Homeless in rain

 私たちは誰でも、ユーモアが人生の重要な要素であると考えている。もう少し正確に表現するなら、自分の言動がユーモアを帯びることに対し多くの人は価値を認めるとともに、他人の言葉やふるまいのうちに何らかのユーモアが現われることを歓迎する。現実の生活において「ユーモアのある人」あるいは「ユーモアがわかる人」が嫌われる可能性が低いことは確かである。

 ただ、ユーモアというものが伝えることの非常に難しいものであることもまた事実である。私が自分の言葉やふるまいにはユーモアがあると信じているとしても、このユーモアがユーモアとして他人に理解されなければ、それは、もはやユーモアではなく、コミュニケーションを阻碍するノイズにすぎない。実際、ユーモアは、ユーモアとして受け容れられる場合よりも、ノイズと見なされる場合の方がはるかに多いように思われる。だから、私たちになじみがあるのは、ユーモアが「通じる」ことによる心地よさよりも、ユーモアが「通じない」ことによる失望の方である。

 自分がユーモアであると思っているものが他人に受け容れられないことが多いとするなら、そのもっとも大きな原因は、ユーモアの多様性に求められねばならない。

 私たちは、相手のユーモアを理解することにより、実際的な必要を超えるある肯定的な関心を相手について抱く。相手のユーモアがわかるということは、相手に肯定的な仕方で関心を寄せていることの証拠であると言うこともできる。

 しかし、たとえば落語家が寄席に集まる聴衆のあいだに惹き起こす「笑い」には普遍妥当的な認識の表現としての側面がある――だから、何百人、何千人を同時に笑わせることができる――のに対し、ユーモアには、このような力はなく、コンサマトリーな会話においてオーラとして感知されるものにすぎない。ユーモアのうちに私たちが見出すのは、相手の「人柄」や「個性」のようなものにすぎないのが普通である。

 ユーモアが人柄や個性の表現にすぎないとするなら、そのタイプはかぎりなく多様であると考えざるをえない。あなたが自分の発言やふるまいにユーモアを込めても、これが相手に「通じる」ことなど期待しない方がよい。同じように、あなたもまた、相手が放つユーモアをノイズとして無視している可能性が高いが、だからと言って、あなたが「つまらない人間」であるわけではないし、相手が「ユーモアを解さない田舎者」であるわけでもない。あなたにはあなたのユーモアがあり、相手には相手のユーモアがあり、しかし、大抵の場合、両者が共鳴しないだけのことである。両者のユーモアが共鳴するのは、両者の生年月日が一致するよりも稀なことであるに違いない。

 だから、たがいのユーモアが通じる相手というのは非常に貴重であり、このような相手との出会いは、稀な幸運と見されるべきものであるように思われるのである。