good luck ladies

自分の長所を答えるのは難しいが、紋切型で逃げてはいけない

 最新の事情はよくわからないけれども、就職活動中の大学生は、面接において、「自分をアピールしてください」「自己PRをしてください」などと求められたり、「あなたの強みは何だと思いますか」という問いに答えるよう求められたりする場合が少なくないはずである。しかし、普通の大学生に自分の長所や強みを正確に把握することなどできるはずはなく、大抵の場合、彼ら/彼女らは、「粘り強い」「コミュニケーション能力がある」「几帳面」などという紋切型――つまり嘘――を面接者に投げつけることにより、この問題と向き合うことを避けようとするはずである。

 私は「就活マニュアル」に分類されるような本を読んだことは一度もないけれども、聞くところによると、このような本の著者には、面接での質問に対しできるかぎり紋切型で答えることを推奨する者が少なくないらしい。自分なりに考えて答えを用意し、この答えを適切な言葉で表現しようとすると「目立つ」ことになるが、面接では、何であれ「目立つ」ことは避けるべきであると「就活マニュアル」の著者たちは考えているようである。

 たしかに、口からなめらかに流れ出す紋切型とは異なり、自分なりに考えて得られた答えの場合、抵抗も違和感もなく他人に伝わるとはかぎらない。言いよどんだり、つっかえたり、言葉遣いが不正確だったりするせいで、面接のときに目立つ可能性があることは事実である。しかし、質問に対し自分で考えて答えを出しているのか、あるいは、あらかじめ用意された紋切型を投げつけているだけであるのか、面接者にはすぐにわかる。そして、紋切型――つまり嘘――を面接者に投げつけるたびに、受験者は、面接者に不快感を与え、悪い意味において「目立つ」。そして、面接者の信用を失って行く。紋切型の回答は、面接者が「問い」を用いて受検者とのあいだに設定しようとするコミュニケーションの場を破壊するものなのである。

 常識的に考えるなら、面接において要求されているのは、「平均的で目立たない嘘」でその場を切り抜けることではなく、「目の前にいる相手に合わせて考えた結果」を自分なりに表現する能力であろう。(誰が目の前にいるかには関係なく、同じ質問に同じ答えを返す能力の有無を確認するなら、面接よりもペーパーテストの方がはるかに効率的であり正確である。だから、企業がこのような能力――紋切型をなめらかに語る能力――を受験者に求めているのなら、面接など最初から行われず、採用は、とうの昔にペーパーテストのみになっているはずである。企業が面接を採用の手段としているということは、紋切型を使って質問に当たり障りなく答える能力など、受験者には求められていないということなのである。)

自分の長所は、みずから努力して成し遂げてきたもののうちにある

 ただ、自分の長所を問われても、平均的な若者には、これに答えることは事実上不可能である。というのも、長所を問われるとき、その答えは、自分の経験から抽出される他はないものであるが、若者には、経験の「量」が決定的に不足しているからである。だから、自分の長所を問われた大学生は、大抵の場合、(偶然に由来するかも知れない)自分の1回か2回の「成功『体験』」を強引かつ大胆に一般化し、自分の好ましい性格を描き出すことにならざるをえない。このかぎりにおいて、自分の長所に関し、若者が紋切型に逃れるのは、ある意味においてやむをえないことであり、「自分をアピールしてください」などという質問に答えるよう求める方が悪いと言うこともできる。

 経験にもとづいて自己了解を獲得し、自分の長所を語ることができるようになるためには、ある程度ながく生きていることがどうしても必要となるに違いない。

 とはいえ、物理的な生存期間がながく、多量の「データ」が記憶として蓄積されているとしても、このデータの量は、それ自体としては、自分の長所を語ることを容易にするわけではない。というのも、ここには1つの循環が認められるからである。

 すなわち、一方において、自分の「長所」や「強み」とは、完成へと近づける努力に値する何らかの性質である。しかし、他方において、完成への努力の目標としての長所や強みというのは、何かを完成へと近づける努力の中でおのずから輪廓を獲得して行くものである。言い換えるなら、何かを継続して――あるいは、繰り返し――成し遂げてきたという事実にもとづいてのみ、経験にもとづいて、本当の意味における長所や強みを語ることができるが、それとともに、長所や強みを語ることが可能となるためには、ともかくも努力し、あらかじめ何かを繰り返し成し遂げていなければならない。何かに向かって努力しないと、長所や強みは得られないが、それとともに、長所や強みが漠然とした仕方でわかっていなと、努力のしようがないことになる。

 したがって、長所や強みを語ることが可能となり、「自分をアピールしてください」と求められても途方に暮れないためには、何らかの意味における完成を目指してつねに努力していることが必要となる。もちろん、努力の目標は不変のものではなく、努力を続けるうちに新たな展望が開かれ、「本当の目標」が遠望されるようになることは珍しくない。

 これらの努力はすべて、「人間としての完成」を終極の目標とする努力の一部をなすものであるに違いない。そして、この「人間としての完成」へと向かうはずのこのような努力に身を委ねることがなければ、何十年間、いや、何百年間生きようとも、自分の長所や強みを語ることはできず、「自分をアピールしてください」という要求の前でうろたえ続けることになるであろう。(動物には、自分の長所や強みを説明することができない。動物が言葉を操らないからであるというよりも、むしろ、動物は、この意味における努力に与る可能性がないからである。)