AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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 本を読みすぎると、ものを考える力が損なわれる。これは、古代から現代まで、多くの知識人が繰り返し強調してきた点である。

 書物というのは、他人の思索の成果である。だから、読書とは、他人の思索の成果をそのまま受け容れることを意味する。しかし、私にどれほど似ている他人であるとしても、やはり、他人の思考の枠組みは、私の思考の枠組みとは異なる。著者が考えたことを著者の身になって理解することは、精神の力を消耗させるとともに、自分にもともと具わっていた枠組み、つまり「本当の自分」のようなものを掻き消してしまう……、読書を否定的に評価する人々の見解の最大公約数は、このように表現することが可能である。

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 この「本の読みすぎ」の最大の犠牲者として文学史に登場するのが、セルバンテスの長篇小説『ドン・キホーテ』の主人公である。彼は、中世を舞台とする騎士道物語を来る日も来る日も読み続け、そのせいで、自分の本当の姿を見失い、自分が騎士「ドン・キホーテ」であると思い込むようになった人物である。騎士道の世界に完全に憑依され、狂気の世界に迷いこんだ主人公には、目に映るもののすべてが騎士道物語を構成する要素となる。これは、読書の過剰が惹き起こす、滑稽でもあり悲惨でもある一つの症例であると言うことができるかもしれない。

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

 それでは、読書の害悪から逃れるにはどうしたらよいのか。

 もっとも簡単な、そして、基本的には唯一の方法は、本を読むのをやめ、(もちろん、スマホをいじるのをやめ、)他人の言葉に耳を傾けるのをやめることである。そして、掻き消されてしまった「本当の私」が私の内部で声をあげるようになるのをじっと待つことである。

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 この「待つこと」とは、何かを待ってはいるが、何を待っているのかよくわからない「待つこと」である。もちろん、私が待っている相手は、私――「本当の私」――以外ではありえないのだが、その私の正体は、さしあたり、私にはわからない。また、いつ私が姿を現すのかも、私にはわからない。この意味において、私は、不安に満ちた待機――ただ待つだけ――の時間を経験することになるはずである。

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命まで奪われることはないという意味では「やり直しがきく」は正しいが……

 「人生で失敗しても、何度でもやり直せる」という意味の言葉を耳にする機会は少なくない。たしかに、現在の日本に範囲を限るなら、「何かあってても生命まで奪われることはまずない」という意味では、失敗することは、それ自体としては、決定的な破滅を必ずしも意味しない。このかぎりにおいて、失敗してもやり直しがきくという意見は、誤りではないと言うことができる。

 しかし、何かが上手く行かなかったとき、「やり直しがきく」が真であるためには、2つの条件が必要となる。これら2つの条件のうち、いずれか一方でも欠いているとき、失敗は、人生のある範囲ないし局面では決定的な破滅を意味することになるように思われる。

「やり直しがきく」ための条件[1]:自分の本当の目的を知る

 第一に、何かに失敗したときには、失敗した当の事柄をそれ自体として目指していたのかを最初に確認すべきである。具体的に言い換えるなら、(1)何かに失敗したとき、失敗したこと自体が目的であったであったのか、それとも、(2)失敗したことは、別の何かを実現するための手段にすぎず、本当の目的は他にあるのか、この点をみずからの心の中で明確にすることが必要となる。

 実際には、上記の(1)であることは稀であり、ほぼすべての場合において、何かを実現するための手段を獲得することができなかったことが深刻な「失敗」と誤って受け取られている。だから、失敗を振り返り、これを実現することで自分が何を得ようとしていたのかを明らかにし、この目的を実現するための他の合理的な手段を探せばよいだけのことである。

 失敗が破滅と受け止められてしまうのは、(1)最終的な目的について真剣に考えることなく、(2)手段の獲得が自動的に何かを実現してくれるという漠然とした期待のみにもとづいて手段が標的となり、しかも、(3)その手段の獲得に失敗するからである。

「やり直しがきく」ための条件[2]:「やり直し」にはそれなりのコストがかかることを理解する

 第二に、私たちが承知しなければならないのは、「やり直し」、つまり、最終的な目的を別の手段によって実現することは、ほぼあらゆる場合において可能であるとしても、この「やり直し」には、相当な覚悟が必要となるという事実である。場合によっては、途方もなく大きな努力や、途方もなく多額の金銭の負担を避けられないであろう。だから、上で述べたように、本当に実現したいものがあらかじめ明確でないかぎり、この負担には耐えられないはずである。

 そもそも、何かを実現するために最初に選ぶ手段というのは、考えうるすかぎりのべての選択肢のうち、時間、体力、費用などの点でもっとも負担の軽いものであるのが普通であるから、この手段の獲得に失敗し、他の道を行くかぎり、負担が増えるのは仕方がないことである。

視野を広げて自分を見つめなおすことが必要

 会社で出世することであれ、大学入試に成功することであれ、宇宙飛行士になることであれ、プロ野球選手となってジャイアンツでプレーすることであれ、それ自体が目的であるわけではなく、いずれも何か別の目的を実現するための手段にすぎず、また、この目的を実現する手段は、つねに複数、いや、無限にある。他の手段が思いつかず、何かに失敗するとすぐに「破滅」の二文字が心に浮かぶのは、視野が狭くなってしまっているからにすぎないのである。

