AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

toshogu-shrine-477813_1920

興味のないことについて「やらないことの言い訳」を探すことはない

 何かをやってみたいとき、私は、できないことの言い訳をすぐに探してしまう。できないことの言い訳を見つけることに関するかぎり、私は――そして、おそらく誰でも――天才的な能力を発揮する。

 「やりたい」「やってみたい」という意欲が心に一瞬だけ浮かび、しかし、次の瞬間にはもう、私は、できないことの言い訳を探している。いや、場合によっては、目指す言い訳に辿りついていることもある。だから、ある計画について、本当にやりたいことなのかどうか、見きわめることは容易ではない。

 確実なことがあるとするなら、それはただ一つ、興味のないことについては、やらないことの言い訳をあえて探さないということである。そもそも、興味のないことについては、心に浮かぶことすらないから、「やってみようか」と考える機会すら最初から訪れないのである。

「やらないことの言い訳」は、大抵の場合、合理的である

 もちろん、やらないことの言い訳を探すとき、対象となっている事柄のすべてが私にとってやりたいことであるわけではない。本当にやりたくないこと、あるいは、本当にできないことは誰にでもあるからである。たとえば、私は、酒が飲めない。だから、誰かから酒を飲むよう求められれば、相手によっては、飲まないことの言い訳を探すことになる。相手を説得するためである。

 しかし、言い訳というのはすべて、自分または他人を何らかの意味において説得することを目指すものであるから、当然、それなりに合理的であるのが普通である。そして、この合理的な外観は、言い訳の一つひとつが覆い隠している欲求や関心というものが自分にとってどのくらい価値あるものであるのかを分かりにくいものにしている。

「やらないこと」が手段にかかわる場合、言い訳によって否定された欲求や関心は「かけがえがある」

 言い訳によって覆い隠された欲求や関心が自分の本当の欲求や関心であるのか、本当にやりたくないことであるのか、あるいは、ただ実行の可能性が心に浮かんだにすぎないことであるのか、これを判別する簡単な方法がある。それは、「やらないことの言い訳」に対応する当の事柄が、私にとって何らかの「目的」であるのか、それとも、それ自体は目的ではなく、別の目的を実現するための「手段」にすぎないのかを確認することである。

 私が探しているのが、手段となる何ごとかを実行しない言い訳であるなら、その言い訳は、何らかの目的を実現するためにその手段を選びたくない理由であり、したがって、代案を見出すことができるかぎりにおいて、それは正当である。

 これに対し、私の言い訳が「目的」にかかわるものであるなら、つまり、「やらないことの言い訳」を探している当の事柄が何か別の目的を実現するための手段ではなく、それ自体として私の関心や欲求を惹くものであるなら、「やらないことの言い訳」が覆い隠すのは、私が本当にやりたいことである。この場合、「やらないことの言い訳」を探してはならないことになる。

 もちろん、目的と手段の関係は相対的なものであり、私の欲求や関心の対象となるのは、大抵の場合、目的でもあり手段でもあるような何ものかである。ただ、何らかの目的を実現するための手段にすぎぬものであるとしても、その目的が私にとって必ずしも明瞭ではない場合――つまり、手段としての性格が相対的に希薄である場合――私は、これを目的と見なすことが許される。反対に、何かの手段として、目的との関係が明瞭な仕方で意識に上る場合――つまり、目的としての性格が相対的に希薄である場合――には、「別の選択肢」を検討することが可能であるに違いない。

 「やらないことの言い訳」は、私の心の中から際限なく湧いてくる。そして、この言い訳は、私が新しい一歩を踏み出すことを妨げる。もちろん、言い訳のおかげで危険や破滅を免れることが可能になることがないわけではない。しかし、それだけに、一つひとつの言い訳が斥けようとしているものが何であるのか、これを丹念に吟味することは、私が本当にやりたいこと、本当の欲求、本当の幸福を見出し、幸福な人生を送るために不可欠の作業であるように思われる。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

flats-1208304_1920

タワーマンションの高層階に住んでいて火事になったら助からない

 6月14日にロンドンのノース・ケンジントンにある24階建ての公営住宅Grenfell Towerで火災が発生したようである。(次の記事には27階建てとあるが、正確には24階建てらしい。)

