AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年09月

withdrawal

スマートフォンを手放して禁断症状が起きた

 私は、2011年春から2013年春まで2年間スマートフォンを使っていた。その後、2015年秋までの2年半、フィーチャーフォン(=「ガラパゴス携帯」)に戻し、2015年秋からふたたびスマートフォンを使い始めた。スマートフォンに戻ってかちょうど1年になる。

 以前にデジタル断食について書いたことに関連して、私の個人的な体験を記しておきたい。

24時間「デジタル断食」のすすめ 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

デジタル断食してみた 今年に入ってから、「デジタル断食」を何回か自宅で実行した。期間は、1回につき24時間であった。 デジタル断食またはデジタル・デトックス(digital detox) は、インターネット接続を完全に遮断した状態で時間を過ごすことを意味する。ネットによって


 2013年春、2年間の契約期間が終わりかけたとき、このままスマートフォンを使い続けるか、それとも、ここで使うのをやめるか、しばらく考え、そして、解約することに決めた。こま切れの時間ではあるとしても、スマートフォンを朝から晩まで繰り返し手に持っていじっており、その時間の合計がバカにならない量になっていたからである。このままでは依存症になるのではないかという危機感が私にはあった。ともかくも、スマートフォンとの縁を「物理的」な仕方で断ち切り、これが私の生活に本当に必要なものなのかどうか、「スマホのない生活」を送ることで検討してみようと考えた。これは、少なくとも当時の私にとっては、一大決心だった。

 しかし、スマートフォンを手放した直後から、禁断症状が始まった。

 それまでの2年間に、生活のいろいろなタイミングでスマートフォンの画面を眺めるのがルーチンになっていた。たとえば電車に乗り、座席に坐ったとき、職場に到着したとき、就寝の前など、天気やニュースやメッセージを反射的に確認していた。手が空くと、すぐにスマートフォンを見る癖がついていたのである。

 また、記録しておくべきことは、すべてEvernoteに入力していた。だから、買いもののメモもEvernoteであらかじめ作っておき、出先ではこれを見ながら用事を済ませていた。何かの不具合によってEvernoteが見られなくなったときには、どうしてよいかわからず、路上で途方に暮れたこともある。

 日常にこれだけ深く入り込んでいたスマートフォンと縁を切ったのであるから、禁断症状が起きるのは必然であった。いつもならスマートフォンを手に取るタイミングで肝心のスマートフォンがないと、しばらくのあいだ、他のことを何も考えられなくなる。また、Evernoteをメモ帳代わりに使うわけには行かなくなったから、外で必要になる情報はすべて、紙のメモ帳に書いておかなければならない。(パソコンからEvernoteに入力し、メールで送ることを試みたが、手間が煩わしく、続かなかった。)また、スマートフォンを使っていたあいだに、「ライフログ」などと称して何から何まで写真で記録する悪い癖がついてしまったらしく、外出先で何かを見かけると、すぐにカメラを向けてシャッターを切ろうとする。本当に記録するに値するものは何かを考え、最低限を紙のメモ帳で記録することができなくなっていたのである。

スマートフォンを使わないことによる解放感を味わう

 禁断症状は、解約してからおよそ2ヶ月続いた。最初のうちは、スマートフォンを持っていたらするはずのことが実行できず、イライラしたり、うわのそらになったりすることが多かったが、これが少しずつ減って行き、季節が変わるころには、禁断症状はほぼ収まった。生活のそれぞれのタイミングでスマートフォンを持っていたらしていたはずのことを思い出すことも少なくなって行った。2ヶ月かかって新しい行動のルーチンが出来上がり、スマートフォンを手放したことによって空いた穴が埋められたのである。

 もっとも気持ちがよかったのは、スマートフォンを解約してから2ヶ月経ったころには、「携帯電話を手に取ることが必要なタイミングなのかどうか」の見きわめができるようになり、手持ち無沙汰であるというだけの理由で何となく携帯電話をいじることがなくなった点である。自分の時間を自分でコントロールできるようになったことにより、私は、解放感を味わった。スマートフォンを経由してけじめなく流れ込んできた情報を自分でコントロールできるようなり、心の平穏が乱されることも少なくなった。

