AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年09月

Rembrandt reflection


 しばらく前、精巧な贋作を大量に製作した人物のドキュメンタリーを観た。
NHKオンデマンド | BS世界のドキュメンタリー シリーズ 芸術の秋 アートなドキュメンタリー 「贋(がん)作師 ベルトラッチ~超一級のニセモノ~」

 この人物は、贋作が露見して逮捕、告訴され、刑務所に収監されたが、ウィキペディアによれば、現在はすでに出所しているようである。


 贋作というのは、絵画ばかりではなく、文学、音楽、思想にもある。絵画は共同作業で製作される場合が多く、贋作と真作の境界は、他の藝術作品と比較するとむしろ曖昧であるかも知れない。この点では、文学や音楽の方が、贋作と真作の形式的な境界は明瞭である。


 匿名ならばともかく、なぜ有名な作者の名をあえて騙るのか、私にはよくわからなかった。なぜなら、作品がどれほど高く評価されても、名声を獲得するのは自分ではなく、表向きの作者の方だからである。もっとも、近い将来、人工知能AI)がさらに発達すると、このようなことは問題にならなくなる可能性がある。


 人工知能が社会にどの程度のインパクトを与えることになるのか、これは誰にも正確に予測することはできない。これは人工知能の問題ではなく、人間の問題であり、社会の問題だからである。


 確実なことがあるとするなら、それは、少なくとも何らかの技術の単純な「再現可能性」に関するかぎり、どれほど複雑な技術に関するものであるとしても、人工知能の方が人間よりもすぐれており、人工知能に頼る方が確実であるという点だけである。簡単に言えば、人工知能は、人間が「できた」ことなら何でもできるのである。(人間が「できる」ことなら何でもできるのではない。)


 これまで、少なくとも日本の学校および社会は全体として、決まった手順で決まった品質の成果物を産み出す能力を評価するシステムを前提としてきた。これは、人工知能が言論空間の地平に姿を現してから、いたるところで繰り返し語られてきたことである。そして、人工知能の機能が向上するとともに、このような評価のシステムもまた少しずつ力を失い、このシステムの内部において評価されてきた人間は、社会において役割を失う。これもまた、誰でも予想することができる未来であろう。


 人工知能は、誰かが一度でも作ったものなら、これを考えうるかぎりもっとも巧みに真似する能力を持つ。複数の作品から共通点を抽出し、これを組み合わせて「新しいもの」を産み出すこともできる。実際、人工知能にレンブラントの作品の特徴を分析させ、レンブラントにかぎりなく近い肖像画を「出力」させることに成功したことがニュースになった。しかし、これは、驚くには当らない。それほど遠くない将来、「モーツァルトっぽい交響曲」や「夏目漱石っぽい小説」が人工知能によって出力され、人々は、「モーツァルトっぽい交響曲」を聴き、「夏目漱石っぽい小説」を読むことになるであろう。このような作品は、もはや「本物」と見分けがつかないから、見分けをつけることにも意味がなくなるかも知れない。


 もちろん、(1)モーツァルトっぽい交響曲を人間が作り、しかも、(2)モーツァルトの作品として世に送り出せば、それは「贋作」となる。人工知能が作ったものが贋作と見なされないのは、人間が作ったものではなく、また、モーツァルトの作品として送り出されたわけではないからである。(そもそも、人間が作ったものではないから、法律上の「著作物」ですらない。)しかし、これは、藝術作品に関し人工知能が遂行することが、基本的には贋作と同じであることを意味する。藝術作品に関するかぎり、人工知能は究極の「贋作師」なのである。だから、人工知能の発達により、贋作師は自動的に姿を消す。これは、人工知能によって最初に駆逐される職業であろう。実際、人工知能は、フェルメールっぽい風俗画や肖像画を100種類一度に出力するに違いない。フェルメールのコレクターは渋い顔をするかも知れないが、フェルメールの愛好家は大喜びするであろう。


 もちろん、人工知能は、これまで人間が産み出してきたものを完璧に学習するだけであり、本質的に新しいものを何も産み出さない。つまり、人工知能が作り出すものには、本当の意味におけるオリジナリティは認められない。それでも、近い将来、そのようなオリジナリティなど、誰も気にしなくなる日が到来する可能性がある。絵画であれ、文学であれ、音楽であれ、オリジナリティをオリジナリティとして受け止めることのできる知的公衆は、いつの時代にもごくわずかにとどまるものだからである。


