AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

bustos-756620_1920

人文学は技術的な知識ではないから「役に立たない」

 国立大学の文系学部が廃止されるかも知れないというニュースが流れたのは、昨年の夏のことである。そして、それ以来、文系の諸科学が「役に立つ」のか、「必要」であるのか、また、習得すべきなのは「役に立つ」知識だけであるのか、などの問題が、主に文系の研究者たちのあいだで取り上げられてきた。

 文系に分類されている諸科学のうち、人文諸学(伝統的には、哲学、歴史、文学の三分野からなる)が「役に立たない」ことは確かある。文系の残りの領域、つまり、社会科学には「役に立つ」可能性があるが、それは、社会科学一般が、もともと、自然科学をモデルとして形作られた「社会現象の自然科学」だからであるにすぎない。

 もちろん、多くの人文系の研究者は、次のように主張してきた。すなわち、人間の人間らしい生活を可能にするためには、「実用」にすみずみまで支配された世間の常識を批判的に相対化することが必要であり、ものの見方の相対化のための視点を提供するのが人文学である、したがって、人文学は「役に立つ」、これが研究者たちの主張である。

 しかし、少なくとも表面的に見るなら、これは途方もなく強引な主張であり、説得力を持たない。というのも、一般的に、「役に立つ」という形容詞を述語とする文の主語となることができるものは、何らかの技術ないし手段として有効なものに限られるからである。

 「役に立つ」とは、このような技術ないし手段が適切に使用されることによって到達しうる状態があらかじめ具体的な仕方で約束されていることを意味する。畜産学は畜産の「役に立つ」。水産学は水産の「役に立つ」。金融工学は金融取引の「役に立つ」。そして、これらの場合の「役に立つ」の意味することろは、科学の内容がすべて「ある状態の作り方」に関する技術的な知識にすぎないということに他ならない。(だからこそ、このような技術的な知識を身につけた者は、社会において「役に立つ」「人ー材」、つまり、何らかの道具として有用な存在となるのである。)もちろん、同じような意味において、万葉集やボードレールの研究が何かの「役に立つ」わけではない。万葉集やボードレールの研究が「役に立つ」と主張することが可能になるためには、「役に立つ」という言葉の定義をあらためなくてはならないであろう。

人文学は、「成長」の糧を求める者にとってのみ「必要」であり「役に立つ」

 もっとも、「人文学が何の役にも立たない」という主張は、ある留保を要求するはずである。というのも、人文学が「役に立つ」場合がないわけではないからである。

 たしかに、人文学は、自然科学や社会科学とは比較にならないほど根源的な意味において「役に立つ」。残念なことに、人文学は、万人にとって「役に立つ」わけではないだけである。

 人文学に沈潜することによって何かを得られるのは、人文学に何かを期待する者だけである。これは、人文学を他の諸学から区別する決定的な特徴である。たとえば、地質学や法律学に特別な興味がなくても、あるいは、これらの科学が嫌いであっても、地質学や法律学を無理やり「学ぶ」ことはできる。中立的で客観的な知識の(可能なかぎり系統的な)獲得が「学ぶ」ことの到達目標であり、この「学ぶ」という作業の結果として獲得された中立的で客観的な――したがって、無際限に共有可能な――知識が、最初に述べたような意味において「役に立つ」がゆえに、地質学や法律学は「役に立つ」ものであるともに、「必要」なものでもあるのである。

 ところが、万葉集やボードレールの研究は、地質学や法律学の学習とは異なり、これらの作品の能動的な解釈であり、能動的な解釈の遂行においてみずからの経験の地平を更新する(=ものの見方の枠組を拡張し、成長を促す)作業である。したがって、たとえばボードレールや大伴家持の生年と没年のような中立的で客観的な知識を獲得することが可能であるとしても、これは、いかなる意味においても文学研究ではなく、人文学でもない。文学研究は、文学作品を読み、これを能動的に解釈することにより、みずからの経験の地平を更新し、そして、言葉の本来の意味において人間的に成長することを期待する者たちに対してのみ、その期待に応える何ものかをソッと差し出すものである。人文学とは、本質的にこのようなものである。人文学は、万人によって共有されるべきものではない。それは、経験の新たな地平を求めること、人間らしい人間へと成長すること、本来の己となることを欲する少数者にとってのみ「必要」であり「役に立つ」のである。

