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外国語の習得には強い動機が必要

 これまでいろいろな言語を勉強してきた。ある程度ものになった――これをどう定義するかは、それ自体として問題であるが――ものもあれば、まったく身につかなかったものもある。(私の場合、ポーランド語。)ただ、どのような言語であれ、同じ人間が使うものであるから、習得不可能であるはずはなく、身につかなかったのは、私の努力が不足していたからなのであろう。

 とはいえ、外国語の勉強は、短期間で完成するものではないから、努力は、それなりの動機によって支えられていることが必要となる。言い換えるなら、何らかの必要に迫られないかぎり、外国語の学習に必要な時間や体力を長期間にわたって捻出することは不可能なのである。

外国語が身につかないのは、身につける必要がないから

 外国語というのは、楽しく身につけるものではない。むしろ、必要に迫られないかぎり、外国語は決して身につかないと考えるべきである。

 そして、外国語が必要に迫られて初めて身につくものであるなら、外国語を習得することができたということは、その外国語を身につける差し迫った必要があったことを意味する。さらに言い換えるなら、外国語が身につかないのは、その外国語を身につける切実な理由が見出せないからであることになる。

 世の中には、語学の勉強が苦手な人が多い。そして、その理由は明白である。外国語の勉強のコストと外国語を身につけなかった場合に被る不利益を比較し、前者が後者にまさるように見えるかぎり、外国語の学習に時間と体力を使う理由などないのである。

どのような必要に迫られているかにより、身にく語学力の内容は異なる

 そして、語学力は、必要に迫られれば必ず身につき、必要に迫られないかぎり決して身につかないということから、次の点もまた、ただちに帰結する。すなわち、外国語の学習へと私たちを促す「必要」の内容に応じ、身につく外国語の内容もまた異なるという点である。文献を読む能力を必要とする場面では、読解力が優先的に身につくであろうし、聴きとる能力が要求される場合には、聴く力が伸びることになるに違いない。

 語学力に関するかぎり、「バランスよく」「全体として」などということはなく、状況が要求する形でしか身につかないものである。だから、何をもって外国語が「ものになった」と言えるのかという点に関し、普遍的な基準はないと考えるのが自然である。

 私の場合、外国語は、主に限定された種類のテクストを読む必要に迫られて勉強したものである。発音は好い加減であるし、聴き取りに関しても十分な能力を持っているとは言えない。それでも、私の必要を満たす最低限の語学力が身についたことは事実であり、この意味において、「ものになった」と言うことが可能である。

 「その外国語を何に使うのか」「何のためにその外国語を勉強するのか」と問われ、答えとして心に浮かぶのが「観光旅行」くらいであるなら、その外国語を勉強するのはやめた方がよい。決してものすることはできないはずだからである。