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 自宅の最寄りの駅で電車に乗るために改札を通ると、ホームに辿りつくまでに階段を上らなければならない。この階段には、上り/下りが分かれており、階段の下から見ると、左側が上り、右側が下りのゾーンになっている。

 ただ、両者のあいだに仕切りのようなものは特になく、階段に「上り」「下り」の大きな文字と方向を示す矢印が印刷されたステッカーが貼られ、それとともに、階段を下から見たとき、左側の壁に「上り」の文字と斜め上向きの矢印が記されたプラスチックの案内板、右側の壁に「下り」と斜め下向きの矢印が記されたプラスチックの案内板が固定されているだけである。(つまり、矢印は左側通行を人々に求めているわけである。)さらに、これらの指示に従わなくても、電車に乗ることができなかったり、改札口に辿りつくことができなくなるわけではない。

 おそらく、そのせいなのであろう――私自身は、このような矢印による指示にできるかぎり従うようにしているけれども――全体としては、これらの方向の指示は、必ずしも厳格に守られてはいないように見える。実際、階段を上る途中で、右手で手すりにつかまりながら下りてくる老人に遭遇し、道を空けることは少なくないし、スマートフォンの画面に注意を奪われたサラリーマンが階段を右側通行しているのを見かけることもまた珍しくはない。

 通路や階段の「上り」「下り」「左側通行」などの指示は、出口を示したり、路線の乗り換えを案内したりする矢印とは異なり、乗客の流れを整理するためのものであり、鉄道の運行会社や駅の都合を度外視するなら、乗客にとっては、「守らないよりは守った方がよい」という程度のものにすぎない。実際、複数の路線が交差する大都市圏の乗り換え駅では、乗客の複雑な流れを矢印だけでコントロールできるはずはなく、駅の構内のいたるところで人の流れが衝突したり停滞したりすることを避けられない。

 ここからさしあたり明らかになるのは、次の事実である。すなわち、「上り」「下り」などの指示は、その場を通過する乗客の大多数がこれに従うことによって初めて効力を持つものであるから、たとえば私ひとりがこれらの指示を規則として受け止めて厳格に守ることには何の意味もないという事実である。私以外の誰もこれらの指示に従わないとき、私一人が矢印に忠実であることは、乗客の円滑な移動を促進しないばかりではなく、乗客の大多数が「指示に逆らう」(=矢印と反対の方向に移動する)なら、私の行動は、乗客の流れをかえって阻碍してしまう。

 それでは、駅の階段における上り/下りのゾーンの指示を私たちが守るのは、指示に従うことによりある空間の内部で衝突や停滞を経験せずに移動することが可能となるかぎりにおいてであることになるのであろうか。たしかに、駅の構内の人口密度が高くなるとともに、上り/下りの指示への忠実の程度が上昇するという関係を想定することは可能である。ただ、上り/下りの指示は、自然発生的に作られた人の流れを追認し記述するだけのものなのではなく、私たちは、上り/下りの指示を何らかの規範――「弱い規範」であるとしても――として受け止めていることもまた事実である。私たちが不知不識に従ったり、あるいは、従わなかったりしているあの矢印、「上り」「下り」の指示などは、どのような性格を具えているのか、これは、真面目に考えてみるに値する問題である。実際、このタイプの指示や命令が社会生活において担う役割は、意外に大きいように思われるのである。