All they did was

 「趣味」(hobby) というのは、私を始めとして、趣味を持たない人間には一種の謎である。そこで、趣味というものが成立するための形式的な条件について少し考えてみたい。

 「何を趣味にしているのか」という問いに対し「趣味は仕事」などと答えて得意になっている人がいるけれども、大抵の場合、「趣味は仕事」という文は、「生活の糧を得るために従事している労働の内容が積極的な仕方で関心を惹きつけることで生活が充実している」ことの短縮表現であり、「趣味はない」という文の言い換えにすぎない。「趣味は仕事」などとうそぶく人が労働を趣味としているわけではないと考えるのが自然である。そもそも、常識に従うなら、趣味というものは、基本的に報酬とは無縁の活動であるはずであり、この意味においても、「趣味は仕事」は、上の問いに対する適切な答えではないと言うことができる。

 夏目漱石は、1911(明治44)年に行われた講演「道楽と職業」において、みずからの重要なキーワードである「他人本位」/「自己本位」を「職業」/「道楽」の区別に重ね合わせる。漱石によれば、他人の利益のために働いて報酬を得るのが職業であり、自分自身の満足のために従事するのが道楽となる。漱石のこの区分が妥当であるなら、「趣味」なるものは、道楽であるか、あるいは、少なくとも道楽の重要な一形態であると考えねばならない。

 趣味は、自己本位を本質とする活動であり、他人本位の労働と対立する。趣味は、それ自体が目的であるような活動なのである。だから、知り合いを作りたくて碁会所に通う人にとって、囲碁は趣味ではなく、単なる口実にすぎないことになる。

 趣味は、自己目的的な活動、誰から強いられるわけでもない活動であり、自由な活動であり、このかぎりにおいて、人間に固有の活動である。なぜなら、動物は、生存の必要とは無縁の活動に従事する能力を欠いており、外的な状況によって強いられないかぎり何もしないからである。

 とはいえ、趣味が趣味として成立するには、職業に要求される以上の自発性、主体性が必要となる。趣味というのは、純粋の能動なのである。もの言わぬ自然、もの言わぬ素材に働きかけ、ときにはこれを変形し(盆栽、陶芸、料理など)、ときにはこれを制御し(乗馬、サーフィン、登山、楽器など)、ときには何かを取り出す(釣り、彫刻など)……、「趣味」と呼ばれるものに手先を使うアナログなものが多いのは、趣味が本質的に能動的なものであることを考えるなら、至極当然なのである。(同じ理由により、空いた時間にスマートフォンをダラダラといじることを「趣味」と見なすことはできない。さらに、テレビゲームが趣味となりうるかどうかということもまた、問題となりうるであろう。)

 「趣味を持つのはよいことである」「老後の生活を充実させるために何か趣味を持て」などという平凡な忠告には深い意味がある。趣味というのは、これが本当の意味における趣味であるかぎり、人間の人間らしさを表すものだからである。人間として生きるということは、何か趣味を持つことと同じであると言ってもよい。もちろん、絵画、彫刻、釣り、蕎麦打ち、盆栽、陶芸、囲碁、旅行などの趣味は、その本質的な部分に関しコンサマトリーであり非生産的である。(だから、その面白さを他人に説明するのが難しく、完全な門外漢が新たに参入し面白さを見つけるのは容易ではない。)しかし、純粋に自由で能動的な活動であるかぎり、どのようなものでも趣味となるのであり、自分なりの趣味を見つけることは、普通に考えられている以上に大切な課題であるに違いない。