AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年09月

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 2016年9月29日は、ボールペンを発明したとされるビーロー・ラーズローの「生誕117周年」らしく、Googleのトップページのロゴ(Google Doodle)が下のようなものに替わっていた。
Ladislao José Biro's 117th birthday

 ボールペンか万年筆のいずれか一方を選ぶことを求められれば、私は、ためらいなく万年筆を選ぶ。私は、ボールペンを使いこなすことができないのである。

 ボールペンというのは、名前のとおり、ペンの先に小さなボールがついている。したがって、ペン先の軌跡をコントロールするには、ペン先をそれなりの力で紙に押しつけ、溝を掘るような感じで文字を書き進めなければならない。ところが、これは、筆圧が弱い私のような人間には、苦行以外の何ものでもない。放っておくと、ペンの先が紙の上を勝手に走ってしまうのである。

 小学校のときには、HBの鉛筆が使えず、ずっと2Bを使っていた。(今は、2Bを使う小学生が多いようだが、私の世代では、2Bを使う小学生はほとんどいなかった。)シャープペンの芯も2Bである。筆圧が弱いから、書いた文字の跡が紙の裏に写る心配はなく、したがって、小学校で購入することを求められたプラスチック製の「下敷き」は、私にとっては、うちわの代用品であり、頭にこすりつけて静電気を発生させるオモチャでしかなかった。

 もちろん、これまで、さまざまなタイプのボールペンを試してきたが、今のことろはまだ、使えそうなものは見つからない。筆圧が弱くても文字がきれいに書けることを売りものの一つにしているニードルポイントも、残念ながら、私には使いこなせなかった。

ニードルポイントペンのすすめ【ペンハウス】

いつもの筆記具を違う印象にしたい。オシャレで使いやすいペンを探している。 そんな方へ、ペンハウスのおすすめアイテムをご紹介します。



 万年筆は、ボールペンと比較すると、筆圧の弱い人間にやさしい筆記用具である。ペン先に入れる力の強弱によって文字の太さは変わるけれども、ボールペンのように、紙に突き刺すような力を入れなくても、少しの加減で太さは調節することができる。むしろ、ボールペンの要領で万年筆を使うと、ペン先がすぐに傷むはずである。

 もっとも、私がいつも使っているのは、必ずしも高額な万年筆ではない。「高級」に分類されるようなペンを一応は持っているから、ペン先の金属が上等であれば、書き味もそれに応じて異なることはよくわかる。実際、価格が1000円を下回るような使い捨ての万年筆にはさすがに抵抗がある。
 しかし、残念ながら、「お洒落」として万年筆を集める趣味も甲斐性も私にはなく、安い万年筆を使いつぶし、そのたびに次を手に入れることを繰り返している。私にとって、万年筆は、メインとなる筆記具だから、非常に繊細だったり、普段からメインテナンスを必要としたりするようなものは、むしろ邪魔なのである。

 私が普段から使っているのは、たとえば、「ラミー・サファリ」「ペリカーノ・ジュニア」、あるいはパイロットの「カクノ」などである。これらの名前を見ただけで、マニアなら(悪い意味での)めまいに襲われるかも知れない。私は、「万年筆派」ではあっても、「万年筆愛好家」や「万年筆ファン」とは言えないようである。

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Pelikano® Junior- fountain pen by Pelikan

The Pelikano® Junior learn-to-write fountain pen has a special gripping profile for a perfect grip and a roll-away obstructor on the cap and the barrel.



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 「あなたは今までに何人の最期を看取りましたか。」

 あなたがこの問いに「ゼロ」と答え、しかも、あなたの年齢が40歳以上であり、かつ、介護の経験がないのなら、あなたは、ある意味では幸せであると言える。(この場合の「最期を看取る」とは、臨終にいたるまで病人に付き添って看病することを言う。)

 もちろん、大家族の場合、一緒に暮らしていた者の最期を看取ることは、珍しいことではなく、むしろ、日常を構成する要素であるかも知れない。しかし、現在では、核家族化が進んでいるから、40歳以上でも、誰の最期も看取ったことがない人、つまり、(大抵の場合は高齢の)親族が病気にかかり、そして、亡くなるまでに何らかの仕方で立ち会った経験を持たない人は少なくないであろう。

 現在、私は40代後半であるが、これまでに3人の最期を看取ってきた。この世代としては多い方だと思う。(なお、私よりも年長で、私が生まれたときのことを知る親族は、今はもうひとりも残っていない。)たしかに、これは、貴重な経験であると言えないことはないが、それでも、私のごく個人的な感想としては、親族の最期を看取る行為は、現代では、精神衛生上必ずしも好ましいことではなく、可能であるなら、回避する方がよいものである。