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 最近、地方議員の政務活動費の不正な支出が報道されることが多い。きっかけとなったのは、2014年夏に兵庫県議会議員の男性が明らかに職務とは関係のない用途に300万円も支出していたことであったように記憶している。その後、今年の初めには、東京都知事についても、政務活動費の支出の内訳が問題になっていた。

 地方自治体の議員や首長の役割は、国政における議員や大臣の役割とは少なからず異なる。そのため、特に大都市で暮らしていると、何のために議員や首長がいるのか、その意義は直観的にはわからない。何のために議員や首長かいるのかわからなければ、政務活動費の使途のすべてが何となく疑わしく見えてくるというのは、当然の成り行きであろう。

 実際、「市民オンブズマン」を名乗る団体は全国にあり、政務活動費のあまりにもひどい使われ方は、公表されるようになりつつある。これは、全体としては好ましい傾向である。何と言っても、政務活動費はすべて税金であり、この事実は決して忘れてはならないと思う。

 ただ、「政務活動費は税金から拠出されているのであるから、すべての使途を明瞭に説明すべきである」という要求は、形式的には正しいとしても、この要求に応じて戻ってきた答えが万人を納得させるとはかぎらないし、万人が納得するまで説明を求めるべきでもない。半分の有権者が納得することができる程度で満足するのが適当であるように思われる。

 そもそも、選挙によって議員や首長を決めることにより、私たちは、税金の使途を決める権利を政治家に委ねている。どのような税金の使い方が公共の利益を促進するか、適切に判断するにはそれなりの能力が必要だからである。言い換えるなら、私たちは、万人にすぐに理解可能とはかぎらないことに税金を使う権限を政治家に与えているのである。反対に、誰からも文句の出ないような仕方でしか予算や政務活動費を使わない政治家ばかりであるなら、政治家など不要であり、選挙を廃止してこれを抽選に置き換えても差し支えないであろう。

 建設的な監視がつねに必要であることは確かであり、「論外」と思えるような支出を厳しく取り締まることには意義があるとしても、「一般市民の感覚で理解することのできない支出は認めない」などと語る権利は誰にもない。このような主張が通るなら、それは、代議制民主主義の自殺を意味する。

 実際、もはや監視ではなく、単なる「言いがかり」にすぎないとしか思えないようなことが「オンブズマン」の名のもとに行われる場合もある。これは、ウィキペディアでも抽象的に指摘されている点である。

 地方議会の議員は、地方公務員法第3条に定められた地方公務員の特別職に当たる。勤務時間が決められているわけではないし、毎日出勤すべき職場があるわけでもない。(普通の会社員のように固定した「交通費」が支給されているわけでもない。)また、国会議員と異なり、事務所が割り当てられているわけではないし、専従の秘書がいるともかぎらない。このような状況のもとで多種多様な必要に応じてカネを使う以上、すべてが説明可能であるなど、ありうべからざることであろう。

8 Signs You’re Eating Too Much Sugar

 前に、ダイエットによって背負うことになる不幸について書いた。ダイエットの本当の不幸は、食べたいものが食べられなくなることではなく、食べたいという素朴な欲求が損なわれることであるというのが、その内容であった。

ダイエットの不幸 : アド・ホックな倫理学

ダイエットの不幸というものがあるとするなら、それは、食べたいものを食べられないことにあるのではない。自分の好物を目にしたとき、これを食べたいと思う素朴な気持ちが失われてしまうことであり、自分の好物を食べるということが、「あとさきを考えない愚かなふるまい




 もちろん、ダイエットが原因で生れるこの不幸を経験することを願う者などいないであろうし、また、誰も、この不幸のうちにとどまっていたいとは思わないはずである。残念なことに、おいしいものを食べたいと思う素朴な欲求を取り戻す確実な方法はない。なぜなら、それは、単純な「無知」と「無垢」へと、つまり「子ども」へと回帰することであり、これは、誰ひとりとして辿ることの許されぬ道だからである。

 それでも、この不幸から一時的にでも逃れる手段がないわけではない。「何をいくら食べてもかまわない」という確信を持つことができるなら、食べたいものへの素朴な欲求は回復するであろう。

運動+食餌制限とチート・デイの組み合わせが不幸な気分を解消するのに役立つ



 ダイエットとの関係でこれを言い換えるなら、「何をいくら食べてもかまわない」という確信に辿りつくのに必要なことは2つある。

  1.  運動と食餌制限を日常的に続けることである。減量を習慣的に実践することは、食べることによる身体へのダメージを抑えられるという自信を私たちに与えるからである。
  2.  そして、運動と食餌制限を続けながら、何日かに1度、「チート・デイ」(cheat day) を設けるとよい。チート・デイとは、好きなものを好きなだけ食べる日のことであり、アスリートのトレーニングに取り入れられることも多い。プロのアスリートのように明確な目標がある場合でも、食べものに関する厳しい制限はストレスになる。だから、週に1度、10日に1度などの頻度でチート・デイを設定し、食べたいものを食べることをみずからに許すのである。