 当然、スマートフォンで絶えずつながっていなければ維持できないような人間関係も、スマートフォンと一緒に手放した。そのような人間関係は、自己支配を妨げる雑音にすぎないことに気づいたからである。これもまた、スマートフォンを使うのをやめた成果であった。(なお、私は、携帯電話の機種変更のたびに、連絡先を自動で移行させず、手で一つひとつ必要に応じてその都度入力し直すことにしている。機種変更から1年間経って新しい電話機に登録されなかった相手は、私にとって不要な存在であると判断することができるからである。)

スマートフォンをふたたび使い始めても、使用時間は増えなかった

 昨年の秋、2年半ぶりに機種変更し、スマートフォンをふたたび使い始めた。最初は、空いた時間にスマートフォンをいじり続けることになるのではないかと怖れていたが、幸いなことに、それから1年が経っても、「能動的に使用する」必要がある場合を除き、スマートフォンを手に取ることはなくなった。スマートフォンを手に持っている時間は、1日平均3分くらいではないかと思う。(このうち約2分は、電話として使っている時間である。)

 スマートフォンを手に取る必然性は何もないが、時間が空いているから何となくダラダラと画面を眺めている、スマートフォンを物理的に手放さなければ、このような時間を生活から追放するのは不可能であったに違いない。スマートフォンを一度は解約し、時間の遣い方を見つめなおすことは、生活の改善にきわめて有効であると私は考えている。スマートフォンに固有の機能を業務で使わなければならないのでなければ、スマートフォンを手放しても何ら不都合はないはずである。


Brexit

虚偽にもとづく政治の拡大

 ジョン=スチュアート・ミルは、政治哲学上の主著に当たる『自由論』において、さまざまな種類の自由が社会において保障されることの意義を強調する。そして、よく知られているように、ミルがもっとも重要な自由と見なすのは、思想信条の自由であり、言論の自由である。

 ミルによれば、これは、健全な社会の発展に不可欠な自由であり、すべての自由の基礎となるものである。なぜなら、1つの問題に関し異なる複数の意見を知ることにより、これらを比較し、よりよいものを選び取ったり、みずから新たな意見を表面したりすることが初めて可能になるからである。少数意見が無視されてはならないのは、そのためである。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

 しかしながら、言論の自由が実現しても、現実の社会は、ミルが期待したとおりの姿を私たちに見せてはいない。むしろ、社会の多様性が増大するとともに、「見たくないものは見ない」「聴きたくないものは聴かない」というかたくなな態度、そして、このような態度を是認する一種の開き直りが社会のいたるところに見出される。

 もちろん、これは、日本に固有の傾向ではない。外国、特に先進国でも事情は同じである。いや、アメリカの大統領選挙、ヨーロッパにおける極右政党の台頭、イギリスのEU離脱などを見れば、これらの国々の方が、事態は深刻であるようにも思われる。アメリカの大統領選挙の共和党の候補者であるドナルド・トランプの場合、これまでの選挙戦での公的発言の少なくとも70%が完全な嘘、残りの30%もほぼ嘘と評価されており、また、この点に関する認識は、マスメディアを介してアメリカでは広く共有されているはずである。つまり、トランプが「誠実」という美徳とは無縁の存在であることは、誰の目にも明らかである。それでも、ある程度以上の有権者が彼を支持していることもまた事実なのである。

All of Donald Trump's Four-Pinocchio ratings, in one place

人間は言論の多様性に耐えられるのか

 このような状況を眺めていると、私たちは多様な言論というものに耐えられないのではないか、言論の自由など望んでいないのではないか、という不穏な予想が心に浮かぶ。

 たしかに、中国やロシアを始めとする独裁国家には、言論の抑圧に抵抗する活動を続けている人々がいる。このような抵抗は、当然であり、また、貴重でもある。ただ、このような人々が要求するのは、自分たちの意見を公然と語る自由である点は忘れてはいけないと思う。彼ら/彼女らは、ミルが望んだような「言論の自由」一般を要求しているわけではないのである。

 調べればすぐに露見するような嘘であっても、心地よく響くならばこれを信じるという態度が政治に蔓延している。しかも、この嘘は、長期的な展望にもとづく嘘ではない。短期的、刹那的な効果のためだけに作られた単純な嘘である。そして、このような嘘が作られ、受容される反知性主義的な政治風土が「真理にもとづかない政治」(post-truth politics) とか「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) と呼ばれているものである。前に書いたように、日本では、共産党がこれを代表している。

