AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

Diversity = Beautiful



事件伝える責任を痛感 相模原殺傷、取材した記者の思い:朝日新聞デジタル


 神奈川県相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件については、すでにいろいろなことが語られている。事件と直接には何の関係もない私などには、事件そのものの詳細、あるいは、上の記事のような、当事者の発言について語りうることは何もない。亡くなった方々およびその関係者の方々に哀悼の意を表すことしかできないと思う。

 ただ、これに関連して、非常に気になることが1つある。SNSを眺めていると、加害者の男性に対する誹謗中傷をいたるところで見かけるのである。たしかに、加害者の行動は、明白な犯罪、しかも、障害者への憎悪にもとづく犯罪であり、法律的にも道徳的にも決して許されることではないであろう。

 しかし、加害者が厳しく処罰されるべきであるからと言って、加害者に罵詈雑言を浴びせかけてもかまわないわけではない。加害者を罵る者は、まず、罵る資格が自分にあるかどうかをよく考えてみた方がよいと私は思う。それは、次のようなことである。

  そもそも、民主主義の社会というのは、多様性を認める社会、考え方の違う人間の存在を認める社会であり、したがって、誰もが寛容を義務として引き受けなければならない社会である。今回の事件の加害者には、自分から見て異質な存在を許容することができなかったことは明らかである。

 ただ、現代の日本では、障害者に対する差別を行動で示したり、直接に貶めたりすることは禁止されているが、「障害者との共生」の持つ意義を全面的に否定する発言は自由であるし、障害者を支援する活動に従事することを拒否する自由もある。障害者との共生に対して誰もが肯定的に発言するよう強制されるとしたら、それは、日本国憲法第21条が保証する「表現の自由」の侵害に当たる。また、障害者に対する支援を強要されるなら、それは、「苦役の禁止」を定めた日本国憲法第18条に反するのである。

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 このように考えてみると、あなたの家の隣には、障害者の問題についてあなたとは正反対の考えを持っている人が住んでいるかも知れず、しかも、あなたもあなたの隣人も、相手が自分とは異なる(しかも、あなたから見えると絶対に間違っている)意見を持つことを許容しなければならないことになる。問題は、この非常に不快な状態にあなたが耐えられるか、ということである。

 意見が分かれるのは障害者の問題ばかりではない。ゴミの分別、騒音、社会保障費の抑制、LGBT、安全保障……、ありとあらゆる問題について、自分には到底同意できないような意見に辛抱強く耳を傾けることは、寛容な社会においては万人に課せられた義務である。

 相模原市の事件の加害者に罵詈雑言を浴びせる者は、自分とはまったく異なる意見の持ち主が自分の目の前で自由に考えを表明しようとするとき、罵ったり遮ったりせずに最後まで聴く自信が自分にあるかどうか、胸に手を当てて自分に尋ねてみた方がよいと思う。(私には、そのような自信はない。)

 しかし、自分と異なる意見を許容する度量を持ち合わせているという自信があるなら、加害者の行動は非難しても、加害者の考え方には辛抱強く耳を傾けることができるに違いない。


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 自分の人生を振り返ってみて気づいたことがある。学校や職場など、今まで何度も環境を変えてきたが、それは、「行きたい場所に行く」ためであるというよりも、「いたくない場所を逃げ出す」ためだった、ということである。

 「今の環境もそれなりにいいけど、もっといいところに行きたい」などと考えて環境を変えたことは、残念ながら一度もない。とにかく、自分にとって一番切実な問題はいつでも「どうやってここから逃げ出すか」ということで、基本的にはそればかりを考えて生きてきた。だから、脱出の手順を考える必要がない環境では、アタマがまったく働かない。

 たしかに、これまでの人生の中で(主に逃げるために)努力してやってきたことがそれなりに積み重なっているから、それを実績として前提すると、今後のおおよそのキャリアパスは何となく想像できる。ただし、自分の経歴は全部、いたくない場所を逃げ出して新しい環境に飛び込むことを繰り返しているうちに自然に出来上がったものにすぎないので、未来に自分の目標があるわけではない。無欲なのか計画性がないのかよくわからないが、しかし、そういう人間は多いのではないかとひそかに考えている。

