AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

Well Wishers

祝日は単なる休みの日ではない

 2016年1月1日現在、わが国には「国民の祝日」が16日ある。すなわち、「元日」「成人の日」「建国記念の日」「春分の日」「昭和の日」「憲法記念日」「みどりの日」「こどもの日」「海の日」「山の日」「敬老の日」「秋分の日」「体育の日」「文化の日」「勤労感謝の日」「天皇誕生日」の16日である。なお、国民の祝日が16日というのは、世界的に見ると多い方であると一般には考えられている。(アメリカには祝日が10日しかない。)

 言うまでもないことであるが、国民の祝日は、「祝日法」(=「国民の祝日に関する法律」)第3条にもとづき休日になることが決められているが、もちろん、単なる「休みの日」ではない。国民の祝日には、それぞれの祝日の趣旨に従って何かを「祝う」ことが必要である。祝日法第1条は、「国民の祝日」の意味について、

自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける

と説明する。国民の祝日というのは、単なる「仕事のない日」でもなければ、「家族サービスの日」でもないのである。私自身は、たとえば「建国記念の日」(←紀元節)、「春分の日」(←春季皇霊祭)、「昭和の日」(←天皇誕生日)、「秋分の日」(←秋季皇霊祭)、「文化の日」(←明治節)などには、少なくとも国公立の小学校と中学校を休みとせず、児童と生徒を全員登校させ、「祝う」という言葉にふさわしい何らかの行事を実施すべきなのではないかとひそかに考えている。

「祝え」と言われても、何を祝ってよいのかわからない祝日が多い

 とはいえ、それぞれの祝日に祝うべき事柄は、きわめて曖昧である。上に挙げた5つの祝日は――底の浅い左翼は嫌うであろうが――その意義が比較的明瞭であるが、中には、なぜ祝日に定められているのがよくわからないもの、休日を増やすためだけに国民の祝日に加えられたのではないかと疑うようなものもある。

 祝日法第2条には、それぞれの国民の祝日の意味が記されている。

第二条  「国民の祝日」を次のように定める。

元日 一月一日 年のはじめを祝う。

成人の日 一月の第二月曜日 おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。

建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。

春分の日 春分日 自然をたたえ、生物をいつくしむ。

昭和の日 四月二十九日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。

憲法記念日 五月三日 日本国憲法 の施行を記念し、国の成長を期する。

みどりの日 五月四日 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。

こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。

海の日 七月の第三月曜日 海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。

山の日 八月十一日 山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する。

敬老の日 九月の第三月曜日 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。

秋分の日 秋分日 祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ。

体育の日 十月の第二月曜日 スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。

文化の日 十一月三日 自由と平和を愛し、文化をすすめる。

勤労感謝の日 十一月二十三日 勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。

天皇誕生日 十二月二十三日 天皇の誕生日を祝う。

 (なお、上に掲げられた国民の祝日のうち、建国記念の日だけは「政令で定める日」となっており、具体的な日付がないけれども、昭和41年に「建国記念の日」が新たに国民の祝日になって以降、現在にいたるまで、戦前の「紀元節」に当たる「2月11日」に固定されている。)

 たとえば「体育の日」は、1964年の東京オリンピックを記念し、開会式の日(10月10日)を祝日にしたものであるが、「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」祝日というのは、まったく意味不明である。少なくとも、東京オリンピックの開会式以降に生れた国民にとっては、何を祝えばよいのかサッパリわからない日である。

 あるいは、「文化の日」に与えられた「自由と平和を愛し、文化をすすめる」という説明もまた、完全に意味不明である。名称を「明治の日」に改めた方がよいかどうかは、よくわからないけれども、少なくとも現状では、何をどのように祝えばよいのかわからないことは確かである。