 細部にわたることは一々書かないが、少なくとも、次のようなことは確かであると思う。

 つまり、病を抱えた親族の面倒を、何ヶ月か、あるいは何年か、ある程度以上の期間にわたって最後まで見続けるなら、あなたは、看病される者が病に負け、彼/彼女の「人間性」が試練にさらされ、やがてこれが剥落して行く場面にかなりの確率で否応なく立ち会うはずである。親しい者のそのような姿など目にしたくないと思っても、大抵の場合――あなたが看病しているのは、他に代わる者がいないからであることが多い――あなたは、その場から逃れる自由を奪われており、病院の病室において、あるいは、自宅において、彼/彼女の最後の姿を見守り続けるをえない。これは、大きなトラウマとなる。

 それほど病が篤くない段階で「お見舞い」に行ったり、臨終の場に立ち会ったりするだけであるなら、誰でも、故人の思い出を美しく心に抱くこともできるであろう。しかし、あなたが「最期を看取る」者であり、特に、逃げ場がない状態で看病を続けた者であるなら、あなたの記憶に鮮明なのは、病に苦しみながら人間性を少しずつ剥落させて行く者の姿であり、病室、手術、点滴、効果のない治療や処置、医者や看護師の(無)表情、検査結果を記した書類、X線フィルム、故人との言い争い、消毒薬のにおいなどであるに違いない。故人との暮らしが何十年にもわたるものであるとしても、また、その何十年かがかけがえのない時間であったとしても、あなたがさしあたり繰り返し思い出すのは、その年月であるというよりも、むしろ、時間的にもっとも近い過去の「看取り」とならざるをえない。かけがえのないはずの何十年かは、これによって封印されてしまう。最期を看取ることは、親しい者ほど避けるのがよいかも知れないと私が考える理由である。


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Vintage Flip Cell Phone

デジタル機器の交替に乗り遅れると

 携帯電話について、今でも忘れられない光景がある。

 私が携帯電話を初めて手に入れたのは、1998年夏である。ちょうどそのころ、秋葉原の電気街で、ある店に入ってフラフラと歩いていたとき、私は、かなり高齢の女性が修理受付のカウンターの前で小型の縦長の弁当箱くらいの大きさの灰色の機械を鞄から取り出し、修理可能かどうか店員に尋ねているのを見かけた。その機械が何であるのか、携帯電話を買った直後の私にはすぐに見当がついた。それは、1990年代前半に発売された携帯電話の端末であった。

 1998年ごろというのは、携帯電話の小型化と多機能化が急速に進んだ時代であり、私にとっての最初の携帯電話は、体積の点でも重量の点でも、私が現在使っているスマートフォンの半分くらいしかなかった。それだけに、高齢の女性客が鞄から取り出した弁当箱大の端末は、いかにも「事務機器」風であり、発売から10年も経っていないにもかかわらず、化石のような印象を与えた。私自身が小型の携帯電話を手に入れた直後だったからなのかも知れない。

 女性に応対した店員は、「残念ながら、その端末はすでに製造中止になっており、部品も調達できない」という意味のことを説明し、最新の小型のものへの買い替えをすすめていた。しかし、女性は、持参した端末を鞄にしまい、沈んだ表情でそのまま店から出て行った。

 私は、この光景を見て、デジタル機器には、適当な移行の時期というものがあるらしいことを悟った。(「イノベーター」や「アーリー・アダプター」となり、新しい流れに早めに乗るのはかまわないとしても、)ある時代に社会に広く普及したデジタル機器をあまりにもながいあいだ使い続けていると、新しいタイプの機器が登場して普及し、社会のインフラになって行くとき、これを使いこなせず、社会の動きから取り残されてしまう危険があるのである。

 私の家族の1人は、ワープロ専用機をごく初期から使っていたが、そのために、パソコンの普及から完全に取り残されてしまった。1990年代後半以降、ワープロ専用機の製造が中止になり、修理のための部品を手に入れることも困難になって行く中で、ワープロ専用機をあえて使い続けることは、「次に故障したら2度と使えなくなるのではないか」という恐怖との絶えざる闘いのように見えた。21世紀に入ってからもワープロ専用機を使い続けていたせいで、周囲とのコミュニケーションに非常に大きな支障をきたしたことは、誰でも想像することができるであろう。

 私自身は、ワープロ専用機を1997年に処分し、パソコンを初めて購入した。これは、現在まで続くパソコン中心の社会の動きに辛うじて乗り遅れずに済むタイミングとしてはギリギリであったに違いない。

