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「残業100時間で過労死は情けない」という発言には同意できない

 今日、下のような記事を見つけた。

「残業100時間で過労死は情けない」 教授の処分検討:朝日新聞デジタル

 上記の記事にある「教授」とは、武蔵野大学グローバル学部教授の長谷川秀夫氏のようである。正確には、発言は下記のようなものであったらしい。

月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない。会社の業務をこなすというより、自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない。自分で起業した人は、それこそ寝袋を会社に持ち込んで、仕事に打ち込んだ時期があるはず。更にプロ意識があれば、上司を説得してでも良い成果を出せるように人的資源を獲得すべく最大の努力をすべき。それでも駄目なら、その会社が組織として機能していないので、転職を考えるべき。また、転職できるプロであるべき長期的に自分への投資を続けるべき。

 私には、この発言のコンテクストがわからないから、この発言の真意を評価することはできないけれども、少なくとも表面的に見るなら、これは、明らかに不適切な発言である。なぜなら、過労死の問題というのは、単なる労働時間の物理的な量の問題ではなく、過労死するほどの残業を必要とするような労働環境の問題だからであり、また、残業において強いられた労働の内容の問題でもあるからである。今回の過労自殺は、「根性」の不足によるものではない。これは、誰が考えても明らかであろう。

大学の処分は不当であり、大学が社会から認められた「学問の自由」をみずから否定するものである

 とはいえ、大学の教員の言葉が極端に政治的な性格のものであるように見えるとしても、あるいは、極端に非常識なものに見えるとしても、それは、「学問の自由」の範囲内における発言であり、大学は、これを擁護するか、あるいは、擁護することができないとしても、せめて、全面的に黙認すべきである。武蔵野大学が長谷川氏を本当に処分するようなことになれば――ならないとは思うが――それは、社会から認められている「学問の自由」を大学が自分で否定することを意味する。

 武蔵野大学のホームページには、学長名で次のような短い文章が掲載された。

武蔵野大学[ MUSASHINO UNIVERSITY ]


 武蔵野大学の「ソーシャルメディア利用ガイドライン」がどのようなものであるのか、ネット上には公表されておらず、私にはわからないが、根拠のない批判、攻撃、あるいは誹謗中傷と受け取られるようなメッセージを発信することを禁止する項目が入っていることは間違いないように思われる。

「学問の自由」という観点から、長谷川氏は発言を撤回すべきではなかった

 しかしながら、長谷川氏が何としてでも避けなければならなかったのは、発言を撤回することであるはずである。長谷川氏が発言を簡単に撤回したり、まして、謝罪などしたりしようものなら、それは、自分の発言が根拠のない批判、攻撃であったことを自身で認めることになってしまうからである。

 ところが、現実には、そして、非常に残念なことに、長谷川氏は発言を撤回し、謝罪したようである。


【炎上、謝罪、逃亡】「100時間残業で自殺は情けない」長谷川秀夫の経歴にお察し

電通での高橋まつりさんの過労死事件が世間を騒がせる中、まさに「老害」(自分が老いたのに気づかず(気をとめず)、まわりの若手の活躍を妨げて生ずる害悪のこと)と言わんばかりの自論で武蔵野大学で教授を務める長谷川秀夫が炎上している。 ...


  さらによくないのは、「謝罪文」の末尾の次の一文である。

以後、自分の専門領域を中心に、言葉を慎重に選び、様々な立場、考え方の方々がいることを念頭において、誠意あるコメントを今まで以上に心がけてまいります。

 長谷川氏が大学の教員なら、つまり、研究者であるなら、発言を撤回せず、あくまでも「確信犯」としてふるまうべきであった。なぜなら、長谷川氏には、自分の発言をアカデミックな性質のものとして認めてもらうという――大学教授にのみ与えられた――特別な権利があるからである。「確信犯」としてふるまうことは、決して単なる「強弁」ではない。発言の根拠を明らかにするよう求められたとき、これに応えて自説を丁寧に説明し続けることは、「学問の自由」を背負った大学教授の義務であり権利なのである。

 謝罪したということは、みずからの発言のアカデミックな性格を否定したことを意味する。自分の発言があくまでもアカデミックなものであることを主張し続けるかぎりにおいて、長谷川氏の発言は、武蔵野大学の「ソーシャルメディア利用ガイドライン」に抵触することはなく、武蔵野大学の教育方針に反することにもならなかったはずである。この意味において、長谷川氏の行動は、実に残念であった。

 大学における「学問の自由」というのは重いものであり、(悪意や誤解にもとづく誹謗中傷から身を守ることは必要であるとしても、)自分の発言の根拠を明らかにして正当な批判と対決することができないのなら、大学教授の資格などないと言うべきであろう。

実務家教員は大学において「学問の自由」を与えられている事実を重く受け止めるべき

 長谷川秀夫氏は、大学における「学問の自由」の意義や、大学教授の発言が社会においてそれなりに重く受け止められている理由など、深く考えたことはないに違いない。(まして、大学において、実用と結びつかない地味な基礎研究が続けられていることの意義など、理解の外にあるかも知れない。)しかし、それは、特に驚くに当たらない。というのも、長谷川氏は、「大学教授」とは言っても、いわゆる「実務家教員」に分類される存在だからである。

 実務家教員というのは、アカデミズムの内部でオーソドックスなキャリアを積んだのちに大学教授になったのではなく、長期間にわたり企業で経験を積み、その後、企業での実績を買われ、「実学」教育を担うために大学教員になった人々のことである。実務家教員の大半は、大学教授には必須のはずの修士号や博士号などの学位もなく、論文もなく、ただ実務の経験だけで大学に地位を得ている。(長谷川氏は、一応MBAを持っているけれども、MBAは、実務家としての能力を保証する学位であって、研究者向けのものではない。)

 このような人々は、普段は、大学の広告塔になったり、役に立つ知識やスキルを学生に伝えたりすることにより大学の「経営」には貢献しているのかも知れないが、「会社員気分」が抜けないせいか、「学問の自由」の何たるか、大学教授の何たるかなど、いざというときの身の処し方を決める根本的な自覚には欠けていることが多いように見える。それでも、実務家教員の数が少なかったころは、周囲が適宜サポートすることにより、大学という研究機関――決して教育機関ではない――に溶け込むことが可能であったかも知れない。しかし、現在のように、新設の大学や学部が「実務家教員だらけ」の状態になると、大学の理念や学問の自由を思い起こさせるよすがが失われ、大学教授としての自覚など、いつの間にか揮発してしまっていたのであろう。

 これまでは、大学の教員の発言が問題を惹き起こすたびに、「そんな世間知らずは、企業では通用しない」「これだから大学教授は……」などとうそぶく人々が大量に現われた。しかし、今後は、企業で十分すぎるほど「通用」してきた実務家教員による問題発言が増えるはずである。そして、そのような問題発言とともに、「そんな世間知らずは、大学では通用しない」「これだから会社員あがりは……」などの反応が大学の内部から姿を現すに違いない。

 実務家教員は、企業での自分の実績の上にあぐらをかく――アカデミズムを見下すような態度をとる実務家教員もいる(長谷川氏がどうなのかはわからない)――ことなく、自分が大学に身を置いていることの意味を一度よくかみしめるべきであろう。