AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年09月

Henoko Residents and U.S. Marines Play Softball

沖縄の保守系政治団体にはそれなりの存在意義がある。


 「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」という政治団体がある。これは、その長い名前からわかるように、沖縄で活動している団体である。また、少しでも沖縄のことを知っている人なら、これが「右寄り」の団体であることを推測するのも、難しくはないであろう。

琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会│ホーム

 沖縄には小規模な保守系の政治団体がいくつかあるようであるが、「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」は、私でも知っているくらいであるから、その中ではもっとも活発な団体であると言ってよい。また、この他に、「沖縄対策本部」という団体もある。(なお、これらの団体は、「まぐまぐ」を利用して無料のメールマガジンを発行し、安全保障に関連する沖縄ローカルの情報を発信しているが……。)

沖縄対策本部 - 沖縄対策本部

 沖縄の保守系の政治活動は、たとえば、

  • 沖縄の二つの地方紙の偏向報道を批判したり
  • 普天間飛行場の辺野古への移設に賛成したり
  • 本土から沖縄に渡ってくる「プロ市民」を牽制したり
  • 尖閣諸島近海への中国船の侵入に関する啓発活動に従事したり
  • 「琉球独立」論を中国の陰謀として非難したり
するものであった。
 日本とアメリカの安全保障面における協力関係は、今のところ、日本と東アジアの安定にとって不可欠であり、この協力関係を実のあるものにするためには、沖縄にはどうしても基地が必要であり、日本政府と協調することのできる政治勢力の形成が必須であると彼らが考えているからである。

 ただ、誰かにわざわざ教えてもらうまでもなく、国際政治についての最低限のリテラシーがあれば、これとは異なる結論に辿りつくはずはないような気がする。これは一種の常識であり、また、この常識を前提として大衆運動に従事するかぎり、その内容が上に挙げたようなものとなるのも、当然のことであろう。このかぎりにおいて、沖縄の保守の活動には、疑問の余地のない大義があると私は考えている。

彼らは真面目だが「沖縄のことにしか興味のない人たち」と見なされている。


 それにもかかわらず、沖縄の保守系の政治団体について、残念に思う点がある。(可能なかぎり好意的な表現を使うなら、)彼らが誰に対して自分たちの主張を伝えようとしているのか、どのような成果を期待しているのか、明らかではないのである。言い換えるなら、彼らの活動には、次のような根本的な問題が認められるのである。

 沖縄県内の言論空間において彼らが少数派であることは、私にもわかる。また、県内の主なマスメディアが彼らの動向を伝えない以上、県民に声を届けるためには、主張を簡潔にまとめ、デモや講演会でこれを連呼しなければならないという事情があることも理解できないわけではない。彼らのターゲットが沖縄のサイレント・マジョリティ(と彼らが信じるもの)だけであるなら、そして、彼らが県外の反応を考慮しないのであるなら、戦略に大きな誤りはないのかも知れない(が、この点は、私には判断する資格がない)。

 しかし、このような活動は、沖縄に地縁も血縁もない私のような者には訴求しないはずである。むしろ、多くの日本人に退屈で粗雑という印象を与えるばかりであろう。
 そして、その理由は、誰の目にも明らかであるように思われる。すなわち、彼らには、日本のあるべき姿に関する固有の見識ないし見解が欠けているのである。

 たしかに、彼らは、沖縄の問題、沖縄に関係のある問題については積極的に発言する。しかし、わが国にとって重要であるけれども沖縄とは直接に関係のない諸問題について、彼らが何らかの意見を公にすることはない。少なくとも私は聞いたことがない。たとえば消費税、たとえば待機児童問題、たとえば原発再稼働……。

 このような重要問題について沈黙しているかぎり、国民の多くが彼らに声に耳を傾けることはないであろうし、彼らに信頼を寄せることもないであろう。なぜなら、国民は彼らを「沖縄のことにしか興味がない人たち」と見なすはずだからであり、「沖縄のことにしか興味のない人たち」の主張が国政に影響を与えることには、当然、誰もが慎重になる似違いないからである。(もっとも、立場の左右に関係なく、沖縄から発せられるすべての言論は、同じ性格を共有している。)

 国民の多くが関心を示すテーマについて固有の視点から発言しつつ、独自の文脈の内部において沖縄を語ることができなければ、世論に影響を与えることなど到底不可能であるように思われるのである。

彼らのすることは雑な印象を与える。


 残念なことに、刺戟を欠いた主張を聴いていると、アラばかりが目につくようになる。私は、去年の春、下の書物を手に入れた。これは、上記の「沖縄対策本部」の関係者が中心となって製作、公刊されたもののようである。




 これは、非常に残念な書物である。残念なのは内容ではない。本の作り方があまりにも粗雑なのである。モノとしての体裁がこれほどなおざりにされた書物に21世紀の日本で出会うとは、私は予想していなかった。