 したがって、地質学や法律学の場合、これらを無理やり勉強することが可能であるのに反し、人文学の場合、無理やり勉強することには何の意味もない。文学を読むこと、哲学を読むことに何の期待も抱かず、歴史のうちに暗記すべき情報の寄せ集めしか見出さない者にとり、人文学は、時間とエネルギーの単なる無駄であろう。

人文学への沈潜によりなしとげられる「成長」には決まった到達点がない

 とはいえ、この見解は、次のような反論をただちに惹き起こすであろう。そのような成長なら、他の科学を遂行することによっても可能なのではないか、いや、社会にとって「役に立つ」「人ー材」になることが「成長」の意味なのではないか、という意見は、誰もが思いつくはずのものである。

 しかしながら、人間が人間として成長することは、「人ー材」つまり社会の道具として完成することとは本質的に異なる。

 社会の道具としてみずからを完成させる努力には、あらかじめ到達点が設定され、どのような状態になれば「人ー材」として評価されるのか、本人にその基準がわかっているばかりではなく、この基準は、社会全体において共有されていなければならない。しかし、あらかじめ設定された到達点へと向かうことによって獲得されるのは、「他人と同じようにできるようになること」であり、これを成長と見なすことはできない。

 これに反し、言葉の本来的な意味における成長、つまり、人間らしい人間になること、本来の己になることには、決まった到達点というものがない。到達点が見通せないのではない。そもそも、成長というのは、決まった到達点を目指して努力することによって実現するものではなく、みずからのあり方を反省する絶えざる努力がそれ自体として成長なのであり、みずからの成長は、あとから振り返って初めて感得されるものなのである。

 人文学は、テクストの解釈を通じて経験の地平を更新し、自己へと還帰することを求める少数者の成長にとって「役に立つ」ものであり、「必要」なものなのである。


IMG_8226

 2016年9月29日は、ボールペンを発明したとされるビーロー・ラーズローの「生誕117周年」らしく、Googleのトップページのロゴ(Google Doodle)が下のようなものに替わっていた。
Ladislao José Biro's 117th birthday

 ボールペンか万年筆のいずれか一方を選ぶことを求められれば、私は、ためらいなく万年筆を選ぶ。私は、ボールペンを使いこなすことができないのである。

 ボールペンというのは、名前のとおり、ペンの先に小さなボールがついている。したがって、ペン先の軌跡をコントロールするには、ペン先をそれなりの力で紙に押しつけ、溝を掘るような感じで文字を書き進めなければならない。ところが、これは、筆圧が弱い私のような人間には、苦行以外の何ものでもない。放っておくと、ペンの先が紙の上を勝手に走ってしまうのである。

 小学校のときには、HBの鉛筆が使えず、ずっと2Bを使っていた。(今は、2Bを使う小学生が多いようだが、私の世代では、2Bを使う小学生はほとんどいなかった。)シャープペンの芯も2Bである。筆圧が弱いから、書いた文字の跡が紙の裏に写る心配はなく、したがって、小学校で購入することを求められたプラスチック製の「下敷き」は、私にとっては、うちわの代用品であり、頭にこすりつけて静電気を発生させるオモチャでしかなかった。

 もちろん、これまで、さまざまなタイプのボールペンを試してきたが、今のことろはまだ、使えそうなものは見つからない。筆圧が弱くても文字がきれいに書けることを売りものの一つにしているニードルポイントも、残念ながら、私には使いこなせなかった。

ニードルポイントペンのすすめ【ペンハウス】

いつもの筆記具を違う印象にしたい。オシャレで使いやすいペンを探している。 そんな方へ、ペンハウスのおすすめアイテムをご紹介します。



 万年筆は、ボールペンと比較すると、筆圧の弱い人間にやさしい筆記用具である。ペン先に入れる力の強弱によって文字の太さは変わるけれども、ボールペンのように、紙に突き刺すような力を入れなくても、少しの加減で太さは調節することができる。むしろ、ボールペンの要領で万年筆を使うと、ペン先がすぐに傷むはずである。