 好きなものを好きなだけ食べると太ると思うかも知れないが、好きなものを好きなだけ毎日食べ続けると太るのであって、ときどき食べる分には、体重と健康に対する影響を考慮する必要はない。

チート・デイは決まった間隔で配置するのではなく、具体的なターゲットと関連づける方がよい



 それでは、チート・デイの頻度は、どのように設定すべきか。もちろん、週に1度、10日に1度などのように決まった間隔を空けてチート・デイを配置するのは1つのやり方であるが、これは、意志が弱いとすぐに破たんする。実際、私は失敗した。

 だから、たとえば、自分の仕事の目標と関連させて、「これだけの成果が挙がったら、好きなものを好きなだけ食べる1日を作る」と決めればよい。

 ただ、この成果は、必ず客観的に測定可能なものでなければならず、自分だけではなく、他人の目にも成果を確認することのできるものでなければならない。自分のチート・デイを公言し、他人に監視してもらうというのも、効果的であるかも知れない。

 なお、このとき「成果」は、体重や身体のサイズとは無関係のものに求めた方が安全である。「成果」を体重を関連づけると、ダイエットが上手く行かなくなる可能性が高いからである。

 「体重が何キロまで落ちたらチート・デイ」と目標を設定すると、ターゲットとなる体重まで無理に減量してチート・デイを「手繰り寄せ」がちである。しかし、この場合、チート・デイに一時的に体重が増加すると、必ず後悔することになり、結局、減量を継続する意欲が損なわれるのである。

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リオデジャネイロ・パラリンピックがスタートしました。 史上最高のメダルを獲得して感動の渦だったオリンピックから、舞台がパラリンピックへ移ります。 ぜひパラリンピック中継を“NHKで”観たいと思っていま

情報源: 衆議院時代にNHKに問い詰めた「パラリンピックを放映しないなんてもったいない!」思わず熱くなり大炎上もしましたが…|中田宏公式WEBサイト


 上の記事を読み、埋め込まれていた動画を観た。NHKでのパラリンピック大会の放送時間を増やすべきであるというのがその主張である。


 中田宏氏の主張は、パラリンピックをオリンピックと同じように扱うという点に話を限るなら、その通りであると思うけれども、放送時間をこれ以上拡大することには、私は必ずしも賛成しない。

 私は、オリンピックについてもパラリンピックについても、少なくともNHKで放送するに値するものではないと考えている。これらのスポーツ大会をNHKの地上波で放送することは、ある限度を超えると、公共の利益に反するものとなるように思われるからである。そもそも、スポーツ大会というものは、誰もが興味を持つものではないし、興味を持たなければならないものでもない。たとえば、今年の夏のオリンピックについて、放送されたものをすべて観た人は少なくないであろう。しかし、それとともに、私のように、何も観なかった人間もまた、それなりの数になるはずである。

 政治や経済に関するテレビの報道は、社会全体の問題に関する合意形成の前提となる情報を提供するものであるから、基本的に「万人が観るべきもの」である。これに対し、スポーツは、観る者にとっては単なる娯楽であり、「観たければ観る」ものである。NHKの地上波の放送時間を、毎日、何時間にもわたって最優先で占拠しなければならないほどの価値がオリンピックとパラリンピックにあるのかどうか、冷静に考える必要があるように思われる。オリンピックとパラリンピックが開催されているあいだ、世界が休んでいるわけではなく、事件が少なくなるわけでもない。優先的に報道すべきことは、いくらでもあるはずなのである。

 もちろん、たとえば、演歌に興味がない者にとって、NHKが放送する歌番組は邪魔であるかも知れない。しかし、演歌が放送されるのは、せいぜい週に1回、45分間にすぎない。歌番組がNHKの放送の質に何か悪影響を与えるとしても、それは、目に見えないほど小さなものである。少なくとも、普段から放送される番組が演歌のせいで休止になったり、放送時間が変更されたりすることはない。

 それでも、今回のオリンピックには、まだ救いがあった。ブラジルと日本のあいだの時差が12時間あり、現地の昼間が日本の夜に当たっていたからである。番組編成に与えるインパクトは、比較的小さかったはずである。