「あいのこ」が出てきたら、新しい機器に乗り換えるべきとき

 大体において、デジタル機器の交替は、「あいのこ」が登場したときが潮目であると言ってよい。パソコンがワープロ専用機を駆逐する過程において登場したのは、見かけを可能なかぎりワープロに似せたパソコンであった。「ワープロライクなパソコン」を必要とする階層が現われたときには、もはやワープロ専用機の命脈は尽きたと考えるのが自然である。

 同じように、「ガラホ」なるものもまた、フィーチャーフォンが消滅に向かうことのサインとして受け止めるべきなのであろう。「ガラケーライクなスマホ」を必要とするのは、イノベーター理論が「ラガード」(のろま)に分類する最後尾の階層のはずだからである。

 私は、個人的にはスマートフォンが嫌いである。しかし、これからしばらくのあいだ市場に流通する「ガラホ」は、とどまることなく畸形化し、やがて、知らぬ間に姿を消す運命にある。スマートフォンの次に何が現われるのか、私などには予想もつかないけれども、当面は、スマートフォンが社会において支配的なデジタル機器の1つであり続けることは確かであり、私たちは、これに耐えることを学ばなければならないのであろう。

 そう言えば、2005年から11年までアメリカで放映されていたテレビドラマ「ミディアム 霊能捜査官アリソン・デュボア」では、いわゆるNokia Tuneと呼ばれる独特の着信音が繰り返し流れる。

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The Nokia Tune: Grande Valse

 ドラマが放映されていたころには、ノキアがアメリカの携帯電話市場で大きなシェアを占めていたから、Nokia Tuneが何であるか、誰もが知っていたのであろう。しかし、今から10年後にこのテレビドラマを初めて観る者には、なぜこの着信音なのか、特別な説明が必要となるに違いない。


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NoPhone

 今日のウォールストリート・ジャーナルに、次のような記事が載っているのを見つけ、少し興奮した。
何もないスマホ「ノーフォン」に秘められた機能とは

 ここで取り上げられているのは、NoPhoneと呼ばれる「スマートフォン」である。下の公式ウェブサイトにあるように、この電話機には、何の機能もない。(だから、ある意味では、スマートフォンサイズの黒いプラスチックの函にすぎないとも言える。)価格は10ドルである。カップルで「使う」場合を想定し、2個なら18ドルとなる。「ファミリープラン」と名づけられた5個のセットは45ドルである。また、画面の部分が鏡になった”NoPhone SELFIE”も販売されており、これは18ドルである。

 さらに、最近は、”NoPhone Air”なる「新型」が発表された。これは、NoPhoneから筐体を取り除いたものであり、単なる空気である。(だから、包装のパッケージだけが販売される。)まだ販売は始まっていないが、1個3ドルのようである。

The Official NoPhone Store

 私は、以前から、スマートフォンが有害であると考えてきた。

24時間「デジタル断食」のすすめ 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

デジタル断食してみた 今年に入ってから、「デジタル断食」を何回か自宅で実行した。期間は、1回につき24時間であった。 デジタル断食またはデジタル・デトックス(digital detox) は、インターネット接続を完全に遮断した状態で時間を過ごすことを意味する。ネットによって



スマホを手放せない人間は障碍者だと思って今後は同情することにした : アド・ホックな倫理学

他人との交流の多くがネットで行われる中、あえてSNSを利用しないティーンがいる。友達からの「いいね」を求める生活を拒否し、フェイスブックやインスタグラムも利用しないが、彼らは何を得て何を失っているのだろうか。情報源: 米国ではSNSに背を向ける10代も - WSJ


 日常的にスマートフォンを使わざるをえないのなら、せめて1週間のうち連続した24時間、デジタル機器の電源を完全に落とすべきであり、パソコンでも用が足りるなら、スマートフォンなど最初から持つべきではないというのが私の意見である。ウォールストリート・ジャーナルの記事を俟つまでもなく、スマートフォンが社会の健全性を損ねていることは明らかだからである。

 もちろん、これはラッダイト運動ではない。私が理想とするのは、すべてのデジタル機器を社会から追放し、100年前の世界へと戻ることではなく、どのような場面でつながり、どのような場面でつながらないか、これをコントロールする本能と権限が私たち一人ひとりの手に戻ってくることである。そのためには、スマートフォンのどれになって、ゲーム、SNS、ニュースなどを餌に分別を奪われ、そして、時間とエネルギーと健康を吸い取られて行くことに断固として抵抗し、自己支配を目指すことが必要となる。

 NoPhoneの企画は、単なる冗談ではない。デジタル機器とインターネットに縛りつけられた、あるいは、デジタル機器に対する依存症に陥った私たちの生活のあり方に対する危機感の反映なのである。NoPhoneは、このような危機感の記号として受け止められているからこそ、すでに1万個以上が製造、販売されていると考えるのが自然である。

