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リソースの功利主義的な配分の是非を考える

自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!! : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』

 生活習慣が原因で人工透析を受けざるをえなくなった場合、社会保障の給付の対象から除外すべきであるというのが筆者の主張である。しばらく前、私自身、いわゆる「貧困JK」の問題と関連して、「愚行権」の問題としてこの点を取り上げたことがある。

貧困JKの問題とは愚行権の問題である : アド・ホックな倫理学

2016年8月18日のNHKの7時のニュースで取り上げられた貧困女子高生(いわゆる「貧困JK」)の問題について、膨大な意見がネット上にあふれている。ネット上の動きだけではなく、数日までには、「貧困たたき」に抗議するデモまであったらしい。貧困たたき:新宿で緊急抗議デ


 そこで、ここでは、「公平」の観点から少し補足する。

 そもそも、ここで問題になっているのは、有限な社会的リソースを公平に配分する基準であり、これは、応用倫理学の古典的な問題の一つである。ここで問われているのは、「公平な分配はいかにして可能か」という問いである。しかし、もちろん、この問いには決まった正解などない。

 長谷川豊氏の主張は功利主義的である。つまり、「最大多数の最大幸福」を根本原理として、全体の利益を個人の都合に優先させるべきであるという考え方が主張の前提になっている。私は、功利主義が悪いとは必ずしも思わない。また、社会政策の場面では、功利主義がもっとも適切な解決を提示する場合の少なくないことは事実である。それでも、形式的に考えるなら、愚行を背景として病気になった者を健康保険の適用から除外すべきであるという見解は、いくつかの重大な問題を惹き起こす。

「愚行」の基準を定めることは事実上不可能

 たしかに、上の記事に記されているように、社会保障の給付の対象とするかどうかを病気の背景を基準として決めるのは、1つの可能な選択である。この場合、患者自身の努力によって罹患する確率を下げることが可能であったにもかかわらず、この努力がなされなかった場合、そして、病気にかかった場合には、この怠慢と病気とのあいだに因果関係があると見なされ、治療費は、健康保険から支給されないことになる。

 ただ、病気によっては、罹患を回避する努力と病気のあいだの因果関係が明確ではなく、せいぜいのところ、相関関係しか見出すことができない。また、罹患を回避するための努力について基準を設定することもまた容易ではないであろう。たとえば、私が前の記事で取り上げた肺がんと喫煙の関係の場合、生まれてから発症するまでのあいだに1本でもタバコを吸ったら健康保険の対象外となるのか、それとも、これまでにタバコを吸った期間や量を考慮して限度を設けるのか、このような点について社会的な合意を形成することは不可能であろう。(確実なのは、喫煙量が多ければ、これに応じて肺がんのリスクが高くなることだけだからである。)

愚行が原因で病気になった者が回復後に社会に貢献する可能性がある

 また、功利主義(=「最大多数の最大幸福」を根本的な原理とする)の社会全体の利益という観点から考えるなら、次のような可能性がないわけではない。すなわち、暴飲暴食が原因で人工透析を受けなければならなくなった人間は、社会の「お荷物」であるように見えるが、それでも、治療を受けることによって生命を維持するうちに、社会に貢献するような画期的な事業を起こし、多額の所得税や法人税を納付して社会に貢献する可能性がないとは言えない。

 長谷川氏が前提とする功利主義は、暴飲暴食のせいで人工透析を受けるようになった人間を「社会のゴミ」のように扱うことを必然的に許すわけではないのである。

 そもそも、「罹患を回避する努力を怠ったこと」が病気の原因であることが明らかである場合、このような患者の治療費を全額自己負担と定めるなら、現在の病状の有無にかかわりなく、金銭的な理由によって回復を期待することのできない患者が大量に発生する可能性がある。しかし、ふたたび功利主義的な観点から眺めるなら、これは、社会全体の生産性をいちじるしく毀損することになるように思われる。功利主義を徹底させるのであるなら、長谷川氏は、罹患を回避する努力を怠った患者を批判するのではなく、むしろ、病気から回復して社会全体の生産性を向上させるのに貢献する見込みのないまま惰性で治療を続けている患者を批判すべきであった。つまり、社会的リソース(社会保障費)は、治癒可能性の高い患者に優先的に配分することを主張すべきであったように思われるのである。