 これに対し、2020年の東京オリンピックとパラリンピックでは、時差がない。つまり、昼間に行われる競技は、昼間に放送される。そのとき、どのくらいの量の番組が蹴散らされ、どのくらいの量のニュースが報道されぬまま終わり、そのせいで、社会全体の利益がどのくらい損なわれることになるのか、これは、あまり考えたくない問題である。

 オリンピックとパラリンピックの放送が不要であると考えるのと同じ理由によって、高校野球についても、NHKで放送する価値はないと私は考えている。(少なくとも、私自身は、記憶にあるかぎりでは、高校野球をテレビで観たことがない。)

 公共の電波を占領することが許されるスポーツがあるとするなら、それは、プロスポーツだけである。たとえば、相撲、プロ野球、プロサッカーなどは、本質的に「見せる」こと、つまり、観客がいることを前提とするものだからである。

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 「ヤフオク!」に出品されているものを落札したことが何回もある。正確には覚えていないが、「Yahoo!オークション」と呼ばれていた時代から数えると、全部で30回くらい落札しているのではないかと思う。

 小さいトラブルはいくつかあったけれども、幸いなことに、落札したものが届かないとか、壊れていたとか、そういう被害に遭ったことは一度もない。(家電の類には手を出さないことにしてきたからかも知れない。)

 ただ、最近は、よほどの事情がないかぎり、ヤフオク!は使わないようにしている。(普通の古書なら、アマゾンのマーケットプレイスか「日本の古本屋」でまず探すことにしている。)落札しても、サッパリ楽しくないからである。

 ヤフオク!は、以前からトラブルが頻繁に起こることで有名ではあったけれども、この2、3年、出品者の側も入札者の側も、ともにリテラシーが低下してきたせいなのか、私には到底理解できないことが目につくようになった。

  私が落札してきたものの多くは古書である。古書の場合、商品のページを眺めていると、下の方に細かい注意事項が書かれているのが普通である。古書の場合、新しいものでも古いものでも、状態は必ずしもよくないのが普通だからである。

以前は、商品の値打ちがわかった上でのオークションだった。



 以前は、古書の場合、出品する側も入札する側も、ともに本の扱いに多少は慣れていることが当然の前提になっていた。つまり、以前は、「自宅の押し入れから出てきたものをそのまま出品している」というような断り書きがないかぎり、それぞれの本は、その本の「内容の値打ち」について当事者全員が漠然とわかっていることを前提として出品され、落札されていたと思う。

 だから、質問フォームから出品者に事前に連絡して、表紙や目次や奥付の写真を追加してもらったり、「汚れがある」という特記事項がある場合には、どこにあるのか具体的に教えてもらったりしたこともある。また、私のごく狭い経験の範囲では、素人の出品者からも、それなりの回答は必ずもらっていたように思う。質問フォームによるコミュニケーションが成り立っていたのであり、オークションの本質は、このようなコミュニケーションにあると私は信じている。

自分が出品した商品について何も知らない出品者が増えた。



 しかし、この数年、「質問は一切受け付けない」「神経質な人間は入札するな」という意味の注意事項が増えた。また、事前に質問しても回答がない――だから、入札できない――というケースにも何回か遭遇した。もちろん、それは、
  1. 商品に関する知識も愛着も出品者になく、質問に答えられないことが多くなるとともに、
  2. 古本に関する常識のようなものが通用しない入札者が増えた
からなのではないかと私は想像しているが、それにしても、これが私にとっては、あまり面白くないことだったのは事実である。質問することができなければ、入札の判断もできないことは確かである。

出品者からマスとして扱われるようになった。



 また、一人で途方もない数の商品を扱う出品者が多くなったのか、落札したあとに届くメッセージもきわめておざなりであることが少なくない。これも私には不快であった。そもそも、あくまでも個人が出品し、何人かの個人の入札者とコミュニケーションするというのがオークションの本来の姿である。したがって、出品者は、落札者をマスとして扱ってはならない。客をマスとして扱うくらいなら、古物商の免許を取得し、組合に加入して「日本の古本屋」で書籍を販売すべきであろう。

 古書に関するかぎり、この数年のあいだにヤフオク!が急激に堕落したのは、本に関する知識も愛着もないズブの素人が転売目的で入手した大量の古書を出品しているからなのかも知れない。もちろん、古書といっても、ISBNとバーコードがカバーに印刷されている程度の、せいぜい20年くらい前までのものである。(このタイプの素人は、本の内容が理解できないから、バーコードがないと手も足も出ない。)

 この問題については、あらためて考えてみる価値があるように思われる。

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