「真理にもとづかない政治」と民主主義の危機 : アド・ホックな倫理学

甲状腺がん、線量関連なし 福島医大、震災後4年間の有病率分析 「真理にもとづかない政治」とは、post-truth politicsの訳語である。日本では、イギリスで行われたEU離脱の国民投票の際、「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) という言葉が何回かマス


 1つの言論空間において多様な意見が互いに影響を与え合いながら、全体として合意形成へと向かってゆっくりと進んで行くプロセスの前提として「言論の多様性」を理解するなら、この意味における言論の多様性は、少なくとも現在の日本には見出すことができない。今のところ、わが国の言論空間では、多種多様な意見が混じり合うこともなく、影響を与え合うこともなく、ただ併存しているだけであり、それぞれが信者のような存在によって支持され再生産されているにすぎない。この傾向は、最近は、左翼において特に顕著であるように見えるけれども、右翼に関しても、事情が大きく異なるわけではない。自分の意見に耳を傾けるのが信者だけであり、何を語っても批判的に吟味される可能性がないのであるなら、事実との関係を考慮することなど、いささかも必要ではないことになる。必要なのは、信者を満足させることだけだからである。

 虚偽と無知にもとづく言論が冷静な対話の余地を奪い、これが言論の質を低下させ、劣化した言論は、耳に心地よい話しか受け付けない信者を増やす……、この悪循環が日本の言論空間をボロボロにしているように思われる。しかし、残念ながら、この悪循環から抜け出す道もまた、私たちは閉ざされているように思われるのである。


Together

デジタル断食してみた

 今年に入ってから、「デジタル断食」を何回か自宅で実行した。期間は、1回につき24時間であった。

 デジタル断食またはデジタル・デトックス(digital detox) は、インターネット接続を完全に遮断した状態で時間を過ごすことを意味する。ネットによって汚染された脳をデトックス、つまり解毒するわけである。

 「デジタル断食」などと勿体ぶった名称が与えられ、ネット上では何か苦行のように語られているが、何か技術が必要となるわけではない。ネットに接続する機器に触らなければよいだけの話である。具体的に言えば、スマートフォン、タブレット端末、パソコンなどの電源を切れば、準備は完了となる。

 私の場合、1日目(休日)の就寝時にネットにつながるすべての機器の電源を切り、2日目(これも休日)は、起床から就寝まで、上記の機器には一切手を触れず、3日目(平日)の朝から、必要に応じて機器の電源を入れた。眠っている時間を入れると、1回のデジタル断食の期間は36時間くらいになったはずである。(なお、私は、デジタル機器と一緒にテレビの電源もオフにした。)

 ただ、すべきことは実に単純であるけれども、デジタル断食を最初に試みたときには、禁断症状が起きた。毎朝、起きると真っ先にパソコンの電源を入れてメールとニュースをチェックするのがルーチンになっていたから、パソコンの電源を入れられないと、気持ちがどうしても波立ってくる。指先がムズムズしてくる。また、何もすることがないと、ふたたび指先がムズムズしてくる。朝食をとりながら手もとにある雑誌を読み、何とか心を落ち着かせた。

デジタル断食の本質は「手持ち無沙汰」との闘いにある

 当然、外出するときにも、スマートフォンは自宅に置いたままである。私のスマートフォンには、ゲームのアプリもSNSのアプリも最初から入っていない。また、私は、買いものや用件のメモには紙のメモ帳を使うことにしているから、スマートフォンが手もとになくても実質的に困ることは何もないはずであった。

 それでも、携帯電話を持たずに外出するのは不安だった。靴を履かずに外を歩いているのに似た感覚に襲われた。

 結局のところ、デジタル断食の本質は、「手持ち無沙汰」で落ち着かない気持ちとの闘いであり、非常に多くの生活時間をデジタル機器と向き合うことで消費してきたことに気づき、これを取り戻すための闘いでもある。しかし、心が何となく波立つような感じをしばらく我慢していると、やがて、ともかくも何か生産的なことをしようという気持ちになってくる。つまり、デジタル機器の使用によって占有されていた穴が自然な仕方で埋められて行くのである。デジタル断食の当日、私は、掃除したり、片づけたり、近所に買いものに出たり、本を読んだりして、それまで何となく先延ばしにしていた用事を片づけ、夜は、そのまま本を読みながら就寝した。

