AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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通りすがりに入ったカフェがテレビで紹介された店だった

 今日の午後遅く、移動中に東京都心のあるオフィス街を徒歩で通過した。たまたま、次の予定までに1時間ほど時間が空いていたため、近くにあったカフェに入った。

 カフェのガラス戸を開けたとき、中から店員がやってきて、人数を不安そうな顔で私に尋ねた。私が「1人」と答えると、少し安心したような顔になって、すぐに席に案内してくれた。

 なぜ店員の顔に懸念の色が現われていたのか、そのときにはわからなかったけれども、席に着き、コーヒーとホットケーキ(←その店の名物の一つのようであった)を注文してから周囲を見渡してみて、その理由が何となくわかってきた。店の壁に、テレビ番組の取材で訪れたと思われる芸能人の色紙が何枚も飾られていたのである。

 色紙をよく見ることで、異なる番組の取材で異なる芸能人が異なる時期に店を訪れたことがわかった。つまり、この1年くらいのあいだに、テレビ番組でこの店が何回か紹介されているということなのであろう。私自身は、問題の番組を1つも見ておらず、当然、その店がテレビで紹介されたことも、壁に飾られた色紙を見るまで気づかなかったけれども、当然、大半の客にとり、この店を選ぶ理由は、「テレビで紹介されていた店」である点にあると考えるのが自然である。

 実際、私が店に入ることができたのは、幸運だったようである。私が店に入ったとき、店は1人分の席1つを除きすべて埋まっており(←客は私以外は全員女性)、そこに私がすべり込んだことになる。私が店に入った直後、店の外に10人近い行列(←全員女性)が一度に出来上がり、私が店を出るときにも、行列(←全員女性)は完全には消えていなかった。私は、行列がちょうど途切れたタイミングで店にすべり込んだことになる。

 店の入口で私を迎え撃った店員の顔が不安そうだったのは、客が複数名だった場合、路上で待つように言わなければならないと覚悟していたからに違いない。(それにしても、私が一人でこのタイプのお洒落なカフェに入ると、ほとんどの場合、なぜか「便所の隣」「レジの前」「厨房の出入り口」などに坐るよう求められる。今日も店でも、私が坐らせられたのは、厨房の出入り口であった……。なぜこのような条件の悪い、うるさい席に坐らせられるのか、これは私にとっては謎である。)

「行列に並んでまで」店に入りたいのか、それとも「行列を作るのが楽しい」のか

 私自身は、行列が大嫌いであり、一人のときには、飲食店の前に行列ができていたら、行列があるということを理由にその飲食店には近づかない。誰か知り合いと一緒に飲食店に出かけ、そこで列を作って順番を待たなければならなくなったときにも、基本的には、並ばずに入ることができる別の店を探す。考えが少し古いようであるけれども、商店や飲食店の前にできる行列というのは、社会の貧困の証のように思われるのである。おそらく、戦後間もない時期の日本の行列や、旧ソ連の行列を映像で何度も見ているからであろう。だから、列に並んで順番待ちしている客に気持ちが私にはわからない。

 しかし、形式的に考えるなら、列を作る理由は、次の2つに限られるように思われる。すなわち、順番待ちしてまで食べたいもの、あるいは、手に入れたいものが店にあるからであるか、あるいは、知り合いと一緒に列を作って順番を待つことがそれ自体として楽しいのか、これら2つ以外に理由は認められないはずである。

 テレビで紹介されていたという理由で客が殺到することが店にとってありがたいのかどうか、私にはわからないけれども、そのような客が常連となり、繰り返し店を訪れることは必ずしも期待することができないことは確かである。私自身は、自分が実際に訪れて居心地のよさを覚えた店を何回も訪れることが、店に対する礼儀であるような気がしている。今日の午後のカフェの前には、しばらくはまだ、テレビを見て訪れる客が列を作っていることであろう。私は、当分のあいだ、この店に行く予定はないけれども、テレビで紹介されたことが忘れられ、少し客が減ったころ、あらためて行ってみるつもりである。

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 先週、次のニュースを見た。

パナマが台湾と断交 中国と国交樹立 - BBCニュース

 中米のパナマが中華人民共和国と国交を結び、同時に、台湾と国交を断絶したという非常に残念なニュースである。

 1970年代までは実質的にどうであったかわからないが、少なくとも、現在では、台湾は、形式的にも実質的にも民主主義国家である。自由と民主主義に意義を認め、この認識とわが国と共有する国家と協同することが日本人と日本政府の原則であるかぎり、台湾は、東アジアの諸国の中で、日本の支援にもっともふさわしい国家であると言うことができる。

 日本の国内に「中共びいき」がどのくらいいるのか知らないが、また、そもそも、「中共びいき」なるものがありうるのかどうかもまた、私にはわからないが、中華人民共和国か台湾かの二者択一を迫られたら、日本人はほぼすべて、心情的には台湾の味方につくことになるのではないかと思う。日本は目に見える形で台湾を積極的に支援すべきであると私は考え、台湾をめぐる環境の悪化、具体的には、台湾に対する中華人民共和国の不正な攻撃が明白であるにもかかわらず、これを不正と明言することも非難することもないわが国の政府の態度には少なからぬいらだちを覚えている。

 特に、今回のパナマについては、台湾から長期間にわたり各種の援助を受けてきたにもかかわらず、カネに転んだのであり、カネに公然と転ぶことがそのまま許されるような国際秩序を放置することは、日本とっても世界にとっても有害であるように思われる。