 私の場合、幸いなことに、今の環境は「逃げ出したい場所」ではないが、一般的には、行き当たりばったりに逃げ出していると、じり貧になる危険はある。

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 また、追い詰められなければ何もしないから、当然、「してもしなくてもかまわないこと」については、「しない」という選択ばかりになる。「留学するといいよ」などとすすめられても、留学しないと不利益を被る可能性がなければ、もちろん、留学などしない。結婚についても同じである。しかし、これも人間の自然であって、特に変わったことではないであろう。

 私のような人間には、何らかの「危機感」が必要で、危機感がないと、生産的なことは何もしない。やっていることはただ一つ、つねにアンテナを立て、不穏な気配を察知したら、いつでも身をひるがえして素早く逃げ出せるよう準備を整えておくことだ。幸いなことに、その程度の危機感は、つねに持ち合わせているから、完全に眠り込んだような状態にはならずに済んでいる。

 ところで、何年か前、肥満に危機感を持ち、必死になって運動で体重を落とした。だから、今でも、カロリーは管理し、運動も少しは続けている。(少しノイローゼ気味だが。)今のところ、もっとも気をつかっているのは、職場の人間関係ではなく、老後の資金でもなく、今日の自分の体重なのだが、正直なところ、これはあまり愉快ではない。 

もう20年近く前の秋の初め、西日本の某地方都市に仕事で行き、ホテルに泊まったことがある。

 翌日の朝、もうろうとしたまま、朝食をとるため食堂に行った。(朝食つきのプランだった。)地元資本の貧寒としたホテルの食堂で、これもまた何となく貧しげなセルフサービスの朝食をとって席につき、ボンヤリと周囲を眺めていたとき、今でも忘れられない光景を目にした。

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 すぐ横のテーブルで、高齢の夫婦が、私よりも先に食堂に来て朝食をとっていた。彼らは二人とも、それぞれ1つの大きな皿に料理を盛りつけ、これを箸で食べていたのだが、その同じ皿の上には、コッペパンが載っていた。料理は箸でとるとしても、コッペパンは手でちぎって食べるだろうと思ってぼんやりと眺めていたところ、その二人は、相次いでコッペパンを箸でつまみ、そのまま口に運んだのである。

 これにはさすがに 驚いて、目がいっぺんに覚めた。

 あれから今まで、いろいろなホテルに泊まり、いろいろな飲食店で食事したが、コッペパンを箸で食べる客は見たことがない。 

 ステーキ、カレーなどを箸で食べるというのは見たことがある。ケーキを箸で食べるという知り合いもいた。だから、少しくらいのことでは驚かない。それでも、パンを箸で食べる光景には違和感を覚えた。

 本人たちのつもりとしては、パンはコメの代用品であり、主食だから箸で食べるのに何の不都合もないということなのだろう。(「パンは主食」というのは、本当は正しくないのだが、ここでは問題にしない。) 

 それでは、ステーキやケーキは箸で食べる日本人が一定数いるのに、なぜ箸でパンを食べることには違和感を覚えるのか。理由はいくつか考えられる。

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 まず、パンは、箸でちぎることが難しい。したがって、一口サイズにあらかじめ切り分けられていれば、箸で食べることに違和感はないかも知れない。

 さらに、欧米では、パンはステーキが食べものであるというのと同じ意味で「食べもの」と見なされているか、少し微妙である。パンというのは、料理の添えものであって、伝統的なヨーロッパの食卓では、いわば「食べられるカトラリー」として扱われてきたと言うことができる。したがって、16世紀以降、イタリアから始まってフォークがヨーロッパに普及し、手づかみの食事が姿を消す過程でも、パンについてだけは手で食べる習慣が残ったのは、食卓での位置づけが曖昧だったからであるに違いない。「パンは主食」が間違いであるというのは、こういうことである。もっとも、日本では、パンは「主食のようなもの」として扱われてきたから、このような見方は当てはまらないかも知れないが。

 実際、いくら日本人でも、 ピッツァを箸で食べることはないのではないかと思うが、それは、ピッツァがパンに似ているからであると考えることができる。また、ハンバーガーやサンドイッチを箸で食べるというのも、聞いたことがない。(もっとも、前に書いたことが正しいとすると、一口サイズのサンドイッチなら箸で食べる日本人がいる可能性はある。)

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