AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

 夕方、近所を散歩していると、犬を連れた主婦や老人とすれ違うことが多い。以前に投稿した下の記事に書いたように、私は、血統書のある純血種の犬をあまり好まない。


ペットを「買う」ことへの違和感 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

愛玩動物に占める純血種の割合が増えているような気がする これまでの人生の中で、私は、何種類かのペットを飼ってきた。特に期間が長かったのは犬とネコであり、犬とネコのそれぞれとは、10年以上暮らした経験がある。 ただし、私が一緒に生活した犬とネコはいずれも、直


 私の目には、純血種の小型犬の飼い主の多くは、自分の飼い犬を「メシを食うインテリア」と見なしているように映る。飼い犬に対する飼い主の愛情を数値で表現するなら、この数値は、何十年か前とくらべ、明らかに小さくなっているはずである。

 たしかに、飼い主は、「犬は家族の一員」と言うであろう。しかし、多くの飼い主、特に比較的若い飼い主にとっては、犬が「家族の一員」であるのは、犬が迷惑や面倒を飼い主にかけないかぎりであるにすぎない場合が多いように思われる。(散歩するときの犬に対する態度を観察すれば、この点は容易に確認することができる。若い飼い主の中は、自分が連れている犬に注意を向けず、場合によっては、スマートフォンを無心でいじっている者が少なくない。犬を散歩に連れ出すのは、面倒な雑用の一つにすぎないのであろう。ことによると、家庭内の雑用を確実に一つ増やす犬に対して知らずしらずのうちに憎悪を抱いている飼い主すらいる可能性がある。)

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 このような家庭で飼われる犬の身になり、その日常を想像してみたことがあるが、それは、途方もなくさびしく、また、途方もなくわびしいものである。

 飼い犬の多くは、生まれたときに一緒だった親や兄弟から自分の意向に反して引き離され、何の縁もない飼い主のもとに、しかも、場合によっては金銭との交換で連れて来られたものである。新しい飼い主は、もとの飼い主と知り合いであるわけでもなく、自分の身の回りには、かつての生活を想い出す縁など何もない。たしかに、物理的な生活環境は、さしあたり快適であるかもしれないが、天涯孤独であり、将来にわたり、飼い主に生殺与奪の権を握られることになる。もちろん、飼い主が飼い犬を本当の意味で「家族の一員」と見なしてくれるのなら、まだ救いはあるであろうが、飼い主に少しでも面倒をかけると、飼い主の機嫌が途端に悪くなったり、時間の経過とともに飽きられたり、ぞんざいに扱われたりするようになる可能性がないとは言えない。これは、犬にとっては、非常につらい状況であろう。私は、「メシを食うインテリア」として購入されたであろう小型犬を街で目にするたびに、その暗澹たる未来を想像し、思わず目をそむけてしまうことが少なくない。

 「犬の気持ちがお前にわかるものか」と言われれば、たしかに、そのとおりである。私は、犬が置かれた状況にもとづいて、その気持ちを人間の視線で想像しているだけである。それでも、犬が天涯孤独であることは確かであり、天涯孤独の存在に寄り添う覚悟がないかぎり、犬を(少なくとも一匹で)飼うべきではないと私はかたく信じている。

Manuel Domínguez Sánchez - El suicidio de Séneca

 この1年か2年、ふと思い立ってセネカを手にとることが多い。愛読書というほどではないかもしれないが、気持ちが追いつめられたとき、セネカを読むと、少し安心するのである。

 セネカは、紀元後1世紀のローマで活躍したストア主義の哲学者である。皇帝ネロの家庭教師兼ブレーンでもあった。このセネカは、政治的な活動に忙殺されながらも、相当な分量の著作を遺している。それは、倫理学、自然学、そして、悲劇の3つに大別される。(この他に、皇帝クラウディウスを風刺する物語「アポコロキュントシス(カボチャ化)」を遺している。)

 私は、20代のころには、ストアの倫理学など、どこが面白いのかまったくわからなかった。東海大学出版会からそのころ刊行されたばかりの『セネカ道徳論集』(茂手木元蔵訳)など、退屈きわまるお説教の連続であり、まったく心に響くことはなかった。

 しかし、それから30年近く経ち、あるきっかけから、セネカを手にとったところ、人生で誰もが出会う普通の悩みがそこで取り上げられていることに気づいた。今から2000年近く前にラテン語で書かれた文章とは思われないリアリティを感じた。

 ストア主義がわかるためには、それなりの人生経験を必要とするのかもしれない。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

人生の短さについて 他2篇 (古典新訳文庫)

怒りについて 他二篇 (岩波文庫)

