保育園

 周辺の住民の生活環境を好ましくない方向へと変化させる可能性がある施設や建物を市街地に建設すると、反対運動が起きる可能性がある。特に、人口がある程度以上密集した大都市では、このような計画は、大抵の場合、何らかの反対運動を惹き起こすことになる。マンション、火葬場、刑務所、そして、保育園などは、反対運動にきっかけを与える施設や建物の典型である。

 しかし、このような施設や建物は、すべてが同じような「迷惑施設」なのではない。すなわち、これらは、(1)建設にただ反対することが許される施設や建物と、(2)建設に反対を表明する者に一定の(もちろん倫理的な)義務が課せられる施設や建物の2種類に区分されるはずである。

マンション、刑務所、火葬場への建設反対は、言いっぱなしでかまわない

 しばらく前、近所を散歩していたら、「建設反対」と印刷された「のぼり」を見かけた。この「のぼり」は、ある通りに面した10メートルか20メートルくらいの範囲の住宅の前に1メートルおきくらいに何十本か立てられていた。通りの反対側を見ると、そこには空き地があり、10階建てのマンションの建設が計画されていることを示す「建築計画のお知らせ」が掲げられていた。「のぼり」に印刷された「建設反対」とは、マンションの建設計画への意思表示であることがわかる。

 高層のマンションは日照を遮ったり、新たな騒音を産み出したりする可能性がある。したがって、周辺の住民が、「法律や条例にもとづいて建設が容認されているということはマンションの建設を許す十分な理由とはならない」と判断したとしても、それは、何ら不自然なことではない。そして、このような場合、住民には、建設計画にただ反対することが許されると考えることができる。それは、建設されるのがマンションだからである。

 2016年現在、少なくとも東京23区の西の方では、住宅の需要が極端に逼迫しているわけではない。すなわち、住宅の逼迫した需要に対し、集合住宅を新たに建設することで応える義務が公共の福祉という観点からデベロッパーに課されているわけではない。さらに言い換えるなら、予定された土地に建設されるマンションで誰かが暮らしたいと思っているとしても、この誰かには、他にいくつもの現実的な選択肢があり、問題のマンションに住めなくなったとしても、ただちに路頭に迷うわけではないのである。マンションの建設反対の意思表示のすべてが常識的であり妥当であるとは思わないが、それでも、周辺の住民には、自分たちが利害関係者であることを表明する権利がつねに与えられていると考えるべきである。

 刑務所や火葬場に関しても事情はほぼ同じである。たしかに、公共の福祉の観点から、刑務所や火葬場は、迷惑であるかどうかには関係なく――どうしても必要な施設である。しかも、特に火葬場に対する需要は逼迫していると言ってよい。ただ、刑務所や火葬場が必要であるとしても、これらを人口が密集した市街地にあえて建設しなければならないわけではない。このような施設の場合、「日常的なアクセスのよさ」を考慮する必要がないからである。

保育園(保育所)の建設に反対するなら対案を出せ

 しかし、世の中には、建設にただ反対するだけでは済まされない施設がある。すなわち、公共性が高く、需要が逼迫し、しかも、立地に制限がある――人口の密集するところでこそ必要とされる――ような施設である。2016年現在、そのような施設を代表するのが保育園(保育所)である。

 もちろん、私は、保育園の建設に反対してはならないと言っているのではない。保育園が隣地にできることを迷惑と感じるのは、それ自体としては、ごく自然な反応だからである。ただ、日本人なら誰も、保育園に対する需要が逼迫していることを知っている。また、需要と供給のバランスが「可及的速やかに」解消されないと、日本の将来の産業競争力が損なわれたり、保険制度や年金制度が破綻したりする危険があるということもまた、周知の事実である。つまり、保育園の問題――つまり、待機児童の問題――というのは、社会が全体として解決すべき問題なのである。

 待機児童の問題が社会全体で解決されるべき問題であるという共通了解を否定する者は、保育園が近所に建設されることにただ反対してもかまわない。しかし、待機児童の解消が社会全体の利益を増大させるという認識を大多数の日本人とともに共有するなら、「保育園の建設に反対を表明する権利」は、「現実的で具体的な対案を出す義務」と一体のものでなければならない。つまり、隣地に保育園を建設してほしくないのなら、候補となる代替地を具体的に提案し、また、その代替地の周辺の住民の了解を得る努力をすることが義務となるはずである。なぜなら、待機児童の解消は、自分に子どもがいるかどうかには関係なく、社会全体の課題であり、したがって、自分自身の課題として引き受けるべきものだからである。具体的で現実的な対案を示す義務を負う覚悟がない者には、保育園の建設に反対する権利はないと考えるべきなのである。

 昨日、次のような記事を見つけた。

近所に保育園、迷惑ですか 高齢者ほど反対って本当?:朝日新聞デジタル

 この記事で暗示されているように、みずからを利害関係者に含めるなら、「ただ反対する」ことで済ませることは誰にも許されない。利害が対立するように見える者たちの声に積極的に耳を傾け、当事者のあいだでの合意形成を目指すこと、そして、それぞれの地域にふさわしい保育園(=保育所)の処遇の姿を描くことは、すべての者に課せられた義務なのである。

保育士の給与は公務員並みにすべき

 ところで、待機児童の解消が進まない原因の1つに、保育士の不足があると考えられている。そして、保育士の不足の原因の1つに、劣悪な待遇条件があるとも言われている。私は、保育士の業務の公共性を考慮し、私立の認可保育園(保育所)で働く保育士であっても、保育士に補助金を直に支給することで実質的な賃金を公務員並みに引き上げるべきであると考えている。途方もなく重要な仕事を担う人々が平均の水準をはるかに下回る賃金しか得ていないというのは、「やりがい搾取」以外の何ものでもないように思われるのである。