 注意すべき点は、デジタル断食の日に雑用を片づけることを最初から予定していたわけではないことである。手持ち無沙汰に耐えかねて周囲を見渡しているうちに、「掃除でもするか」「読書でもするか」という気持ちが自然に生まれてきたのである。デジタル機器を使わなければできない用事は、メモ帳に書きとめておき、翌日になって片づけた。(ネットでの調べもの、ネットでの買いもの、メールでの連絡などである。)この観点から考えるなら、デジタル断食は、自宅で行う方が好ましく、たとえばわざわざ自宅から出てどこかで合宿するのは、デトックスの効果を損ねる選択であることになる。

デジタル断食をすると、デジタル機器の使用がいかに時間の浪費であるかがわかる

 デジタル断食の最大の成果は、スマートフォン、パソコン、タブレット端末を使うことで、貴重な時間がいかに浪費されているかがわかるという点にある。実際、これらの機器を使わなければ済ませられない用事、あるいは、これらの機器を使うことで時間や手間を節約することができる用事というのは、生活の中にそれほどたくさんあるわけではない。デジタル断食によって、今がデジタル機器を手に取るべきときであるのかどうかの見きわめが自然にできるようになり、たとえば必要もないのにスマートフォンをいつまでもいじるような時間の無駄遣いを避けることができるようになる。

 月に1度でもよい、あるいは、半年に1度でもかまわない。すべてのデジタル機器、光を放つすべての画面を視界から排除することにより、時間の遣い方に関する正常な感覚を取り戻すことができるように思われるのである。

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つながらない生活 ― 「ネット世間」との距離のとり方
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つながりすぎた世界
ウィリアム・H・ダビドウ
ダイヤモンド社
2012-04-20




Drunken man

 私は、酒が飲めない。アルコールが少しでも体内に入るとすぐに変調をきたすほどではないが、ビール1杯ですでに気持ちが何となく悪くなる程度には弱い。自宅には日本酒とブドウ酒をつねに用意しているが、これは、料理に使うためのものであって、飲むためのものではない。

 これはおそらく日本に固有の事情なのであろうが、アルコールを受けつけない人間には、夜の居場所というものがない。というのも、「夜の席」は、基本的に「酒の席」であり、酒が飲めることは、当然のこととして前提とされているからである。酒が飲めない人間など、最初からお呼びではないのである。

 何人かでテーブルを囲んでいるとき、私ひとりが酒を飲まないと、その場の雰囲気に水を差しているように感じられて肩身が狭い。だから、酒の席に呼ばれても、必要に迫られなければ行かないし、そもそも、呼ばれること自体がほとんどない。日が暮れてから、仕事以外で誰かと会って食事するなど、もう10年くらいないことである。齢のせいか、夜の席で酒を強いられることもなくなった。

 また、私が酒を飲めないと知ると、「あいつと会うのは、夜はやめておこう」という配慮が先方に働くのか、最近は、仕事上の付き合いでも、会食はほぼすべて昼間または夕方になり、私の夜の予定は、さらにスカスカになっている。(たしかに、深夜まで外出していると、翌日の仕事に差し支える危険があり、この意味では、夜の時間が完全に自由になるのはありがたい。)

 しかし、これもまた日本の特殊事情であることを願うが、「アルコールが媒介する人間関係」というものがこの世にはあり、これが無視することのできない役割を社会において担っているらしい。飲める人々は、この点を特に自覚していないのかも知れないが、飲めない人間の目には、これは、どれほど努力しても入り込むことのできない不可視のネットワークと映る。

 機会があるたびに口実を作って酒を飲みたがる人間は非常にさもしいと思うし、酔っ払いも嫌いであるが、このアルコールが媒介する不可視のネットワークだけはうらやましいとひそかに思っている。

 ※こういうことを考えていたら、次のような記事を見つけた。

西荻窪「ワンデルング」。そこは飲めない人と、飲まない夜のためのお店【夜喫茶】 - メシ通

 これは、JR中央線の西荻窪駅からすぐのところにある新しい店である。飲めない人間にとっては、このような空間は貴重である。

WANDERUNG | 喫茶ワンデルング


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「せどり」は知識も興味も必要としない仕事である

 年に何回か、休日に近所で開かれる古書の即売会(古書市)に出かけることがある。このようなイベントに一度でも行ったことがある人なら知っているとおり、古書の即売会の客層は非常に偏っているのが普通であり、大抵の場合、会場にいるのは高齢の男性ばかりである。(私の雑な観察では、男女比は19対1、平均年齢は65歳前後。)私の年齢は40代後半であるが、これは、即売会の常連客としては若い方であろう。

