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言葉が1つしかない世界

 しばらく前、次のような記事を読んだ。

YO!の1語のみでやり取りするアプリが斬新すぎると話題!

 Yo.とは、スマートフォンで”Yo”というメッセージを交換するためのアプリである。送ることができるのは、”Yo!”の一語とその音声だけであるらしい。(だから、一度使い始めたら、その後は、何らかの文字を入力するプロセスがないのであろう。)

 上の記事に記されているように、一語のみによるコミュニケーションは、きわめて高度な技術を必要とする。闇雲に”Yo!”を送っても、これは、コミュニケーションにならないからである。

 「ありがとう」も「おはよう」も「さようなら」も「嫌い」も「1+1=2」も「明日の13時に渋谷で待ち合わせ」も、すべて”Yo!”と表現する他はない。これは、あらゆる文を代理する記号なのである。

 そこで、”Yo!”以外の語をコミュニケーションで使うことができなくなったとき、何が起こるかを想像してみた。

 このアプリ以外に連絡手段がないとき、送り手に工夫することが許されるのは、送る相手とタイミングだけである。だから、”Yo!”だけでコミュニケーションを成り立たせようと思うなら、私は、”Yo!”を送ろうとする相手が、どこで何をしているのか、何を考えているのか、正確に予想しなければならない。つまり、ちょうどよいタイミングで相手に”Yo!”を届け、”Yo!”が代理しうる無数の文から、こちらが期待するものを選んでもらうために、相手のことを徹底的に知ることがコミュニケーションにとって必須となる。同じように、”Yo!”を受け取る側もまた、相手がなぜ”Yo!”を送ってきたのか、相手の身になって想像しなければならない。これは、コミュニケーション能力を向上させる訓練として非常に有効であるに違いない。

“Yo!”だけのコミュニケーションは思考を滅ぼすか

 もっとも、”Yo!”の一語によるコミュニケーションが支配的になるとするなら、それとともに、”Yo!”以外の語は次第に使われなくなるはずである。もちろん、単語が実際に使われなくなるとしても、現実を分節するための枠組としての言語が消滅するわけではないが、膨大な単語を使いこなす能力は次第に失われて行くことは確かであり、複数の単語を使って何かを表現することは、複雑な楽器の演奏に似た特殊な記号の操作と見なされるようになるであろう。

 しかし、本当に”Yo!”の一語しか使われなくなったとき、その状況を「言語が使用されている」と考えることができるであろうか。というのも、ソシュールとともにラングの本質を「差異」に求めるなら、(アクセントもイントネーションも同じ)ただ一語しか単語を持たない言語は、言語と見なすことはできないことになってしまうからである。(もちろん、身振りも使えないということが前提である。)

 さらに、言語が思考の分節の枠組であるなら、一つひとつの”Yo!”を説明するためのメタ言語を想定しないかぎり、「”Yo!”言語」(?)は何ものも分節しないことになるから、そこには思考そのものが不在であるということにもなるであろう。

 それとも、たとえ”Yo!”しか使うことが許されないとしても、思考することは可能なのであろうか。そして、考えることが可能であるとするなら、私たちは、そのとき、何を考えるのであろうか。