Jonah Who Lived in the Whale ....

狂信の政治

 2016年のアメリカ大統領選挙は、これまでの選挙とはいろいろな点において性格を異にする選挙であったと言うことができる。そして、そのせいなのであろう、マスメディアの多くが今回の選挙の特異な点をさまざまな観点から報道していた。

 特に、マスメディアにおいて繰り返し強調されていたのは、ドナルド・トランプを支持する有権者の熱狂である。外国、特に自由民主主義を標榜する先進国の平均的な国民の目に、この熱狂はいくらか不気味なものと映ったはずである。アメリカの大統領選挙の様子を伝えるヨーロッパのメディアがいずれもトランプの主張、あるいは、トランプの主張に賛同する狂信的な支持者を一様にペジョラティヴに扱い、さらに、狂信の経済的、社会的な背景の説明に多くの文字数と時間を費やしてきたのは、ある意味においては自然なことである。たしかに、多くのアメリカ人が社会の現状に対する強い不満を抱いているとしても、荒唐無稽で実現不可能な政策、あるいは、アメリカの国益を損なうことが確実な政策ばかりを掲げる候補者にこれほど多くの支持が集まるのか、当事者ではない者にとり、これは謎であるし、その理由を知りたいと考えるのは、当然のことである。

 とはいえ、狂信の原因がわかったとしても、現実に狂信に囚われている者たちとの意思疎通が可能となるわけではない。狂信者は相変わらず狂信とともに、あるいは、狂信のうちにあり、立場を異にする者が合意形成を目指して何かを語りかけても、耳を貸さないばかりではなく、内容を理解することのできぬまま、あるいは、理解する意欲もないまま、断片的な言葉を捉え、いわば「脊髄反射」のように誹謗中傷の言葉を相手に浴びせかけるばかりである。オープンな議論を拒むこと、「友でない者はすべて敵」というのが政治的狂信の意味だからである。

 民主主義が成立するためには、オープンな議論が不可欠である。オープンな議論の「オープン」の意味は、当事者の態度がオープンであることを意味する。すなわち、議論のプロセスにおいて自分の意見を柔軟に変えることを拒まないような当事者による議論がオープンな議論である。そして、オープンな議論にもとづく合意形成の原則は逆、つまり「敵ではない者はすべて友」である。

 そして、このようなタイプの狂信が現実の政治の場面に姿を現す――イギリスのEU離脱やアメリカの大統領選挙が典型である――と、「真理にもとづかない政治」(post-truth politics)「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) などと呼ばれることになる。事柄の真相や合理的な判断から目をそむけ、幻想や妄想だけを頼りに生きている姿は、覚醒剤中毒の患者を私たちに想起させるはずである。

「友でない者はすべて敵」という狂信は日本にもある

 しかし、このような狂信は、アメリカばかりではなく、わが国にも見出すことができる。ただ、日本人は、不気味な狂信のにおいを感じると、アメリカのようにこれに光を当てるのではなく、むしろ、これを話題にすることを避ける点に違いがあるだけである。先日、次のような記事を見つけた。

日本人の無自覚な沖縄差別

 私自身は、この記事に強い違和感を覚えた。その理由は、上に述べた点にある。すなわち、沖縄の「反基地」活動が「無自覚」の「差別」に対する反作用であるというのは、いかにも左翼の好みそうな見立てであり、しかも、一連の出来事の複雑な真相を切り捨てることによって作られた底の浅い見立てである。

 平均的な日本人が沖縄の基地問題について多くを語らないのは、関心がないからではない。そうではなくて、「反基地」活動に従事する運動家(つまり「プロ市民」)に不気味な狂信のにおいを感じるからである。実際、沖縄の運動家たちは、万人に対し全面的な同意をつねに強要する狂信者である。彼らにとり、自分たちの主張は絶対に真であるから、「友ではない者はすべて敵」となる。つまり、自分たちの意見に賛成しない者はすべて敵となる。彼らにとり、意見の一致を目指してオープンな議論に参加し、全員で協力して最適な解を見出す努力など、思いもよらないであろう。

 しかし、当然のことながら、無条件の同意を他人から強要され、「友ではない者はすべて敵」などと言われたら、私たちは誰でも、非常に窮屈な思いをする。そして、このような狂信者のことは、できるかぎり考えないようにするはずである。多くの日本人が沖縄について多くを語らないのは、狂信を忌避する自然な反応である。沖縄の「反基地」活動は、「差別」に対する反作用という観点からではなく、何よりもまず、狂信という観点から語られるべき事柄であるように思われるのである。