 スマートフォンをどうしてもいじりたくなったときには、このNoPhoneを手にすると、スマートフォンを使って何をしようとしているのか、冷静になって考えることができるはずである。これがNoPhoneのただ1つの、そして、本当の機能であるに違いない。







Homelessness / 15:50, Between stairs

リソースの功利主義的な配分の是非を考える

自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!! : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』

 生活習慣が原因で人工透析を受けざるをえなくなった場合、社会保障の給付の対象から除外すべきであるというのが筆者の主張である。しばらく前、私自身、いわゆる「貧困JK」の問題と関連して、「愚行権」の問題としてこの点を取り上げたことがある。

貧困JKの問題とは愚行権の問題である : アド・ホックな倫理学

2016年8月18日のNHKの7時のニュースで取り上げられた貧困女子高生(いわゆる「貧困JK」)の問題について、膨大な意見がネット上にあふれている。ネット上の動きだけではなく、数日までには、「貧困たたき」に抗議するデモまであったらしい。貧困たたき:新宿で緊急抗議デ


 そこで、ここでは、「公平」の観点から少し補足する。

 そもそも、ここで問題になっているのは、有限な社会的リソースを公平に配分する基準であり、これは、応用倫理学の古典的な問題の一つである。ここで問われているのは、「公平な分配はいかにして可能か」という問いである。しかし、もちろん、この問いには決まった正解などない。

 長谷川豊氏の主張は功利主義的である。つまり、「最大多数の最大幸福」を根本原理として、全体の利益を個人の都合に優先させるべきであるという考え方が主張の前提になっている。私は、功利主義が悪いとは必ずしも思わない。また、社会政策の場面では、功利主義がもっとも適切な解決を提示する場合の少なくないことは事実である。それでも、形式的に考えるなら、愚行を背景として病気になった者を健康保険の適用から除外すべきであるという見解は、いくつかの重大な問題を惹き起こす。

「愚行」の基準を定めることは事実上不可能

 たしかに、上の記事に記されているように、社会保障の給付の対象とするかどうかを病気の背景を基準として決めるのは、1つの可能な選択である。この場合、患者自身の努力によって罹患する確率を下げることが可能であったにもかかわらず、この努力がなされなかった場合、そして、病気にかかった場合には、この怠慢と病気とのあいだに因果関係があると見なされ、治療費は、健康保険から支給されないことになる。

 ただ、病気によっては、罹患を回避する努力と病気のあいだの因果関係が明確ではなく、せいぜいのところ、相関関係しか見出すことができない。また、罹患を回避するための努力について基準を設定することもまた容易ではないであろう。たとえば、私が前の記事で取り上げた肺がんと喫煙の関係の場合、生まれてから発症するまでのあいだに1本でもタバコを吸ったら健康保険の対象外となるのか、それとも、これまでにタバコを吸った期間や量を考慮して限度を設けるのか、このような点について社会的な合意を形成することは不可能であろう。(確実なのは、喫煙量が多ければ、これに応じて肺がんのリスクが高くなることだけだからである。)

愚行が原因で病気になった者が回復後に社会に貢献する可能性がある

 また、功利主義(=「最大多数の最大幸福」を根本的な原理とする)の社会全体の利益という観点から考えるなら、次のような可能性がないわけではない。すなわち、暴飲暴食が原因で人工透析を受けなければならなくなった人間は、社会の「お荷物」であるように見えるが、それでも、治療を受けることによって生命を維持するうちに、社会に貢献するような画期的な事業を起こし、多額の所得税や法人税を納付して社会に貢献する可能性がないとは言えない。

 長谷川氏が前提とする功利主義は、暴飲暴食のせいで人工透析を受けるようになった人間を「社会のゴミ」のように扱うことを必然的に許すわけではないのである。

 そもそも、「罹患を回避する努力を怠ったこと」が病気の原因であることが明らかである場合、このような患者の治療費を全額自己負担と定めるなら、現在の病状の有無にかかわりなく、金銭的な理由によって回復を期待することのできない患者が大量に発生する可能性がある。しかし、ふたたび功利主義的な観点から眺めるなら、これは、社会全体の生産性をいちじるしく毀損することになるように思われる。功利主義を徹底させるのであるなら、長谷川氏は、罹患を回避する努力を怠った患者を批判するのではなく、むしろ、病気から回復して社会全体の生産性を向上させるのに貢献する見込みのないまま惰性で治療を続けている患者を批判すべきであった。つまり、社会的リソース(社会保障費)は、治癒可能性の高い患者に優先的に配分することを主張すべきであったように思われるのである。


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