 全国の読者に届けることを望むのなら、造本やレイアウトについて気を遣うことは必須だったであろうが、少し慎重な読者にとっては、表紙に視線を落とすだけで、書物の内容に対する信頼が損なわれるには十分であったに違いない。というのも、表紙には次のように大きく印刷されているからである。

琉球処分、沖縄戦、祖国復帰、辺野古移設、尖閣諸島、琉球独立、ペリー、沖縄県知事選挙、沖縄戦、全ての問題を新たな視点で解説。
 

 誰が見てもすぐにわかるように、ここには「沖縄戦」の3文字が2回使われている。これは、表紙が一度でも校閲されていれば、確実に避けることのできたはずの単純きわまるミスである。このミスは、内容への信頼を損ねるばかりではなく、全般的な「やる気のなさ」の証拠として受け取られかねない。というのも、読者というのは、未知の書物の内容の信頼性を、著者の知名度、あるいは、書物の外観を整えるためにかけられた手間にもとづいて判断するものだからである。上記のミスに気づいていながらこの書物への信頼を失わないのは、著者を直接に知る読者か、あるいは、知的水準がよほど低い読者のいずれかだけではないかと思う。

 このレベルのミスは、沖縄県内の出版界では許容されているのかも知れないが、日本全国に流通する可能性のある書物にとっては致命的であろう。「琉球新報」や「沖縄タイムス」を批判するのなら、せめて両紙と同じくらいには丹念な校閲を心がけるべきであるように思われるのである。

 いや、それ以前に、そもそも表題が表紙に正しく印刷されていないような気がするのだが……。

Family Dinner

 ダイエットの不幸というものがあるとするなら、それは、食べたいものを食べられないことにあるのではない。自分の好物を目にしたとき、これを食べたいと思う素朴な気持ちが失われてしまうことであり、自分の好物を食べるということが、「あとさきを考えない愚かなふるまい」のように思われてくることである。食べたいものを食べたいと思う気持ち自体が損なわれるのがダイエットの不幸なのである。

 そして、この不幸は、たとえ減量に成功するとしても、消えることはない。ダイエットを長く続けているうちに、食べたいと思えるものが少なくなり、何を見ても、「これを食べるとブタになるのではないか」「血糖値が急激に上がるのではないか」というようなことばかりが気になり、美味しそうに見えなくなる。そのうち、食べること自体が苦痛になる。

 食生活に関係する健康情報というのは、基本的にすべて「うしろ向き」である。つまり、いかに健康になり、いかに若々しくなるかを教えるものではなく、いかに病気のリスクを減らし、いかに老化のスピードを抑えるかを教えるにすぎない。だから、健康情報を手がかりに食生活の改善を試みると、病人のような気分を味わわされることになる。

 残念ながら、ダイエットを一度始めたら、この不幸から逃れる術はない。食べることへの気がかりが、自分のあとを影のようにどこまでもついてくるからである。これで苦しい思いをしている人は少なくないであろう。私も、あまり楽しくない思いをしている一人である。

 テレビドラマの「孤独のグルメ」を観ていると、主人公の井之頭五郎が丼からメシをかき込む場面がよく出てくる。製作者は、「うまそう」という声を視聴者に期待しているはずである。しかし、糖質、特に白米による糖質の摂取が血糖値を急激に上げ、それが血管や内臓を傷つける危険があり、これが動脈硬化を惹き起こす可能性があるという知識を持っている視聴者は、井之頭五郎がメシをかき込むシーンを見ても、「うまそう」とは思わず、むしろ、「ああ、命削ってるんだな、大変だな」としか思えなくなる。(私も、そう思って見ている。)そして、同じシーンを見て「うまそう」などと言っている人間を見ると、そういう人間の無知を憐れむ。

 しかし、よく考えてみると、本当に憐れまれるべきなのは、井之頭五郎について「ああ、命削ってるんだな、大変だな」などという感想を持つ私のような人間であるのかも知れない。白いメシを腹いっぱい食べることの素朴な楽しみには、もはや決して与ることができないからである。

 続きは下の記事へ。 

ダイエットの不幸を克服するヒント : アド・ホックな倫理学

前に、ダイエットによって背負うことになる不幸について書いた。ダイエットの本当の不幸は、食べたいものが食べられなくなることではなく、食べたいという素朴な欲求が損なわれることであるというのが、その内容であった。ダイエットの不幸 : S氏のブログダイエットの不幸



 

