の心の中で、相手にしかわからない魅力的な相貌を示すのである。

結婚するなら、若いころの自分を知っている者から相手を選ぶとよい

 したがって、あなたが結婚したいと思うのなら、相手は、若いころの自分を知る者たちのあいだから選ぶのが安全であることになる。

 たとえば40歳を過ぎてから知り合った者たちの結婚では、相手は、あなたの若いころを知らず、同じように、あなたもまた、相手の若いころを知らない。今の相手の姿がどれほど魅力的でも、あなたには、相手の現在の姿に昔の面影を重ね合わせることができず、共有された経験を想起することができないのである。

 昔の写真を眺めても、この欠落を埋めることは不可能である。相手の若いころの写真を眺めるあなたは、昔のあなたではなく、現在のあなただからである。

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壁向きカウンター席_(23432952720)

店に背を向ける席の不思議

 私は、普段は、所用のある場所を最短の経路と時間で移動するよう予定を組んでおり、外出先で「時間をつぶす」ことはあまりない。それでも、この数年は、授業の時間割の関係で、週に1度、早朝に職場の近くのチェーンのコーヒー店(カフェ)に立ち寄り、約1時間を過ごす過ごすことにしている。

 今年の4月、約3ヶ月ぶりでこのコーヒー店に行ったところ、店内の座席の配置が少し変化しているのに気づいた。

 この店は、平面が長方形をしており、その長い辺の1つが全面ガラス張りになって道路に面している。これまで、このガラスのすぐ内側には、2人が対面して坐ることができるテーブルと椅子のセットが3組置かれていた。椅子は、ガラスと平行に置かれており、ここに坐るとき、客は、ガラスを横に見ることになっていた。

 ところが、この部分のテーブルと椅子が取り払われ、その代わりに、窓に面してカウンター席が作られたのである。カウンター席に坐ると、客は、窓と向かい合い、そして、店に背を向けることになる。これは、ずいぶん不思議な体勢であるように私には思われた。

プライベートな空間を確保したいのか

 たしかに、このタイプの座席を持つコーヒー店は少なくない。実際、ボンヤリと眺めていると、このカウンター席から埋まって行くようである。ただ、私自身は、他に空いた席があるかぎり、コーヒー店でカウンター席を選ぶことはない。着席したとき、視野に十分な奥行きがある方が、私にとっては落ち着くからである。

 以前、電車の座席について、次のような記事を投稿したことがある。


電車に乗るとき、座席のどこに坐るか 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

ロングシートはなぜか両端から埋まって行く 電車に乗ると、固定された座席があるのが普通である。(何年か前、通勤時間帯だけ座席が畳まれ、誰も着席できないようになる車両が東京のJRのいくつかの路線に導入されたけれども、これは、廃止されるようである。)座席が空いて

 多くの日本人は、誰も坐っていないロングシートに最初に坐るとき、左右いずれかの端を選ぶ。ロングシートの両端は、二方向が仕切られており、「隠れ場」や「居場所」になるからなのであろう。

 コーヒー店において窓や壁に向かい合うように着席するカウンター席が好まれるのもまた、同じ理由によるのであろう。すなわち、他の客や店の広がりが視界から消去され、洞穴に似た仮想的なプライベートスペースないし「縄張り」が産み出されることがカウンター席に期待されているに違いない。(全部の座席が衝立のようなもので仕切られているコーヒー店があれば、大人気になるはずである。)

コーヒー店にプライベートスペースを求めることは適切なのか

 しかし、電車のロングシートに最初に坐るときに中央を選ぶ私は、コーヒー店でも、店のほぼ中央、前にも後にもほどよい空間の広がりがある席を選ぶことが多い。そして、このような席からカウンター席の客を眺めるとき、これらの客の背中は、それぞれの「縄張り」を主張するとともに、コーヒー店の空間、その空間にいる客、その空間に配置されているさまざまなモノに対する積極的な拒絶の意思表示のように見えてしまう。

 そもそも、コーヒー店の座席にプライベートスペースとしての役割を期待するのは、必ずしも適切ではない。コーヒー店というのは都市における街頭の延長であり、このかぎりにおいてオープンな空間である。多くのコーヒー店がセルフサービスなのは、それが本質的に屋台だからである。

 したがって、コーヒー店で他の客に背を向けてプライベートスペースを確保しようとするのは、路上に自分の荷物を広げて縄張りを確保しようとするのと同じであり、決して好ましいことではないと私は考えている。都市における公共の空間とコーヒー店との連続を考慮するなら、路上でしない方がよいことは、誰からも咎められないとしても、コーヒー店でもまた避けた方がよいことになる。

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レゴの特徴は、完全な自由にある

 「レゴ」というのは、デンマークの同名の会社が1940年代から製造しているブロック玩具である。私は、小学生のときから、レゴを集めていろいろなものを作った。非常に多くの時間がレゴで遊ぶことに費やされたけれども、この経験は、今でも生活のいろいろな場面で生きていると思う。

 レゴは、多種多様な大きさや形状の、しかし、それ自体は何の個性もないブロックである。だから、これをどのように組み合わせ、どのような形のモノを作るかは、作る者(≒子ども)の完全な自由に任されているはずである。

 何を作るかをあらかじめ決めずに、手近にあるブロックを試行錯誤で組み合わせて行くうちに、面白い形状の物体が出来上がったり、自分がよく知る動物の姿に似たものが偶然の結果として姿を現したりする。そして、このような体験を繰り返すうちに、やがて、何か「意味」のあるものを作ることを思いつく。ただ、私自身は、鉄道模型や箱庭のような「作品」を作るようになったのは、レゴで遊び始めてから2年か3年くらい経ってからだと思う。それまでは、どのブロックをどのように組み合わせるとどのような形になるのか、手当たり次第に試して面白がっていた。

 このように何かを作るという具体的な目標もなく、好きなようにブロックを組み合わせる中で子どもが自分で形を発見し、より複雑なものを自力で作り上げて行くようになる点にレゴの本来の価値はあると私は考えている。

作られる「べき」ものを指定するのはレゴの自殺

 ところが、最近は、レゴには決まった「遊び方」が求められるようになっているらしい。しかし、たとえば、飛行機を作ったり、よく知られた建物の模型を作ったりするという目標が「レゴで遊ぶ」ことに与えられ、作品の完成が何らかの「ゴール」であるかのように見なされるようになることは、レゴの自己否定であり自殺である。というのも、「遊び方」を誰かが決めるということは、面白い組み合わせ方を子どもが自分で発見するための玩具であるレゴに「正しい遊び方」と「誤った使い方」という虚偽の区分を導入するからである。

 レゴのこのような使われ方は、子どもの想像力を育てることにはならない。さらに、これは、本当の意味における遊びですらない。たとえば、「名人」がレゴで作った作品のようなものを見せられた子どもは、その完成度の高さに意気阻喪し、みずからが自力で作ったものを見すぼらしく感じるであろう、そして、レゴで遊ぶのをやめてしまうか、「作り方」のマニュアルを求めるかのいずれかになるであろう。これは、子どもを育てることにならないばかりではなく、むしろ、子どもを委縮させる点で有害ですらある。

 私自身は、自分だけの小世界をレゴで作り出し、自由な試行錯誤に身を委ねながら長時間を過ごした。それは、「名人」の作るレゴとも、そして、もちろん、レゴランドとも異なる、しかし、まったく私のオリジナルの小世界であり、この意味で、私に幸福を与える世界であった。

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