ドラマは密室で独りで観る

 「テレビドラマを観るのにまで作法が必要なのか」と思うかも知れない。結論から言えば、そのようなものは原則として不要である。映画館で映画を鑑賞するのとは違って、テレビ受像機――ブツとしてのテレビの正式名称――を前にするときには、格好や姿勢は一切関係がない。極端なことを言うなら、逆立ちしていようと、裸だろうと、何ら問題がない。昔はともかく、今では、テレビというものは、独りで密室で観るものになっているからである。したがって、逆説的であるが、テレビドラマを観る作法なるものを設定することが可能であるなら、それは、何よりもまず、テレビドラマが鑑賞される状況の「密室性」を促進し完成させるようなルールでなければならないであろう。たとえば、スマートフォンは手もとに置かない、来客があっても居留守を使う、テレビのある部屋のドアは閉めておく……、これらは、ドラマ鑑賞のための最低限の条件となるに違いない。

 もちろん、ドラマを密室で鑑賞するからと言って、注意を画面に集中しなければならないわけではない。番組の最中に台所に立ってコーヒーを淹れてもかまわないし、ストレッチしながら画面を眺めてもかまわない。大切なことは、「ドラマを観ているあいだは独りになる」という原則であり、この原則が守られてさえいれば、何をすることも許されるということなのである。

気晴らしになるドラマ以外は観ない

 さらに、テレビドラマを観るに当たり、守るべき作法がもう1つある。それは、「何のためにドラマを観るのか」を自覚し、この目的に適合するドラマだけを観ることである。大抵の場合、ドラマを観るのは、勉強のためではないし、仕事のためでもない。ドラマを観るのに費やされる時間は、気晴らしのための時間である。したがって、ドラマを観て気晴らしができなければ、その時間は無駄だったことになる。つまり、「確実に気晴らしすることができる」点がテレビドラマの価値となるのである。

 この場合の「気晴らし」とは、大雑把に言うなら、ストレスの解消であり、最近は、「コーピング」(coping) という総称で呼ばれる一連の作業の中に位置を与えられているものである。そして、生活の中で惹き起こされた否定的な気分から距離をとり、これを相対化することがコーピングであるなら、ドラマを観ているときには、本当に気晴らしができているのか、手をときどき胸に当てて自問することが必要であり、ドラマが気晴らしになっていなければ、そのようなドラマを観るのはただちに中止すべきである。

 「話題になっているからつまらなくても観続ける」などというのは、テレビを観ているときに知り合いを思い出すことになるから、このような理由でドラマを観ることは、精神衛生上マイナスの効果しかない。「つながり」から解放されるためにドラマを観るのだから、「つながり」を想起させるような仕方でドラマを選ぶべきではない。これは当然の話である。

新番組の第1話はすべて観る

 最近はやめてしまったけれども、私は、何年か前までは、連続ドラマの第1話を、日本のものも海外のものも――「韓流」を除き――すべて録画して観ていた。第2話以降も観続けるに値するかどうかをチェックするためである。さまざまなタイプのテレビドラマを観ていると、そのうち、自分にとって気晴らしになるものと気晴らしにならないものの区別が次第に明らかになってくる。たとえば、私の場合、「ホラー」と「SF」と「高校生が主人公のもの」は気晴らしにならない。また、具体的な名前は挙げないけれども、どうしてもテレビで観たくない俳優がいることもわかってきた。もちろん、自分の本当の好みがわかるまでには、それなりに「場数を踏む」ことが必要である。場数を踏まないと、自分の内面の声が聞こえるようにならないからである。