2012 09 30デモ 161


甲状腺がん、線量関連なし 福島医大、震災後4年間の有病率分析


 「真理にもとづかない政治」とは、post-truth politicsの訳語である。日本では、イギリスで行われたEU離脱の国民投票の際、「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) という言葉が何回かマスメディアで使われた。これは、EU離脱派が、国民が問題を多面的に検討するのを妨げるばかりではなく、国民を煽り立て、その結果、国民の判断を誤らせたからであり、イギリスのマスメディアにより、post-factual democracyという言葉を用いてこの事態が繰り返し指摘されたからである。(なお、post-truth politicsという言葉が最初に使われたのは2010年である。)

Post-truth politics

 また、英語圏のメディアでは、EU離脱ばかりではなく、アメリカの大統領選挙におけるドナルド・トランプに対する異常な支持も、「真理にもとづかない政治」「事実にもとづかない民主主義」の徴候と見なされている。また、こうした現象は一過的なものではなく、世界の政治が「真理にもとづかない時代」「事実にもとづかない時代」に入ったことの証拠であるという悲観的な論調が支配的であるように見える。

 しかし、それ以前も、また、それ以後も、日本では、少なくとも今までのところは、私が知っている範囲では、これが話題になってはいない。とはいえ、日本がこれと無縁であるわけではない。

 「真理にもとづかない政治」「事実にもとづかない民主主義」というのは、簡単に表現すれば、反知性主義的なポピュリズムのことである。日本の場合、このタイプの政治を目指すのは、主に左翼政党であるから、「真理にもとづかない政治」「事実にもとづかない民主主義」は、共産党にその典型を見出すことができる。つまり、日本における「真理にもとづかない政治」「事実にもとづかない民主主義」とは、反知性的な左派ポピュリズムなのである。「シルバー民主主義」は、その1つの現われである。

 日本人は、ながらく自民党が与党の政治に慣れてきた。自民党がすばらしい政党とは思わないけれども、それでも、重要な政策に関し、自民党が一枚岩になって国民に嘘をつくことはない。政治的な意思決定が重要なものになるほど、党内からの異論が烈しくなり、マスメディアがこれを報道することにより、論点が国民に見えるようになる。だから、事実上の一党支配であっても、そこには、ある程度までは民主主義的な合意のプロセスが成り立っていたのである。

 ところが、共産党は、一応は政党であっても、自民党とはまったく性格を異にする「プロパガンダ政党」である。(また、民進党も、プロパガンダ政党になろうとしている。)このような政党は、自分の利益になることだけを、事実にも真理にもよることなく主張する。つまり、共産党の場合、「一枚岩になって国民を騙す」危険はつねにあるし、実際、共産党は、ほとんどつねに、みずからの利益のために国民を組織的に騙そうとしてきた。

 しかし、国民は、政治家個人によって欺かれることには慣れていても、政党によって組織的に騙されることには慣れていない。つまり、日本人は、プロパガンダ政党に対する免疫がないのであり、これは、わが国にとり、非常に危険な状態である。(実際、政治家が虚偽を流布した場合には、これを罰するいろいろな法律があるが、政党が虚偽を流布しても、これを法律によって罰することはできない。政党が組織的にウソをつくことは想定されていないということなのであろう。)

 すべての政策には、メリットとデメリットの両面が必ず見出される。よいだけの政策とか、悪いだけの政策など、この世にはない。民主主義社会における政治は、近代以降の多くの政治哲学者が一致して語るように、メリットとデメリットを正しく見極めた上で、社会全体の利益という観点からの政策の是非をオープンな討議によって決めるものである。そして、マスメディアの本来の役割は、合意形成の前提となる情報を批判的に明らかにすることにある。

 ところが、この数年のあいだに政治的な争点となってきた問題、たとえば、原発、安全保障、大阪都構想など、いずれも、共産党を始めとする左翼政党は、有権者にメリットとデメリットを見極めさせ、ゆっくりとした合意形成を促すのではなく、有権者の目を現実から逸らせ、虚偽を流布することにより、自分たちに有利な行動へと国民を駆り立てようとした。

 国民がテクノクラートの言うことに耳を傾けるのをやめ――それはそれでかまわない――しかし、だからと言って、「本当のところはどうなっているか」をみずから調べて考えるわけでもなく、根拠のない思い込みと期待のみにもどついて行動するというのは、私の見るところ、もはや政治でも何でもない。これは、情動を刺戟されているだけの動物的行動にすぎない。荒唐無稽な主張を掲げて飽くことなく繰り返される左派のデモ活動は、反知性主義的ポピュリズムの動物性を見事に表現している。

Hippo Mouth

 体調を崩したり疲労がたまったりしたとき、身体のどこかにサインが現われると便利である。蕁麻疹ができたり口内炎ができたりする人もいるが、私の場合は、歯が痛くなる。そして、歯が痛くなったら、誰から何を言われようと、休息をとることにしている。