 さらにひどいのは、「春分の日」と「秋分の日」である。上の条文では、それぞれの趣旨に関し「自然をたたえ、生物をいつくしむ」「祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ」と記されているけれども、あまりにも抽象的で意味がわからない。しかも、問題は、「春分の日」が「春分日」に、「秋分の日」が「秋分日」にそれぞれ置かれている点にある。つまり、昼と夜の長さが同じ――厳密に天文学的に言うと少し違うらしい――になる日が祝日と定められているのである。「昼と夜の長さが同じ」であることの何がめでたいのか、私には理解することができないが、少なくとも、国民の大半は、「昼と夜の長さが同じになったぞ、さあ祝え」と言われても、困惑するばかりであろう。

祝うべき事柄を明らかにした上で、不要な祝日は廃止すべき

 さらに、16の国民の祝日のうち、「成人の日」「春分の日」「海の日」「敬老の日」「秋分の日」「体育の日」の6日が移動祝日になっており、これらのうち、「成人の日」「海の日」「敬老の日」「体育の日」の4日が月曜日に置かれている。これは、連休を増やすための措置以外の何ものでもない。もちろん、休日を確保するために祝日の数を増やしたり、祝日を移動させたりするなど、祝日の趣旨に明らかに反する措置であると私は考えている。(労働者を休ませたいのなら、「国民の休日」あるいは「労働禁止日」――「『3』のつく日は一律休み」のような――を法律で定めればよい。)

 「何を祝うのか」という観点から国民の祝日を眺めると、不要な祝日が多いことがわかる。たとえば、「憲法記念日」(5月3日)と「みどりの日」(5月4日)は廃止しても一向に差し支えないに違いない。憲法記念日の廃止を主張すると、「護憲派」は憤慨するであろうが、実は、11月3日の「文化の日」(日本国憲法の公布日)が事実上の憲法記念日になっているのだから、5月3日を祝日にしなければならない理由はないのである。そして、5月3日が平日になれば、「憲法記念日」と「子どもの日」のあいだを埋めるためだけに作られた「みどりの日」もまた、不要となるであろう。

 祝日は、あくまでも「祝う」ため――条文のとおりに表現するなら、「祝い、感謝し、又は記念する」ため――に休日とされている日である。したがって、わが国全体にかかわる何かをその都度「祝う」ことが国民の責務であることになる。しかし、そのためには、それぞれの祝日に祝うべき事柄が明らかでなければならない。何を祝うのか、それは祝うに値する事柄であるのか、一つひとつ吟味し、場合によっては、国民の祝日を廃止することもまた、真剣に考慮すべきであるように思われる。


Pettegolezzi - Tittle-tattle

どうしてほしいかハッキリ言わないかぎり、誰も助けてくれない

 あなたが誰かの援助を期待するのなら、まずあなた自身が最初の一歩を踏み出さなければならない。

 「誰か俺のことを助けてくれないかな」と思ってただ周囲を見渡していても、誰も助けてくれないからである。いや、助けようがないと言うべきであろう。

  1. 第1に、あなたが何も発信しなければ、誰もあなたに気づきようがないからであり、
  2. 第2に、あなたが「助けてくれ」と言っても、何をどうすればあなたを助けたことになるのか、他人にはわからないのが普通だからである。

 あなたがニートであっても、被災者であっても、あるいは、難民であったとしても、さらに、経営難に陥った会社の社長であったとしても、この点に関し何ら違いはない。

 とはいえ、誰にとってももっともわかりにくいのは、「被害者」と呼ばれる存在である。というのも、各種のハラスメントでも、「いじめ」でも、その他の犯罪でも、あなたがみずからを「被害者」と規定することにより初めて、あなたを被害者とするハラスメントや「いじめ」や犯罪が成立すると一般には考えられているからである。言い換えるなら、ある出来事がハラスメントやいじめや犯罪であるかどうかを決めるのは「被害者」なのである。あなたが被害者として声を挙げ、当の出来事を指し示し、さらに、何をしたら具体的に助けたことになるのか、周囲に対して明らかにする努力をしなければ、あなたが何かに苦しんでいるとしても、周囲がこれに気づくことは不可能である。

