Trinity.

歴史は死者のものである

 「人類はいつ誕生したのか。」この問いに対する答えは、「人類」をどのように定義するかによって異なるであろう。ただ、現代まで大まかに連続している人類の文明がメソポタミアに起源を持つという世界史の常識に従うなら、人類の歴史には少なくとも8000年以上を数えることが可能である。そして、この事実に従うかぎり、私たちの日常生活が前提とする社会的、政治的、経済的、文化的な枠組はすべて、この8000年以上の歴史を生きたおびただしい人々の手によって作り上げられてきたものであると考えねばならない。つまり、私たちの現在の生活は、よい意味でも悪い意味でも、死者たちによって準備されてきたものである。

 実際、古代から現代まで、人類の歴史を形作るのは、膨大な数の死者とわずかな数の生者である。歴史において、生者はつねに圧倒的少数派であり、何層にも重ねられた分厚い伝統の表面を覆う薄い膜のようなものである。私たち生者の世界は、死者のおかげで成り立っているばかりではなく、死者に取り囲まれ、死者とともにあるものなのである。

呼びかけと応答

 人類の歴史において、生者は、死者たちの声を日々聴き取り、死者たちと対話することにより生者の世界を産み出してきた。このかぎりにおいて、現在とは本質的に過去であり、歴史であり、伝統である。

 もちろん、歴史を満たす死者たちの声はほぼすべて、さしあたり彼ら/彼女らが直接に見たり、触れたりすることのできる者たち、声をかければ物理的な応答が戻ってくる可能性のある者たちに向けられたものであろう。しかし、すべての声が物理的な応答への期待から発せられたものであるわけではない。なかには、数十年後、数百年後の生者たちのあいだからの応答を期待する孤独な呼びかけが聞こえてくることもある。彼ら/彼女らは、みずからの声に対する応答が、声を発した者自身のもとへと戻ってくることを期待するのではなく、むしろ、みずからが死者として遇されるはずの後世の生者のあいだで応答が生れることを期待して何かを語り、そして、何かを書いているのである。

 同時代の生者たちのあいだに速やかに受け容れられる作品というものは、文学であれ、哲学であれ、音楽であれ、絵画であれ、やはり速やかに消費され、あるいは腐蝕し、後世を持つことができないのが普通である。このような作品が後世からの応答に与ることができるとするなら、それは、作品に新しいコンテクストが与えられる場合だけであろう。同時代から受け容れられない作品のすべてが「古典」となり、未来の生者に受け容れられるわけではないけれども、少なくとも、普遍的な価値を持ち、後世からの応答を期待しうる作品は、同時代の社会、政治、経済、文化などのコンテクストに拘束される度合いが小さく、その分、同時代の生者たちの目には接近することが困難なものと映ることは確かである。

歴史を作る使命

 古典的な書物を読み、古典的な藝術作品を鑑賞することは、何よりもまず、死者たちとの対話である点において意義を与えられるべきものである。しかも、古典への接近は、生者の歴史を形作ってきた死者たちとの対話であり、生者の世界を支える伝統に埋め込まれた死者たち、「内なる死者」たちとの対話でもある。私は、時間の暴力に抗して私のもとに届けられた声に耳を傾けるとき、偉大な死者たちの呼びかけに敬意をもって応答していることになる。死者の呼びかけに応答することは、生者の責任でもある。

 現在の生者にとり、古典に接近することは、時間のへだたりを超えて死者と言葉を交わすことであり、古典によって形作られてきた伝統へと沈潜しながら何かを語ることは、死者への応答であるとともに、他人への呼びかけでもある。もちろん、呼びかけへの応答をみずからが直接に耳にすることができるとはかぎらない。呼びかけが応答を産むのは、数十年後、あるいは、数百年後であるかも知れない。しかし、いつの時代にも、普遍的な呼びかけが聴く耳を十分に持つことはないとするなら、そして、歴史を形作り、死者として伝統の一部をなすことをが生者の使命であるかぎり、呼びかけもまた、本質的に歴史的なもの、つまり、未来の生者への呼びかけとなるのがふさわしいのである。