英国の27階建タワマンで火災、崩壊の危険も | 日テレNEWS24

 多くの死傷者が報告されており、この種の火災の被害としては非常に大きいと言うことができる。

 今回の火災が起った建物は24階建てであり、周囲のどの建物よりも高いという意味では高層であるけれども、東京の都心にあるいわゆる「タワーマンション」が40階建て、50階建てであることと比較するなら、必ずしも高層というわけではない。(日本の常識では、24階建ての集合住宅は「タワーマンション」とは呼ばれない。)

 それでも、建物の内部における上下の移動手段が階段だけであったなら、24階という建物はありうべからざるものであったに違いない。24階の住人には、地階から24階分を上ることなど物理的に不可能だからである。(24階から地階まで下る方も、ほぼ不可能である。)

暮らすなら断然低層階

 高層マンションの場合、眺望の点で高層階の方がすぐれているのが普通である。だから、階数が上るとともに住戸の価格もまた、これに比例して上がることになる。けれども、安全を考えるなら、住戸は低層階にあるほど好ましいように思われる。

 たしかに、階段を上り下りするスピードを競うスポーツにとっては、超高層建築物は魅力的であるのかもしれない。

Vertical World Circuit

 しかし、暮らしやすさと安全を考慮するなら、集合住宅を高層にしなければならない理由は、土地の効率的な利用以外には考えられない。

 私自身、現在は、一戸建てに暮らしている。また、かつては、いくつかの集合住宅で暮らしたけれども、これまででもっとも高い部屋は7階にあった。1階とのあいだを階段で往復することができる階数としては、私の場合、7階が限度であったように思う。

地べたに足がついていると安心する

 東京で生まれ、東京で暮らしている者にはふさわしくない発言になるかも知れないが、私は、できるかぎり「地表面」に近いところで暮らしたいといつも考えている。これは、「土と触れ合う」というようなことではなく、地べたに足をつけることができるところにいないと、何となく落ち着かないのである。私の自宅の周辺は、路面がそのまま本来の地面になっている。また、私の職場やその周辺も、路面がただちに地面であり、舗装の下を掘れば、自然の土砂が現われる。

 ところが、東京には、人工地盤がいたるところに造成され、そのせいで、もとの地表面の姿が掻き消されてしまった地域がある。典型的なのは六本木である。六本木ヒルズも、東京ミッドタウンも、いずれも大規模な人工地盤の上に造られたエリアであり、もとの地表面がどのレベルであるのか、もはやわからなくなっている。特に六本木ヒルズは、もともと低地だったところを人工地盤によって嵩上げして生まれた空間であり、六本木に行くたびに、特に六本木ヒルズの方面に足を向けるたびに、何か落ち着かない気持ちに襲われる。

 「地べた」がどこにあるかを確認し、これとほどよい距離をとることは、人間にとり、自分の身体をスケールとする空間感覚を身につけるのに必要な条件となっているように思われる。だから、この意味においても、集合住宅で暮らすなら、低層階の方が好ましいように思われる。タワーマンションの高層階で暮らすことは、自分の身体感覚、周囲にあるものとの距離を把捉する能力を損ねることになるような気がしてならないのである。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

jimmy-bay-203705

「うちの嫁」の強烈な違和感

 自分の妻のことを第三者に語るのに「うちの嫁」という表現を使う男性を私が初めてテレビで見たのは、もう10年以上前のことであったと思う。そして、この「嫁」という語の用法は、私に強烈な違和感を与えた。

 そもそも、「うちの嫁」という表現が指し示すのは、男性の場合、自分の息子の配偶者でなければならない。したがって、「うちの嫁」という言葉が有意味であるためには、自分に息子がいること、そして、この息子が既婚であることが必要である。なぜ自分の配偶者を「うちの嫁」と呼ぶことが許されるのか、私にはまったく理解することができなかった。今でも理解することができない。

 私は独身であり――そのせいなのかどうかわからないが――私の周囲にも独身者が多い。自分の配偶者のことを話題にすることができる者が周囲に少ないのだから、「うちの嫁」などという言葉に出会う機会は、幸いなことに、さらに少ないことになる。しかし、世間では、「嫁」のこの誤用は、かなり広い範囲に蔓延しているようである。

