With reverence

 本には、他の商品には特殊な性質がある。それは、何のために役に立つのか、どのくらい役に立つのかという点に関し、予測することが困難であるという性質である。

 たとえば「まな板」や「ボールペン」や「Tシャツ」などについては、これを買う計画が心に浮かんだときにはすでに、これを何に使うのか、これを使えば生活のどこがどのように改善するか予測が可能であり、着地点が見えているはずである。(もちろん、予測が外れることはある。)

 たしかに、私たちは、使う具体的な予定がなくても購入することがないわけではない。それでも、使用することによる生活の質の改善や向上が予測不可能であるということはない。むしろ、このような予測は、何かを購入する場合には絶対に必要である。実際、私たちは、新しいボールペンに対し、書く作業に関する何らかの品質の改善を期待するであろうし、まな板を買うときにも、料理の効率の改善を何らかの意味において期待するであろう。

 もちろん、本を買うときにもまた、私たちは、読書により生活が何らかの意味において好ましい方向へ変化することを「予測」してはいる。しかし、その予測というのは、まな板やボールペンが収まるはずの位置に関する的確な想定(「このTシャツを着ると冬を温かく過ごせる」)と比較すると精度の低いもの、荒っぽいものであり、予測というよりも単なる「期待」にすぎないのが普通である。特定の効用への期待が購入の前提となる本というのは、料理本や日曜大工のマニュアルやガイドブックや会社四季報のような実用書や資料集の類であり、これは、例外に属する。実際、たとえば小説やエッセーや漫画や歴史書の購入が具体的な効用の的確な予想を前提とすることは滅多にないはずである。(本への支出が家計のすべての項目のなかで優先順位がもっとも低く、したがって、最初に削られるのは、効用の予測が困難だからである。)

 なぜ本のそれぞれに関し具体的な効用を予測することが困難であるのか、しかし、その答えは、比較的明瞭であるように思われる。すなわち、上に挙げたような実用書を例外として、私たちが本に対し漠然と期待しているのは、効用を正確に予測しうることではなく、むしろ――読むことによって生活が何らかの意味において好ましいものとなることはつねに期待されているとしても――読書が私たちをどこに導くのか、実際に読んでみるまでわからないことである。読書により、新しい経験を手に入れ、新しいものの見方を手に入れること、つまり、本を読んだあと、私たちが言葉の本来の意味において「新しい」存在へと変身すること、未知の自分に出会うことが読書の意義なのである。

 したがって。まだ読んだことのない1冊の本を初めて手に取ったとき、この本を読むことが私たちをどこに連れて行くのかがすでに分かっている、などということはありえない。到達点があらかじめ分かっているのなら、私たちは、本を読む前にすでにその到達点に身を置いていることになってしまうからであり、「まだ読んでいない本をすでに読んでしまっている」ことになるからである。これが自己矛盾であることは明らかである。

 本を読むことで自分たちがどこに着地するのか、読んだあと、どのような「新しい」私に出会うのか、予測することはできないし、予測することができないからこそ、私たちは本を読むのである。そして、これが読書というものの、教育というものの、つまり、自己形成――新カント主義の教育論を俟つまでもなく、すべての教育は本質的に自己教育である――というものの本来の意味であるに違いない。


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