kokuto manju - wagashi

田舎とは郊外である

 私は、個人的には、田舎があまり好きではない。東京生まれ、東京育ちであり、故郷という意味での「田舎」を持たないからであるかも知れない。

 私は、日本の田舎の風景もあまり好きではない。人里離れた山奥まで行けば事情は違うのであろうが、自動車を運転せず、公共の交通機関と徒歩以外の移動手段を持たない私のような者が地方で実際目にするのは、「田舎」というよりも「郊外」や「片田舎」と呼ぶのにふさわしい空間であり、残念ながら、私には、緊張感を欠いた、しかも――よそ者の私にとっては当然のことながら――よそよそしいその空間の価値がよくわからない。したがって、(世間には、「田舎暮らし」に憧れる人がいるようであるが、)少なくとも今の私には、「田舎暮らし」というのは、あまり魅力的には思えない。自宅から1時間以内の場所に大型の書店があるわけでもなく、もっとも近いスーパーマーケットに行くのにすら自動車を使わなければならない生活というのが人間的であるようには思われないのである。

「田舎風」という居直り

 また、これも東京に住む者の偏見かも知れないが、私は、「田舎」と名のつく商品も好まない。実際、食品の名称で「田舎」の二文字が含まれているものには手を出さないようにしている。たとえば、田舎風の汁粉、田舎風の弁当、田舎風の蕎麦……。「田舎風」という表現は、製品の「おざなり」で洗練を欠いた仕上がり、完成度の低さに対する居直りの表現であり、このような居直りは、いわゆる「民芸品」にも同じように認めることができる。製品の仕上がりがおざなりであることの自覚が作り手自身にあるにもかかわらず、これをあえて「田舎風」と名づけて販売し対価を得ようとするという態度に、私は、何か気持ちのよくないものを感じるのである。

 同じ理由によって、私は、餡を用いた和菓子について「漉し餡」か「つぶし餡」か、いずれかを選ぶことができる場合には、必ず「漉し餡」、つまり小豆の皮が取り除かれたものを選ぶことにしている。というのも、餡の完成形態は「漉し餡」だからあり、「漉し餡」を標準とするとき、「つぶし餡」というのは完成度の低い田舎風のものと見なされねばならないからであり、さらに、「つぶし餡」には、完成度の低さに対する居直りが認められるような気がしてならないからである。

 なお、私は、(関東風の)「ぜんざい」に関し「栗(くり)ぜんざい」と「粟(あわ)ぜんざい」から選ぶことができるときには、断然「粟(あわ)ぜんざい」を選ぶ。(関西風の「ぜんざい」は、東京では「汁粉」と呼ばれている。)家族から「『栗(くり)ぜんざい』を有り難がるのは田舎者」と言われるの聞いて育ったせいもあるのかも知れないが、「栗(くり)ぜんざい」は、つねに何となく魅力に乏しいように感じられるのである。(とはいえ、なぜ「栗(くり)ぜんざい」が田舎風なのか、よくわからないのだが。)もっとも、東京でただ「ぜんざい」と呼ばれているのは、ほとんどの場合、「栗(くり)ぜんざい」であり、「粟(あわ)ぜんざい」が食べられるところは、決して多くはない。