 実際、上の記事には、次のように記されている。

台湾の外交部(外務省に相当)は声明で、パナマが「北京当局の経済的利害に屈した」と非難した。

声明はさらに、パナマが両国間の「長年にわたる友好関係を無視した」とし、台湾は「北京当局の金銭による外交と競争することはしない」と述べた。

 もちろん、国際政治の現実の場面では、カネが意思決定を左右することが少なくないことはよく承知している。それでも、たとえばアメリカは、中華人民共和国とは異なり、自国の対外政策のすべてに(レトリックを用いて)「正義」の名を与えるだけの手間はかけている。(日本政府は、今回の出来事に関し、パナマに対して経済制裁を課してもよいのではないかとすら私は考えている。)

 台湾は、わが国の周辺諸国の中では唯一の親日国であり、現在では、わが国が台湾から攻撃される事態は想定されていない(はずである)。しかし、それだけに、台湾が中華人民共和国に呑み込まれるようなになれば、わが国の安全はいちじるしく脅かされることになる。沖縄の安全保障上の役割は、今の何倍も大きくなるであろうし、沖縄に駐留するアメリカ軍の規模もまた、縮小されないばかりではなく、反対に、必ず拡大されるはずである。

 日本人の平均的な価値観を基準とするなら、台湾の方が中華人民共和国よりも「よい」国であることは明らかである。だから、台湾を応援することが政府にはできないのなら、私たち一人ひとりが――大したことはできないとしても――台湾を訪れたり、台湾製のものを積極的に購入したり、台湾人を支援したりすることにより、台湾を応援しなければならない。私自身、普段から、選ぶことができるものについては、”made in Taiwan”の製品を購入するようにしている。

 大切なことは、台湾に注意を向け続け、台湾を国際社会の孤児にしないように手を差しのべ続けることであり、そのために何ができるかを私たち一人ひとりが模索し続けることであるように思われる。

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興味のないことについて「やらないことの言い訳」を探すことはない

 何かをやってみたいとき、私は、できないことの言い訳をすぐに探してしまう。できないことの言い訳を見つけることに関するかぎり、私は――そして、おそらく誰でも――天才的な能力を発揮する。

 「やりたい」「やってみたい」という意欲が心に一瞬だけ浮かび、しかし、次の瞬間にはもう、私は、できないことの言い訳を探している。いや、場合によっては、目指す言い訳に辿りついていることもある。だから、ある計画について、本当にやりたいことなのかどうか、見きわめることは容易ではない。

 確実なことがあるとするなら、それはただ一つ、興味のないことについては、やらないことの言い訳をあえて探さないということである。そもそも、興味のないことについては、心に浮かぶことすらないから、「やってみようか」と考える機会すら最初から訪れないのである。

「やらないことの言い訳」は、大抵の場合、合理的である

 もちろん、やらないことの言い訳を探すとき、対象となっている事柄のすべてが私にとってやりたいことであるわけではない。本当にやりたくないこと、あるいは、本当にできないことは誰にでもあるからである。たとえば、私は、酒が飲めない。だから、誰かから酒を飲むよう求められれば、相手によっては、飲まないことの言い訳を探すことになる。相手を説得するためである。

 しかし、言い訳というのはすべて、自分または他人を何らかの意味において説得することを目指すものであるから、当然、それなりに合理的であるのが普通である。そして、この合理的な外観は、言い訳の一つひとつが覆い隠している欲求や関心というものが自分にとってどのくらい価値あるものであるのかを分かりにくいものにしている。

「やらないこと」が手段にかかわる場合、言い訳によって否定された欲求や関心は「かけがえがある」

 言い訳によって覆い隠された欲求や関心が自分の本当の欲求や関心であるのか、本当にやりたくないことであるのか、あるいは、ただ実行の可能性が心に浮かんだにすぎないことであるのか、これを判別する簡単な方法がある。それは、「やらないことの言い訳」に対応する当の事柄が、私にとって何らかの「目的」であるのか、それとも、それ自体は目的ではなく、別の目的を実現するための「手段」にすぎないのかを確認することである。

 私が探しているのが、手段となる何ごとかを実行しない言い訳であるなら、その言い訳は、何らかの目的を実現するためにその手段を選びたくない理由であり、したがって、代案を見出すことができるかぎりにおいて、それは正当である。

 これに対し、私の言い訳が「目的」にかかわるものであるなら、つまり、「やらないことの言い訳」を探している当の事柄が何か別の目的を実現するための手段ではなく、それ自体として私の関心や欲求を惹くものであるなら、「やらないことの言い訳」が覆い隠すのは、私が本当にやりたいことである。この場合、「やらないことの言い訳」を探してはならないことになる。

 もちろん、目的と手段の関係は相対的なものであり、私の欲求や関心の対象となるのは、大抵の場合、目的でもあり手段でもあるような何ものかである。ただ、何らかの目的を実現するための手段にすぎぬものであるとしても、その目的が私にとって必ずしも明瞭ではない場合――つまり、手段としての性格が相対的に希薄である場合――私は、これを目的と見なすことが許される。反対に、何かの手段として、目的との関係が明瞭な仕方で意識に上る場合――つまり、目的としての性格が相対的に希薄である場合――には、「別の選択肢」を検討することが可能であるに違いない。

 「やらないことの言い訳」は、私の心の中から際限なく湧いてくる。そして、この言い訳は、私が新しい一歩を踏み出すことを妨げる。もちろん、言い訳のおかげで危険や破滅を免れることが可能になることがないわけではない。しかし、それだけに、一つひとつの言い訳が斥けようとしているものが何であるのか、これを丹念に吟味することは、私が本当にやりたいこと、本当の欲求、本当の幸福を見出し、幸福な人生を送るために不可欠の作業であるように思われる。

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