Rembrandt reflection


 しばらく前、精巧な贋作を大量に製作した人物のドキュメンタリーを観た。
NHKオンデマンド | BS世界のドキュメンタリー シリーズ 芸術の秋 アートなドキュメンタリー 「贋(がん)作師 ベルトラッチ~超一級のニセモノ~」

 この人物は、贋作が露見して逮捕、告訴され、刑務所に収監されたが、ウィキペディアによれば、現在はすでに出所しているようである。


 贋作というのは、絵画ばかりではなく、文学、音楽、思想にもある。絵画は共同作業で製作される場合が多く、贋作と真作の境界は、他の藝術作品と比較するとむしろ曖昧であるかも知れない。この点では、文学や音楽の方が、贋作と真作の形式的な境界は明瞭である。


 匿名ならばともかく、なぜ有名な作者の名をあえて騙るのか、私にはよくわからなかった。なぜなら、作品がどれほど高く評価されても、名声を獲得するのは自分ではなく、表向きの作者の方だからである。もっとも、近い将来、人工知能AI)がさらに発達すると、このようなことは問題にならなくなる可能性がある。


 人工知能が社会にどの程度のインパクトを与えることになるのか、これは誰にも正確に予測することはできない。これは人工知能の問題ではなく、人間の問題であり、社会の問題だからである。


 確実なことがあるとするなら、それは、少なくとも何らかの技術の単純な「再現可能性」に関するかぎり、どれほど複雑な技術に関するものであるとしても、人工知能の方が人間よりもすぐれており、人工知能に頼る方が確実であるという点だけである。簡単に言えば、人工知能は、人間が「できた」ことなら何でもできるのである。(人間が「できる」ことなら何でもできるのではない。)


 これまで、少なくとも日本の学校および社会は全体として、決まった手順で決まった品質の成果物を産み出す能力を評価するシステムを前提としてきた。これは、人工知能が言論空間の地平に姿を現してから、いたるところで繰り返し語られてきたことである。そして、人工知能の機能が向上するとともに、このような評価のシステムもまた少しずつ力を失い、このシステムの内部において評価されてきた人間は、社会において役割を失う。これもまた、誰でも予想することができる未来であろう。


 人工知能は、誰かが一度でも作ったものなら、これを考えうるかぎりもっとも巧みに真似する能力を持つ。複数の作品から共通点を抽出し、これを組み合わせて「新しいもの」を産み出すこともできる。実際、人工知能にレンブラントの作品の特徴を分析させ、レンブラントにかぎりなく近い肖像画を「出力」させることに成功したことがニュースになった。しかし、これは、驚くには当らない。それほど遠くない将来、「モーツァルトっぽい交響曲」や「夏目漱石っぽい小説」が人工知能によって出力され、人々は、「モーツァルトっぽい交響曲」を聴き、「夏目漱石っぽい小説」を読むことになるであろう。このような作品は、もはや「本物」と見分けがつかないから、見分けをつけることにも意味がなくなるかも知れない。


 もちろん、(1)モーツァルトっぽい交響曲を人間が作り、しかも、(2)モーツァルトの作品として世に送り出せば、それは「贋作」となる。人工知能が作ったものが贋作と見なされないのは、人間が作ったものではなく、また、モーツァルトの作品として送り出されたわけではないからである。(そもそも、人間が作ったものではないから、法律上の「著作物」ですらない。)しかし、これは、藝術作品に関し人工知能が遂行することが、基本的には贋作と同じであることを意味する。藝術作品に関するかぎり、人工知能は究極の「贋作師」なのである。だから、人工知能の発達により、贋作師は自動的に姿を消す。これは、人工知能によって最初に駆逐される職業であろう。実際、人工知能は、フェルメールっぽい風俗画や肖像画を100種類一度に出力するに違いない。フェルメールのコレクターは渋い顔をするかも知れないが、フェルメールの愛好家は大喜びするであろう。


 もちろん、人工知能は、これまで人間が産み出してきたものを完璧に学習するだけであり、本質的に新しいものを何も産み出さない。つまり、人工知能が作り出すものには、本当の意味におけるオリジナリティは認められない。それでも、近い将来、そのようなオリジナリティなど、誰も気にしなくなる日が到来する可能性がある。絵画であれ、文学であれ、音楽であれ、オリジナリティをオリジナリティとして受け止めることのできる知的公衆は、いつの時代にもごくわずかにとどまるものだからである。