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研究者には、カネと時間が慢性的に不足している

 自分で調査したことがあるわけではないけれども、大学の教員が口にする苦情の上位2つは、間違いなく「研究資金がない」と「研究時間がない」である。

 これら2つで、大学の教員が口にする可能性のある苦情全体の90%を占めているに違いない。もちろん、「体調がすぐれない」「隣の研究室がうるさい」「学生がバカだ」など、研究生活において出会われる問題は少なくないとしても、カネと時間さえあれば、問題の大半は解消されるということなのであろう。

 実際、授業、会議、書類作り、試験監督などに時間を奪われ、研究テーマに集中することが難しい研究者、あるいは、(特に国立大学の理系の場合、)競争的研究資金が思うように獲得できず、そのせいで研究を進めることができない研究者はいたるところに見出される。このかぎりにおいて、現在の日本の大学の教員は、「労働者」にかぎりなく近づいていると言うことができる。

理系と文系では、必要とするカネの規模が違う

 ただ、時間とカネのあいだには、若干の違いがある。すなわち、時間の不足が専門に関係なく多くの研究者に共通の悩みであるのに反し、カネの方の悩みは、2つの点において研究分野によりその内容を異にしているのである。

 まず、誰でも知っているように、理系と文系では、必要となる研究資金の規模がまったく異なる。もちろん、「理系」「文系」と総称されるそれぞれのグループは、決して一様ではない。「理系」にも、実験の比重が必ずしも大きくない数学のような分野があり、同じように、「文系」と言っても、社会心理学や人類学のようにフィールドワークが必須の分野がある。それでも、全体としては、理系の方が文系よりも多くのカネを必要とすることは確かであり、また、文部科学省と日本学術振興会が配分する科学研究費補助金に代表される競争的研究資金も、大半が理系の研究に配分される。理系の方は、配分先の研究分野が細かく区別されているのに対し、文系の方は、「人文社会科学」という雑な分類にすべてが押し込められているのである。

理系の研究はつねに資金を必要とするが、文系、特に人文科学はそうではない

 しかし、研究分野によるカネをめぐる事情の差異に関し、さらに目立つのは、カネをもっとも必要とする時期である。

 理系の場合、研究資金というのは燃料のようなものであり、研究が進行しているかぎり不足することを許されないものである。理系、つまり自然科学では、「最新」と「最良」が同一であり、「最新」をつねに追求していなければならない以上、これは仕方がないことであるに違いない。研究資金との関係で言うなら、自然科学の研究成果というのは「砂上の楼閣」のようなものなのである。

 これに対し、文系、特に人文科学(伝統的には「哲史文」、つまり哲学、歴史、文学の三分野を指す)では、事情が異なる。必要となるカネが少額で済むばかりではなく、カネがないと研究が完全に停滞してしまうこともないのである。なぜなら、自然科学において研究資金が燃料として消尽されてしまうのとは異なり、人文科学の場合、研究のためにそれまでに投資された資金の多くは、再利用可能な研究成果や資料として蓄積されて行くからである。人文科学に投入された研究資金は、すでに手もとにある資産に新しいものを付加するために使われるのである。一度に投入する金額が少なくても、研究がすぐに滞ることがないのはそのためである。

人文科学では、研究者のキャリアの初期段階でカネがかかることが多い

 私の個人的な経験の範囲では、学部生の時代を文学部で過ごし、そのまま人文系の大学院に進学し、さらにそのままアカデミックな仕事に就くというキャリアパスにおいて、研究資金が一番必要になるのは大学院の博士課程のころである。基本的な研究資料を手もとに揃えることが必要になるからである。

 業績を作るには絶対に必要だが大学の研究室にはない、それどころか、国内の大学のどこにもない資料がある場合、たとえチラッと見れば済むものであるとしても、これを手に入れるには、相当なカネが必要になる。私自身、大学院生の博士課程に在籍していたころには、人生で最初の――そして、今のところ最後の――借金を背負った。各種のレファレンス、全集、叢書、研究文献などを必要な範囲で手に入れるためである。(特に、私の研究対象に関する文献は、大学の研究室にはほとんど何もなく、ゼロからすべて集めなければならなかった。)

 実際、大学院生のころ、ある文献を読んでいたら、有名な研究者が「○○が書いた△△という本があり、××という文献に言及があるが、自分は肝心の△△を見ていないから影響関係について断定的なことは言えない」という意味のことを書いているのを見つけた。

 私は、これを見て、「それなら、△△を絶対に手に入れてやる」と考えた。ところが、図書館で調べたところ、この△△という本は、国内の大学図書館のどこにも所蔵されていないことがわかった。そこで、仕方なく、大学の図書館を経由して、ドイツのある大学図書館からこれを航空便で取り寄せた。もちろん、自費である。そして、業者に頼んで、この本――18世紀の本だった――の全部のページをコピーし製本してもらった。これも自費である。本を取り寄せてコピー、製本するのに、合わせて約10万円の費用がかかった。また、このころは、神田の崇文荘書店や北沢書店に毎月のように通い、たくさんの本を注文していた。カネはいくらでも必要であった。

 ただ、このようにして手に入れた本は、20年以上経った今でも私の書架に収まっており、資料として半永久的に使用することができる。人文科学の場合、どれほど高額なものでも、一度買ってしまえば、多くは、たえず更新しなければ使い物にならなくなる、などということはない。また、更新が必要となる場合でも、古いものに新しいものが付加されて行くのが普通である。したがって、「初期費用」は相当な規模になるけれども、その後は、時間の経過とともに研究資金の「必要最低限度額」は、急速に減少して行く。

 何千万円ものまとまった研究資金が必要になることは、カネを使うことをそれ自体として目的とするような意味不明の共同研究でも企てないかぎり、ほとんどないに違いない。また、何千万円もする高額な資料を必要とする研究がないわけではないけれども、このような資料は、大抵の場合、国内の研究者の誰かがすでに買ってどこかの大学図書館に入れている。所蔵している大学図書館から取り寄せれば、カネは一銭もかからない。

 だから、人文科学については、大学の専任教員になってしまった者よりも、むしろ、どちらかと言うとキャリアの初期の段階にある研究者を手厚く支援することにより、大きな成果を期待することができるはずである。カネをもっとも必要とするのが初期の段階だからである。