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 昨日、次のような記事を見つけた。

NEWSポストセブン|百田尚樹氏「中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を」│

 ここで語られていることがどの程度まで真面目なものであるのか、私には判断ができないけれども、百田氏が冗談を語っているのではないとするなら、それは、文化の受容に関する恐ろしい無知と不見識の反映として受け取られるべきものであり、文化の生産に従事する著述家が口にしたことが事実とは信じられないような発言であると私は考えている。

 私は、百田氏のこの発言に同意する日本人がゼロにかぎりなく近いと信じている。そもそも、この論法は、百田氏の嫌いな中国で「抗日」や「反日」を声高に叫んでいる活動家の論法と何ら違いはないように思われるのである。

「外国」に由来する文化を受容することは、これに盲従することを意味しない

 そもそも、外国において産み出された文化的な成果を自国に取り入れることは、当の外国の文化的植民地になることを意味するものではない。古代のいくつかの地域を例外として、歴史に姿を現したすべての文化は、同時代または近い過去の「外来」の文化を摂取し、これを自分なりに消化することにより、みずからの姿を作り上げたのである。このかぎりにおいて、文化の個性は、その消化の仕方に現れると言うことができる。

 ハチミツは、ミツバチが集めた花粉のかたまりではない。それは、ミツバチがみずからの体内の酵素を用いて花粉を濃縮、熟成させることにより産み出されるものであり、花粉をいくら寄せ集めてもハチミツにはならない。文化もまた、これと同じである。すなわち、文化の価値は、「何とも似ていないまったく新しいもの」の生産量で測られるのではなく、むしろ、目の前にあるものを変形し昇華させることによって作り上げられるものの普遍的な意義によって測られるものなのである。

 日本人は、1500年近くにわたり、漢文を学んできた。そして、この事実は、それ自体として、中国文化に対する高度に日本的な態度の証である。なぜなら、「漢文を学んできた」ということは、古代中国語が、わが国において――荻生徂徠に代表される少数の知識人を例外として――古代中国語として、つまり、外国語として学習されてきたのではなく、「漢文」として、つまり、日本語の表現形式の一種として受容されてきたことを意味するからである。

 これは、中国語と中国文化の受容に関する日本に固有の形態として高く評価されるべきである。漢文というのは、中国の文化ではなく、中国の文化の日本的な消化の成果であり、純粋に日本的なものなのである。(中国に隣接する他の国にも、漢文と似たような形で中国語を受容する試みがまったくなかったわけではないけれども、日本ほど継続的、系統的なものではなかった。)

漢文学習の伝統がなかったら、「教育勅語」も『学問のすゝめ』も生まれなかった

 したがって、漢文を学ぶことは、日本文化の伝統を学ぶことであり、漢文は、日本の文化の不可欠の一部である。もはや現代では、10代から20代の平均的な中国人には漢文に相当する古代中国語を正しく理解することができないと言われている。だから、百田氏の要求が実現して漢文の授業が廃止されることになれば、その措置は、日本人の知的水準を中国人と同じ程度にまで引き下げることに役立つはずである。

 表面的に見るなら、日本人が漢文をまったく勉強せず、ただ外国語としての古代中国語を一部の知識人が学習するだけであったなら、古代から現代まで、わが国の文学史を形作る作品は大半が生まれていなかったであろう。万葉集、古事記、日本書紀に始まり、源氏物語、今昔物語集、枕草子、平家物語、太平記などを経て、夏目漱石(漢詩人でもあった)や森鴎外を始めとする明治の文豪まで、すべてが文学史から姿を消す。当然、「漢文訓読体」なるものも存在せず、いわゆる「教育勅語」も福沢諭吉の『学問のすゝめ』も書かれることはなかったであろう。

 古代中国語を漢文として受容し、これが遅くとも江戸時代中期までに国民の広い範囲に普及していたからこそ、明治以降、「漢語」を媒介とする欧米文化の導入が速やかに進められ、韓国を始めとする他のアジア諸国とは異なり、自国語のみによる高等教育が可能になったのである。そもそも、現代の知的世界においてテクニカルタームとして用いられている漢語の大半は、西周を始めとする明治の知識人たちが漢文の伝統の中から生み出したものであり、中国語に由来するものではないのである。

漢文学習と中国への親近感が無関係であることは、歴史が証明している

 日本には、どの時代にも、「中国かぶれ」と呼ぶことのできる人々が必ずいた。しかし、このような人々が少数派の「中国かぶれ」と受け止められていたという事実は、大半の日本人が「中国かぶれ」ではなかったことを物語る。

 漢文を勉強し、漢文を巧みに操る能力を身につけることと、中国が好きになることとのあいだには、おのずから距離が認められる。実際、日清戦争において重要な役割を担った陸奥宗光や伊藤博文が漢文の学習のために費やした時間は、現代の平均的な日本人の漢文学習時間の何百倍にもなるはずであるけれども、彼らが決して「親中派」でも「媚中派」でもなく、百田氏が言うところの「中国への憧れ」などはなく、当然、「中国は『歴史ある偉大な国』『文明的ないい国』だという誤解」などに囚われてもいなかった。

 それどころか、同時代の中国に対し親近感や敬意を彼らが抱いていたかどうかすら怪しいことは、歴史的な事実から明らかである。漢文を勉強することと中国に対する警戒感が無関係であることは、歴史によって証明されているのである。

 むしろ、現代の教育において問題なのは、漢文学習の比重が相対的に低下していることである。多くの大学は、入試の国語の問題作成に当たり、漢文を出題範囲から除外している。これが原因の1つであるのかどうかわからないけれども、現在の平均的な高校生の学習において漢文が占める位置はきわめて低く、むしろ、私自身は、現代の社会生活をわが国の伝統に接続させるためには、国語教育における古文と漢文の比重を大きくすることが必要であると考えている。

 ことによると、百田氏は、「日本人の『中国への漠然とした憧れ』」という言葉を使うに当たり、『史記』マニアや『三国志』マニアや『水滸伝』マニアを想定しているのかも知れないが、そうであるなら、まず百田氏が主張すべきなのは、漢文の授業を廃止することではなく、これらの歴史書を題材とするゲームの製作と販売を制限することであろう。


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