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 人工知能が発達することにより人間の仕事が奪われるかも知れないという予想は、社会の中で広く受け容れられているものの1つである。

 たしかに、社会の中には、機械の性能が向上するとともに姿を消す可能性のある仕事は少なくない。実際、歴史を振り返るなら、技術の進歩とともに不要となった仕事はたくさんある。単純な肉体労働や事務作業というのは、「今は機械にはできない」仕事であるにすぎず――遠いか近いかは仕事の内容によって異なるとしても――将来のいずれかの時期に同じ作業に従事する機械が開発され、人間の仕事ではなくなるはずである。

 しかしながら、「今は機械にはできない」のではなく、「機械には決してできない」仕事というものがある。それは、直接に他人に対して責任をとるタイプの仕事である。

 もちろん、たとえば建設現場で足場を組んだり、オフィスで書類をコピーしたりするような作業に従事する者は、間接的には他人に対して責任を負っている。しかし、それは「業務を指示どおりに遂行する」責任であり、この意味において限定的な責任である。

 これに対し、社会には、「どう責任をとればよいかは相手により異なる」というタイプの仕事がある。たとえば、民間企業の場合、製品開発や市場調査、単なる広告や宣伝については、そのかなりの部分を人工知能に代行させることができる。また、医療や法律の分野でも、単なる情報の整理や書類の作成は、機械でも担うことができる。また、「グーグル・ニュース」がすべて機械によって編集されているという事実が雄弁に物語るように、新聞についても、近い将来、記事を配列し整理し配布する作業は、人間を必要としなくなるはずである。

 しかし、もっとも狭い意味での「営業」は、人工知能には担うことができない。これは、企業活動を構成する要素の中で、最後まで人間によって担われるはずである。それは「今はまだ」人工知能には無理なのではない。営業の本質が他人の話に耳を傾け、他人を説得することにあるかぎり、これは、人工知能には「決して」担うことができない。なぜなら、これは、人間の反応、具体的には満足/不満足に責任を負うものだからである。営業の仕事を人工知能に置き換えるなら、今度は、営業の成否についいて、人工知能を開発した者が責任を負うことになる。

 同じように、小学校から高等学校までの教員――さらに、幼稚園の教諭、あるいは保育士など――もまた、人工知能が代わることのできないものである。教員の仕事が「知識を提供すること」に尽きるのであれば、人工知能が教師の役割を担うことは容易であろう。しかし、実際の教員の仕事は、生徒や児童に対する「指導」であり、これは、子ども一人ひとりを観察し、いつ、どのような状況のもとで、誰に対し、どのような態度をとるか、その場で個別に決断することによってしか成り立たないものである。(人工知能にできることがあるとすれば、膨大な量のアドバイスをティップスとして蓄積し、状況に応じてこれを「提案」することであろうが、これは「指導」でも「教育」でもない。)そして、その「指導」は、指導する側が最終的な責任を負う。最終的な責任を負う仕事は、人工知能がどれほど発達しても、決してなくなることはない。(そもそも、人工知能には「人格」がないから、責任は一切負うことができない。)

 とはいえ、最終的な責任を負う者には仕事を人工知能に奪われるおそれがないことは確かであるとしても、このような仕事がつねに非常に大きなストレスを与えることもまた事実である。たとえば、教員なら、自分の指導に従わない生徒一人ひとりに向かい合い、関係を作って行くことがストレスになるばかりではない。上司、同僚、保護者などが突きつける要求を考慮することからも逃れることができない。実際、最近20年のあいだに新任の教員が少なくとも10人自殺しているようである。

新人教員 10年で少なくとも20人が自殺 | NHKニュース

 また、文部科学省は、2015年の1年間に精神疾患で休職した教員が5009人になるという調査の結果を公表している。この事実は、学校における教員のストレスの大きさを示している。

文科省調査:精神疾患で休職教員5009人 15年度 - 毎日新聞

 当然、民間企業で営業に従事する者もまた、客の気まぐれや手違いに振り回され、自分の予定や計画が狂い、これがストレスの原因になることがあるであろう。

 人工知能によって奪われない仕事は、最終的な責任を負う仕事である。しかし、それは、対人関係に由来する烈しいストレスにさらされる仕事であり、ことによると、給与に見合わない仕事、好んで就きたいと思う者が少ない仕事ということになるのかも知れない。