いじめの「自家中毒」的構造

 私の見るところ、もっとも厄介なのは「いじめ」である。というのも、少なくとも私の知る範囲では、「いじめ」という出来事のきわだった特徴は、被害者が被害者として声を挙げにくい点にあるからである。

 「いじめ」の潜在的な被害者が声を挙げないのは、沈黙することが「学級/クラス」という流動性を欠いた「ムラ社会」の内部における「生き残り」の戦略として有効だからであるのかも知れない。(だから、被害者自身が「いじめ」の事実を否認することすらありうる。)つまり、「いじめ」は、被害者がみずから声を挙げ、被害の事実を確認することを妨げるばかりではなく、誰かが生命を失うようないたましい出来事が発生し、「いじめ」のプロセスが自動的に停止するまで、とどまることなく内攻するような構造をみずからのうちに具えているのであり、そのせいで、そこに「いじめ」が発生しているのかどうか、外部からの観察ではわからないのである。

 「いじめ」を「早期に発見」したり「抑止」したりすることが困難であるのは、このような「自家中毒」的な構造が「いじめ」に具わっているからであると考えることができる。(児童虐待もまた、構造という点では同じである。)

「いじめ」を逃れるシェルターが必要

 教員が公平な目を持っているとしても――現実には、教員は生徒や児童と「運命共同体」を作っているから、そのまなざしは少なからず歪むことを避けられないのだが――閉鎖的な集団の内部で起こる「いじめ」を外部からの観察によって発見することは困難であるとするなら、児童虐待の場合と同じように、「いじめ」の被害者についても、「シェルター」のようなものは必須であるに違いない。実際、すでに次のような意見もある。

いじめシェルター | はるかぜちゃん | note

 以前に書いたように、学級/クラスが消滅しないかぎり、「いじめ」はなくならない。それでも、学校や家庭から分離された「シェルター」があり、そこに逃げ込むことがいつでも許されるのなら、「いじめ」を早いうちに発見することが可能になるかも知れない。みずからが「いじめ」の被害者であることを確認すること、そして、「いじめ」の事実を被害者として語り、どうしたいのか、どうしてほしいのかを語ることができるようになり、周囲の人間もまた、被害者を正しい仕方で応援し支援することができるようになるはずだからである。

「いじめ」の原因は流動性の低さにあるから、学校がムラ社会であるかぎり、「いじめ」はなくならない : アド・ホックな倫理学

昨日の新聞に、下のような記事が載っていた。「重大事態」明確化を=被害調査に指針も-いじめ対策で提言・文科省会議:時事ドットコム 何が「いじめ」に該当するのか、その基準を明文化することを文科省の「いじめ防止対策協議会」が決めたようである、上の記事にあるよ



 

The Ladies at Ruth's

男性の「おひとりさま」は困難か

 しばらく前、次のような記事を見つけた。調査の結果、男性の4割がひとりで外食することができないことが明らかになったというニュースである。

「1人で外食」は「恥ずかしい」? 「できない」派、こんなにいた

 たしかに、私も、ひとりで外食する機会は必ずしも多くはない。私自身は、外食するのが「恥ずかしい」とは思わないが、冷静に考えてみると、出先で外食することを思い立ったとき、その時点で視界に入った飲食店の10軒に4軒は最初から「パス」する。入りにくいからである。

 男性が入りにくいと感じる店にはいくつもの特徴があり、それは、決して1つではないであろう。ただ、これらの特徴が全体として「入りにくい雰囲気」を作り出していること、そして、最近では、相当な数の飲食店がこれらの特徴を共有していることは確かである。