 「ストア主義」という言葉を耳にして、「禁欲」という言葉を反射的に想起する人は少なくないはずである。

 たしかに、ストア主義は、理性による自己支配こそ幸福への唯一の道であることを強調するから、セネカがたとえば相田みつをのような「にんげんだもの」などという安易な開き直りを許容することはない。

しかし、若いころにはわからなかったけれども、セネカは、現実離れした禁欲を説くわけではなく、目の前にある平凡な問題、心の中に起こる平凡な動きから目を逸らすことなく、これを丁寧に一つずつ乗り越えて行くことを読者に勧めているのである。このかぎりにおいて、セネカは、格調のきわめて高い自己啓発書の著者であると言えないことはない。

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 今日は2017年7月17日、つまり「海の日」である。私の職場では、普段と同じように授業があったため、最寄り駅で電車に乗るまで、今日が祝日であることに気づかなかった。国民の祝日の数が多すぎるのである。


「国民の祝日」が多すぎる 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

祝日は単なる休みの日ではない 2016年1月1日現在、わが国には「国民の祝日」が16日ある。すなわち、「元日」「成人の日」「建国記念の日」「春分の日」「昭和の日」「憲法記念日」「みどりの日」「こどもの日」「海の日」「山の日」「敬老の日」「秋分の日」「体育の日」「


 大学生と大学の教師にとって特にありがたくないのは、海の日、体育の日、成人の日のような移動祝日である。というのも、祝日が月曜日に集中すると、月曜日の授業回数が減り、授業回数を確保するため、これらの祝日が「授業実施日」となってしまうからである。今日は、全国のほぼすべての大学で授業が行われていたはずである。

 今日、授業が行われなかった大学があるとするなら、そのような大学は、たとえば、いずれかの土曜日か日曜日に、休みにした月曜日の授業を振り替えて実施するか、あるいは、8月に入ってから授業回数が不足した曜日の授業をまとめて実施するか、いずかの措置を講じることになっているはずである。

 そもそも、このような「惨状」が発生したのは、「半期に90分×15回の授業を必ず実施せよ、実施しなければ補助金を減らす」と文部科学省が全国の大学を脅しているからである。たしかに、文部科学省の省令である「大学設置基準」を文字どおりに受け取るなら、大学は、学生に単位を与えるために、90分×15回の授業を実施しなければならない。しかし、この大学設置基準は、1956(昭和31)年に定められてから何十年ものあいだ、厳格には守られてこなかった。私が学生のころなど、授業は半期に10回程度しか行われていなかったと思う。

 ところが、20世紀の終わりごろから、文部省の締めつけが少しずつ厳しくなり、そのため、大学の教師は、にわかに「教育労働者」化することになった。試験を含め、1年52週のうち32週を授業で拘束されてしまったら、本業である研究活動に深刻な遅滞が生じることは明らかである。

 文部科学省によれば、「授業回数が少ない」ことが「学生が勉強せず、学力が低下している」ことの原因であるらしい。だから――論理的にはまったく「だから」ではないのだが――「授業を大学設置基準どおりに実施する」ことで「学生が勉強し、学力が向上する」はずであった。

 けれども、授業回数を増やしたくらいで学生が勉強するようになるはずはなく、おそらく、そのせいであろう、文部科学省は、その後も、大学を「学校化」するため、謎としか思われないような措置を大学に次々と要求してきた。たとえば、「出席点」を学生に与えることを禁止してみたり(←学生が教室に来るのは当たり前だから、教室に身体を運んでくることに対して点を与えるのはおかしい、平常点は授業への貢献に応じて与えるべき、という理屈)、第1回の授業の内容をシラバスで「ガイダンス」と表記することを禁止してみたり(←「ガイダンス」は授業じゃない、という理屈)……。

 これらはすべて、余計なお世話である。大学というのは研究機関であるから、誰に何を教え、どのように教育するかは、各大学の完全な裁量に委ねられるべきであると私自身は考えている。「教授の自由」とは、キャンパスにおける教育の形態を含むはずだからである。大学の教師の大半は、同じように判断するに違いない。

 そもそも、これだけ長時間にわたり学生を教室に縛りつけていては、自分の知的関心を自由に追求する気分的な余裕が学生に生まれるわけはない。文部科学省が次に各大学に何を要求するのか、予想してみるのは面白いけれども、本当は、教室ばかりが学生の学ぶ場所ではなく、教室は、学生が学ぶ主な場所ですらない。私が学生時代に手に入れた知識のうち、その後に活かされたものの多くは、図書館や自宅での読書、他人との交流、映画館で過ごした時間などから与えられたものである。制度に従順な会社員を作ることを目的とするのでないかぎり、文部科学省が大学に要求することは、基本的にすべて、学生にとっても教師にとっても有害なことであるように思われるのである。

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