既婚の女性が自分の夫を指し示すのに「うちの婿」という表現を使ったら

 「嫁」という語のこのような使用が不適切であることは、反対の場合を心に描くことにより、ただちに明らかになる。すなわち、既婚の女性が「うちの婿」という表現を用いて自分の夫を指し示すなら、「婿」という語のこの用法は、明らかな誤りとして受け止められるに違いない。

 男性は自分の妻を「うちの嫁」と呼んでもかまわないが、女性が自分の夫を「うちの婿」と呼ぶのは、誤用と見なされる。「うちの嫁」と「うちの婿」の用法のあいだに認められるこの差異は、生活における男女の役割の非対称性を雄弁に物語る。

正しい意味での使用の減少

 現在では、「お」という接頭辞も「さん」という接尾辞もともなわない単なる「嫁」という言葉が本来の意味において使われる機会は多くはないであろう。この言葉が使われる典型的な場面は、舅や姑が他人に対して息子の配偶者のことを語るときであるけれども、息子の配偶者を「嫁」の一言で片づけることを自然と受け止める舅や姑というのは、現在では少数派に属するはずだからである。

 さらに、少し冷静に考えるなら、「嫁」のこの本来の用法は、独立したものではなく、舅や姑の「嫁観」(?)の反映として受け取られるべきものであることがわかる。たとえば、息子の配偶者を「嫁」と表現するような舅や姑なら、当然、自分の息子の配偶者、つまり言葉の本来の意味における嫁の名を呼ぶとき、「花子さん」などとは言わず、「花子」と呼び捨てにするはずである。息子の配偶者の名を呼び捨てにするというのは、息子の配偶者に対するある態度の反映であり、特定の「家庭観」の反映なのである。だから、舅や姑が減少し、これとともに、「嫁」という語もまた、本来の意味において使われなくなってきたと考えるのが自然である。

「うちの嫁」が前提とする家庭観は「江戸しぐさ」のようなもの

 単独で使われる「嫁」という語がこのような古い家庭観を背負うものであるとするなら、「うちの嫁」という表現を妻に関して用いるとき、男性は、何らかの古い家庭観の枠組みの内部における「嫁」の位置や役割を自分の妻に対し――大抵の場合、不知不識に――期待していることになる。

 とはいえ、「うちの嫁」などという表現によって妻を指し示す男性がこの表現の背後に漠然と認めているのは、歴史的な「古い家庭観」ではない。妻を「うちの嫁」と呼ぶ夫が漠然と心に描く家庭とは、夫と妻の役割分担が明瞭な空間、妻を中心として家庭が整然と組織され、妻の役割や権限が夫によって十分に尊重されている空間である。そして、「うちの嫁」という表現が妻の位置や権限を尊重する文脈において用いられることが多いという事実は、この表現を使う男性が、「嫁」の語の使用が前提とする家庭の姿を「かつては日本のどこにでもあった古きよき家庭」の姿と見なしていることを教える。

 ただ、このような家庭は、皆無であったわけではないとしても、少なくともわが国の歴史では、「かつては日本のどこにでもあった」ものなどではなく、わざわざ探さなければ見つけることなどできない例外的少数である。「うちの嫁」という表現を支える家庭観が支配的になったことは、わが国の歴史では一度もないはずである。この意味において、「うちの嫁」という表現の使用が前提とする家庭観は、歴史に根拠を持たぬもの、あの「江戸しぐさ」に似た一種のフィクションであると言うことができる。

 既婚の女性は、「うちの嫁」として語られるたびに、架空の家庭観をソフトな仕方で押しつけられていることになる。だから、この押しつけに不満を覚えるのなら、そのような女性は、自分の夫のことを「うちの婿」と表現することでこれに抵抗すればよいと私は考えている。「うちの婿」という表現が使われることにより、「うちの嫁」の四文字からなる記号は不透明なものとなり、この記号が担う枠組みのフィクティシャスな性格を否応なく明らかにするはずである。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

↑このページのトップヘ