飲食店の大半は、男性を客だと思っていない

 私は飲食業界で働いたことがあるわけではなく、したがって、これは、あくまでも客としての狭い経験の範囲内での感想になるけれども、居酒屋や(蕎麦屋やラーメン屋を含む)一部のファストフード店を除くと、飲食店の店作りは、基本的に女性客を標的としていると言うことができる。そして、これもまた私の個人的な印象になるが、この点は、高級な――つまり「客単価」が高い――飲食店ほど顕著であるように思われる。つまり、客にたくさんのカネを使わせるタイプの店は、男性のあいだに得意客を見つけるつもりなど最初からないように見えるのである。実際、しばらく前、新宿のある飲食店が「男性のみの入店お断り」を掲げたことがニュースになった。

「『男性のみ』お断り」のイタ飯店 「差別」指摘受け、取った対応

 飲食店が女性客を標的とする店作りにいそしむ理由は明らかである。女性の方が男性よりも可処分所得が多いのである。

 男女の所得の格差がこれほど問題になっているにもかかわらず、不思議なことに、消費の場面では、女性の方がはるかに多くのカネを使ってきた。つまり、戦後日本の女性の消費生活というのは、本質的に「返済不要の借金による豪遊」(?)のようなものであり、以前に書いたとおり、私は、これが戦後の日本の文化と消費生活の堕落の最大の原因であると考えている。

専業主婦は文化の貧困の原因 〈私的極論〉 : アド・ホックな倫理学

女性の社会進出、正確に言うなら、女性が自活することができるだけのカネを稼ぐことは、日本文化の将来にとり、きわめて重要である。実現可能性をあえて完全に無視して言うなら、自分で自分の生活費を稼ぐことなく、いわば「専業主婦」として暮らしている女性をすべて家庭



 客単価の高い飲食店で食事する女性の大半が支払うのは、自分の所得をはるかに超える金額である。これでは、目の前に並ぶ料理の質を価格との関係で厳しく吟味し批評する「眼」など養われはずはない。しかし、事情がこのようなものであるなら、飲食店が「価格に見合う味の追求」ではなく「味音痴が散財したくなる雰囲気の追求」を優先させるようになること、また、財布の中味と相談しながら食事するような男性客が歓迎されないこと、したがって、男性がひとりで飲食店に入りにくくなるのは、当然なのである。(だから、私は、飲食店の評価に関する女性の口コミは基本的に信用しないし、女性が執筆したレストランやカフェのガイドブックの類もあまり信用しない。)

自分で稼いだカネで食事する者が主役となる外食文化へ

 数年前、所用で京都に行ったとき、昼どきにある飲食店に入った。それは、それなりに「お洒落」な雰囲気の店であったから、当然、私を除き、客は全員女性であった。私は、若い女性の集団に囲まれたような席でひとりで昼食をとったのだが、そのあいだ、周囲の冷ややかな視線をずっと感じた。すぐ近くの席にいた(おそらく20代前半の)女性数人が私のことをジロジロと眺めていたのを今でもよく憶えている。

 私は、店から入店を断られないかぎり、周囲の客が私についてどう思おうと、それは彼女たちの問題であって私の問題ではないと割り切り、一切気にしないことにしているが、あまり気持がよくないことは事実である。

 しかし、女性――ということは、自分の所得を超えるカネで豪遊する客――を得意客とする飲食店を野放しにすると、日本の外食文化は、とどまることなく堕落するとともに、男性は、文化としての外食から締め出されてしまう。したがって、男性は、この状況にあえて逆らい、「お洒落」なカフェやレストランにあえて入ることが必要である。店に入ったとき、そこにいる客が全員女性であっても、怯えてはならない。場数を踏むうちに、客の性別など気にならなくなる。これは、飲食店に対する「宣戦布告」であるとともに、外食全般の嘆かわしい状況に対する「宣戦布告」でもある。「自分で稼いだカネで食う者が飲食店の評価を決める」のが正常な姿であり、この正常な姿を取り戻すためには、男性、特に必ずしも若くはない男性は――配偶者が何と言おうと――あえて困難な道を歩まなければならないように思われるのである。


↑このページのトップヘ