worried-girl-413690_1920

相手に「試されている」ように感じることがある

 誰かと向かい合って言葉を交わしていると、相手に「試されている」のではないかという疑念に囚われることがある。つまり、「相手は、私の言葉や反応にもとづいて私に『何か』を与えるかどうか決めるつもりなのではないか」と考え、不安になってしまうのである。

 同じように、誰かから何かを依頼されたときにもまた、これが「テスト」なのではないかという疑いに心が支配されてしまうことがある。相手が親しくない他人でも、あるいは、家族でも、事情は同じである。

相手に何かを期待しているから

 もちろん、すべての他人は、私が何を語り、どのようにふるまうかにより、私についての評価を決めるはずである。したがって、相手が私の言動にもとづいて私を評価することは当然である。

 それでも、私が「試されている」と感じるとするなら、それは、相手から何かを受け取ることができるのではないかと期待している場合である。しかも――私が期待するのは、地位、好意、金銭などであるかも知れないが――何らかの事情により、それを私が求めていることを相手にエクスプリシットな形で伝えることができない場合である。(私が求めているものの内容によっては、私が相手にそれをエクスプリシットに求めると、対人関係が壊れてしまうかも知れない。)

目的と手段の関係が明瞭ではないから

 ただ、相手が私に与える可能性があるものが何であるか、あらかじめ明らかにされているとしても、私が相手の言葉やふるまいを「テスト」と受け止める余地は残る。というのも、私が期待するものについて当事者のあいだに明確な合意があるとしても、求めているものを手に入れるための手段が明らかにならないかぎり、何をすればよいのかわからないからである。

 何をすればよいかわからなければ、相手の言動の一つひとつが「テスト」に見えてしまうのは、仕方のないことであろう。

相手に恐怖を抱いているから

 もちろん、相手を全面的に信頼しているのであるなら、私は、「試されている」のではないかという疑念とは無縁のはずである。というのも、私を試すのなら、いつ、どのような条件のもとで、何を試すのか、どの程度まで何を実現することができれば合格したと見なされるのか、「テスト」の具体的な輪廓の提示を相手に期待することが許されるからである。

 相手に対する基本的な信頼があるかぎり、「試されている」という疑念を抱くことはないとするなら、「試されている」のではないかという疑念は、相手に対する不信ないし恐怖に根を持つものであることになる。

 相手は、私に対していつでも邪悪なことをなしうる立場にあり、しかも、私の言葉やふるまいによっては、実際に私に損害を与える――または、私に必要なものを与えない――可能性がつねにある……、私が相手をこのような存在と見なし、さらに、このような相手から何かを得ようとするとき、私は「試されている」のではないかと疑い始めるのである。これは、一種の自家中毒であると言うことができる。

あなたが本当に望むものは、信頼していない相手からは得られない

 だから、「試されている」「テストされている」という感じに囚われたら、

    •  あなたが相手に期待しているのが、あなたが本当に望むものであるのか、
    •  あなたが本当に望むものである場合、それを他の手段によって手に入れることはできないのか、

慎重に吟味することが必要である。

 ただ、あなたが信頼していない相手、心の底では恐怖すら感じる相手があなたが本当に望むものをあなたに差し出す可能性はないことは確かである。なぜなら、あなたが何を手に入れるとしても、それは、信頼していない他人から「かすめとられたもの」にすぎないからであり、「かすめとられたもの」には、それ自体としての価値はないからである。