 もっとも、私がいつも使っているのは、必ずしも高額な万年筆ではない。「高級」に分類されるようなペンを一応は持っているから、ペン先の金属が上等であれば、書き味もそれに応じて異なることはよくわかる。実際、価格が1000円を下回るような使い捨ての万年筆にはさすがに抵抗がある。
 しかし、残念ながら、「お洒落」として万年筆を集める趣味も甲斐性も私にはなく、安い万年筆を使いつぶし、そのたびに次を手に入れることを繰り返している。私にとって、万年筆は、メインとなる筆記具だから、非常に繊細だったり、普段からメインテナンスを必要としたりするようなものは、むしろ邪魔なのである。

 私が普段から使っているのは、たとえば、「ラミー・サファリ」「ペリカーノ・ジュニア」、あるいはパイロットの「カクノ」などである。これらの名前を見ただけで、マニアなら(悪い意味での)めまいに襲われるかも知れない。私は、「万年筆派」ではあっても、「万年筆愛好家」や「万年筆ファン」とは言えないようである。

万年筆 カクノ | 筆記具 | 万年筆 | 万年筆 | 製品情報 | PILOT


ホーム | ラミー・LAMY

Pelikano® Junior- fountain pen by Pelikan

The Pelikano® Junior learn-to-write fountain pen has a special gripping profile for a perfect grip and a roll-away obstructor on the cap and the barrel.



IMG_6797

 「あなたは今までに何人の最期を看取りましたか。」

 あなたがこの問いに「ゼロ」と答え、しかも、あなたの年齢が40歳以上であり、かつ、介護の経験がないのなら、あなたは、ある意味では幸せであると言える。(この場合の「最期を看取る」とは、臨終にいたるまで病人に付き添って看病することを言う。)

 もちろん、大家族の場合、一緒に暮らしていた者の最期を看取ることは、珍しいことではなく、むしろ、日常を構成する要素であるかも知れない。しかし、現在では、核家族化が進んでいるから、40歳以上でも、誰の最期も看取ったことがない人、つまり、(大抵の場合は高齢の)親族が病気にかかり、そして、亡くなるまでに何らかの仕方で立ち会った経験を持たない人は少なくないであろう。

 現在、私は40代後半であるが、これまでに3人の最期を看取ってきた。この世代としては多い方だと思う。(なお、私よりも年長で、私が生まれたときのことを知る親族は、今はもうひとりも残っていない。)たしかに、これは、貴重な経験であると言えないことはないが、それでも、私のごく個人的な感想としては、親族の最期を看取る行為は、現代では、精神衛生上必ずしも好ましいことではなく、可能であるなら、回避する方がよいものである。

 細部にわたることは一々書かないが、少なくとも、次のようなことは確かであると思う。

 つまり、病を抱えた親族の面倒を、何ヶ月か、あるいは何年か、ある程度以上の期間にわたって最後まで見続けるなら、あなたは、看病される者が病に負け、彼/彼女の「人間性」が試練にさらされ、やがてこれが剥落して行く場面にかなりの確率で否応なく立ち会うはずである。親しい者のそのような姿など目にしたくないと思っても、大抵の場合――あなたが看病しているのは、他に代わる者がいないからであることが多い――あなたは、その場から逃れる自由を奪われており、病院の病室において、あるいは、自宅において、彼/彼女の最後の姿を見守り続けるをえない。これは、大きなトラウマとなる。

x-ray-2117685_1920
 

それほど病が篤くない段階で「お見舞い」に行ったり、臨終の場に立ち会ったりするだけであるなら、誰でも、故人の思い出を美しく心に抱くこともできるであろう。しかし、あなたが「最期を看取る」者であり、特に、逃げ場がない状態で看病を続けた者であるなら、あなたの記憶に鮮明なのは、病に苦しみながら人間性を少しずつ剥落させて行く者の姿であり、病室、手術、点滴、効果のない治療や処置、医者や看護師の(無)表情、検査結果を記した書類、X線フィルム、故人との言い争い、消毒薬のにおいなどであるに違いない。故人との暮らしが何十年にもわたるものであるとしても、また、その何十年かがかけがえのない時間であったとしても、あなたがさしあたり繰り返し思い出すのは、その年月であるというよりも、むしろ、時間的にもっとも近い過去の「看取り」とならざるをえない。かけがえのないはずの何十年かは、これによって封印されてしまう。最期を看取ることは、親しい者ほど避けるのがよいかも知れないと私が考える理由である。

↑このページのトップヘ