 ところが、最近、古書の即売会で、私よりもさらに若い男性を見かけるようになった。ただ、これらの男性の行動は、他の客とはかなり異なる。というのも、彼らは、スマートフォンの画面を眺めたり、ときどき何かを入力したりしながら、書棚を眺めたり本を手に取ったりしているからである。(私と同年代、あるいは、私よりも上の世代でも稀に見かける。)会場でスマートフォンを握りしめていること自体、高齢者の多い会場ではすでに目立つのだが、さらに目立つのは、雰囲気から推して、読書の習慣があるとは到底思えないのに、大量の本、しかも、比較的新しい本を抱えて会場を歩き回っている点である。ひとりではなく、グループで即売会に現れるのを見かけることもある。

 あちこちの古書市でこのような客を見かけ、ネットで調べているうちに、これが「せどり」と呼ばれている行動であるらしいことがわかってきた。私がここで「せどり」と呼ぶのは、ごく大雑把に言うなら、古書を何らかの手段で安く、または無償で入手し、これを別の手段で高く転売することである。安く手に入れた本をネット上で転売し「利ザヤ」を稼ぐのが「せどり」の基本的な仕組みである。つまり、古書市やブックオフで本を見つけたら、店頭での販売価格がヤフオク!やamazonのマーケットプレイスのようなECサイトでの販売価格を下回っているかどうかスマートフォンで確認し、店頭価格の方が安ければ購入し、転売する。これは、本の価値や内容を理解することができなくても、目の前にあるものを本として識別する能力さえあれば、誰にでもできる低級な仕事である。「せどり」が「職業」と呼ぶにふさわしいものであるかどうか、私は疑問に感じるが、「せどり」を職業と認めるなら、これは、人工知能によって最初に置き換えられてしまう職業の1つであろう。彼ら――女性もいるのかも知れないが、私は見たことがない――がスマートフォンと書棚を交互に見ているのは、ヤフオク!やamazonのマーケットプレイスでの価格を調べなければ、本を購入するかどうか決められないからである。(「せどり」専用の携帯端末なるものまで開発されているらしい。)

「せどり」は反社会的である

 しかし、「せどり」は、その作業の実質がひどく低級な知的能力しか必要としないものであるという点において評価に値しないばかりではない。これは、文化に対する罪であるという理由によって禁止されるべきものであると私は考えている。理由は明らかである。すなわち、「せどり」にいそしむ者たちにとり、書物は単なる「ブツ」にすぎず、彼らには、書物に対する愛着がなく、書物に関する知識もないのである。

 一般に、何かを売買してこれを「商売」とすることが可能となるためには、自分が扱う商品に関する最低限の愛着と知識が必要である。「必要である」とは、愛着と知識がないと、自分が扱うものの価値がわからないということである。たとえば八百屋なら野菜について、宝飾店なら宝石について、それぞれ自分の手もとに届くまでにどのように作られ、そして、自分の手もとを離れたあとはどのように使用されるのかを必ず予想する。卸値と実勢価格を参考にするとしても、商品の価値に関する予想が成り立たなければ、値段を決めることなどできないはずである。

 古書についても事情は同じである。古書の内容に対する自分なりの評価が値段に反映されるとき、初めて、古書は商品となる。野菜や宝石にプロがいるのと同じように、古書についてもまた、(プロやアマの)目利きがいる。目利きが古書の流通を見守ることにより、本当に価値ある本が適正な値段で人から人へと手渡され、文化が継承されるのである。

 古書市やブックオフの店頭価格とECサイトでの販売価格の比較のみによって古書の売価を決めるのは、ヘッジファンドが仕かける投機的売買と本質的に同じである。「利ザヤ」の大きさのみを考慮して古書を売買する「せどり」は、ヘッジファンドが資産運用市場を混乱に陥れることがあるのと同じように、文化の生産と継承を危うくする可能性があると私は考えている。

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