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 私は、イベントとしての学会が好きではない。学会で研究発表を聴くのも好きではないし、自分で研究発表するのも好きではない。もちろん、「総会」など、何のためにあるのかほとんど理解することができないし、「懇親会」の三文字にいたっては、もはや「この世の地獄」の同義語でしかない。

 それでも、年に何回かは、学会に参加し、会場になったどこかの大学の教室の片隅で冷や汗を流しながら何時間かを過ごすことがある。

 とはいえ、ただ発表を聴くのは、退屈でもあり、苦痛でもある。そもそも、研究者の仕事は、他人の話を聴くことではなく、みずからが何かを公表することである。当然、他人の研究発表を聴くのが好きな研究者は多くはない。だから、何か質問をひねり出して発表者にぶつけることで、苦痛を紛らわせることがある。(人文系の学会で個人の研究発表に対して行われる質問の大半は、黙っていることの苦痛から逃れることを動機とするものであるような気がしてならない。)

人文系の学会での個人の研究発表の実質は、発表原稿の「読み合わせ」

 社会科学や自然科学についてはよく知らないが、人文科学(歴史を除く)の場合、学会では、研究発表の前に要旨または発表原稿が事前に(あるいは会場で)配布され、発表者は、要旨または原稿に従って発表するのが普通である。

 要旨や原稿が配布されるのは、これが発表の内容を聴衆に理解させるのに有効だからというよりも、むしろ、発表に続く質疑応答や討論の資料として必要だからである。(要旨も原稿も配布せずに発表すると、聴衆から苦情が出ることがある。)

 自然科学上の新しい発見があると、テレビのニュース番組で、パワーポイントによるスライドを背にして学会の会場で何かを説明する発表者の姿が画面に映し出されることがあるけれども、人文科学系の学会(歴史を除く)では、個人の研究発表でパワーポイントが使われることは滅多になく、したがって、あのような光景に出会うことは稀である。そもそも、人文系の場合、何か新しい発見があっても、研究発表という形でこれが公になることはないということもある。(「研究の成果」ではないからである。)

 人文科学系の学会での普通の研究発表では、どこかの大学の教室で、教卓の前に発表者が立ち、聴衆がこれに向き合うように学生の席に陣取り、事前に配布された発表原稿の「読み合わせ」を全員で行い、その後、この発表――というよりも原稿――について参加者が討論することになる。日本人でも外国人でも、この点に関し違いはない。

[1]専門外のテーマの研究発表で質問するオーソドックスな方法

 研究発表を聴き、そして、質問する手順としてもっとも正統的なのは、発表原稿を受け取ったら、パラグラフごと、あるいは節ごとに(発表を聴かずに、あるいは、発表を聴きながら)内容をまとめ(て原稿の欄外にメモして行き)、発表原稿の論旨が形式的、論理的に整合的であるかどうかを批判的に吟味することであり、飛躍や矛盾が認められる場合、発表が終わったあとに、質問の形でこれを指摘することである。(これは、学会ばかりではなく、大学の演習等で行われる学生の発表に対しコメントする場合の基本的な技術でもある。)

 だから、個人の研究発表のあとでよく耳にする質問は、「○○ページには……と書いてあるのに、××ページでは……となっているが、どうして前者が後者の根拠になっているのかわからないし、むしろ、……という可能性が排除できないのではないか」(←このような細かい質問は、発表者が手にしているのと同じ原稿を聴衆が持っていなければ不可能である)という形式を具えていることが多い。また、このような質問には、発表内容に精通していなくても、発表者の原稿に寄生する形でもっともらしいコメントをすることができるという利点もある。

[2]研究発表の細部がわからなければ、一般的な了解と比較する

 とはいえ、発表の内容に不案内であるとしても、ここで使われるテクニカルタームや固有名詞について最低限の観念を持っていなければ、オーソドックスな質問はできない。それでも、発表者に何か質問したいのなら、一般的な概念あるいは了解に訴えることにより、大抵の場合、質問することが可能である。

 人文系の学会における研究発表では、表向きのテーマが具体的な人物や作品であるとしても、このような具体的なものは、必ずそれなりに普遍的なトピックとの関連において取り上げられる。

 したがって、発表者が標的とする普遍的なトピックがわかるなら、発表の細部が理解不可能でも、発表者がこのトピックに関して提示した了解(=結論)と、一般的に通用している了解を比較することにより、「あなたの結論は……だが、この問題は、一般には……と考えられており、また、それには相応の理由があると思うのだが、この点についてどう考えるか」という形式で質問することができる。

質問せず、黙って坐っている方が発表者には親切

 ただ、発表者にとっては、未知の聴衆からの、しかも好意的とは言えない質問は、決してありがたいものではない。また、上記の[2]のスタイルの質問は、形式的には必ず問われねばならない重要な問いではあっても、現実の発表の場では、必ずしも生産的な議論への刺戟とはならない。(専門分野が過度に細分化されているからであろう。)

 だから、発表者と面識があるのでなければ、基本的には黙っている方が発表者のためになることは間違いないように思われる。

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