 去年の春、旅行していたとき、歯が突然痛みだした。痛みは強烈で、熱が出たため、痛み止めを飲んで熱と痛みを抑え込み、東京に戻ってから歯医者に駆け込んだ。

 私は、嘔吐反射がひどく、歯医者が苦手だった。そのため、ながらく歯医者には行っていなかった。かつて通っていた歯医者では、嘔吐反射で嫌味を言われたこともあり、去年は、歯医者を新たに捜すところから始めた。

 まずネットで調べてから電話をかけ、嘔吐反射がひどいことを説明し、それでも対応してもらえるかどうかを一応確認してから診察を受けた。もし困ると言われたら、別を当たるつもりだった。

 痛みがひどい歯は、かつて大々的に削って金属をかぶせたところだから、ここが虫歯になっていたら、治療はさぞ大変なことになるに違いない、と半ば観念していた。ところが、X線で口の全体を撮影し、さらに、あちこち調べてもらったところ、少なくとも痛みの原因は虫歯ではないという診断が出た。大々的に削って神経を取ってしまった歯があるが、これは、それ自体は何ともない、という話だった。(もし本当にこの歯に虫歯ができて、それが原因で痛みが出ているなら、そのときの痛みは、市販の痛み止めが効くようなレベルではない、とも言われた。)

 ただし、 この歯の根元には細菌がいる可能性があり、元気なときには問題ないが、疲れてくると、腫れたり痛んだりすることがある可能性があり、今回は、それに該当する、だから、唯一の治療法は休息をとることだ、というのが結論だった。

 私は、いい話を聞いた、と思った。
 
 私は、もともと、体力がある方ではなく、子どものころから、何となく疲れていることが多い。 しかし、疲れたと感じても、ただ目の前の仕事をやりたくないだけなのか、それとも、本当に疲れているのか、自分でも区別がつかない。だから、疲れていても、怠けていると周囲から思われたくないから休まないことが多かった。

 しかし、私が疲れを自覚しているかどうかに関係なく、疲れているときには歯が痛むということであるなら、歯が痛みだしたら、それは、「疲労のサイン」と受け取ってよい、いや、受け取らなければならない。問題の歯を削ったのは中学生のときで、それ以来、去年まで30年以上、痛むということはなかったが、これからは、自分がつかれているかどうかは、この歯に尋ねればよいことになる。これは、実に便利である。

Maestro
 しばらく前、職場の近くにある初めてのレストランで昼食をとったとき、メニューを見たら、コーヒーの欄に「アメリカン」を見つけた。

 子どものころは、どの喫茶店のメニューにも「アメリカン」があった。しかし、セルフ方式のコーヒーショップが一般的になってからは、コーヒー専門店でも「アメリカン」にお目にかからなくなった。

 (この話は、「アメリカン」について何も知らなければ、まったく意味不明なのだが、)昭和の時代には、高齢者を中心として、「アメリカンとは薄めたコーヒーのことである」という誤解が支配的だった。つまり、お茶が濃いときにお湯で割るのと同じ要領で、濃いコーヒーをお湯で割ったのが「アメリカン」であると考えられていたのである。

 たしかに、インスタントコーヒーの場合、濃さはお湯の量で調節することがあるかも知れない。しかし、一般的な(つまりインスタントではない)コーヒーをお湯で割ることはしないはずである。もしコーヒーをお湯で割ったら、それは、「アメリカン」ではなく、単なる「コーヒーのお湯割り」にすぎない。

 しかし、もちろん、「アメリカンとは薄めたコーヒーである」という誤解には、それなりの理由がある。というのも、アメリカンの色は、普通のコーヒーに比べると薄い――つまり、透明度が高い――のである。もちろん、それは、お湯で割られたからではない。

 「アメリカン」の「アメリカン」たる所以は、豆の焙煎にある。これを猛烈に大雑把に図示すると、次のようになる。

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 浅煎りの豆で淹れたコーヒーの色は薄く、反対に、深煎りの豆で淹れると濃くなる。深く焙煎するほどコーヒー豆が黒くなり、油脂が浮き出してくるからである。また、豆が浅煎りであるほど酸味が強くなり、豆が深煎りになるとともに、苦味が強くなる。

 もっとも深煎りのコーヒーはイタリアン、その手前がフレンチと言われる。ヨーロッパは深煎り好みなのである。そして、その対極にある超浅煎りのコーヒーが「アメリカン」である。一般に「ブレンドコーヒー」などと呼ばれるコーヒーは、複数の銘柄の豆をそれぞれ独自の割合で混ぜたもので、超浅煎りと超深煎りの中間にある。普通に喫茶店で出てくるコーヒーはこれに当たる。

 私自身もコーヒーについては初心者だが、このような大雑把な知識を踏み台にして、たとえば次のような入門書に進むのがよいと思う。外でコーヒーを飲むたびに味の違いがわかってきて、何となく楽しくなる。


 
 また、次のようなマニアックな入門書も面白く読めると思う。

 

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