AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年09月

Extremely Loud and Incredibly Close Movie Review (2012) | Roger Ebert
映画を観たり、小説を読んだりしているとき、ある時点でストーリーが予測できてしまうことがある。映画が明るい場面で始まったら、必ず暗転がこれに続くはずである。どのように暗転するのかはわからないが、ともかくも暗転することが予測できることは少なくない。このようなときには、映画なら観るのをやめる。小説の場合は、読むのをやめる。こうした作品は、私には重く感じられる。


 アメリカ映画の場合、基本的にはすべてハッピーエンドであるから、場面が暗転しても、ふたたび明るさが戻ってくることは最初から約束されている。つまり、どのようなひどい出来事が途中で起こっても、最後には、何らかの仕方で救われることになっている。

 しかし、そうであるなら、主人公が苦境に陥ったり、問題が発生したりするのに付き合うのは単なる時間の無駄であって、結末だけがわかればよいことになる。ただ、実際には、最初の15分くらい観たところで、おおよその結末まで予測できてしまう映画、したがって、結末を確認するまでもないものも少なくない。スリラーの大半は、結末で誰が生き残り、誰が死ぬか、最初から決まっているから、この意味では重く、かつ、面白くないと言うことができる。

 この観点から映画を評価するなら、どのようなハッピーエンドになるのか予測がつかないことは、すぐれた作品の条件の1つとなる。(もちろん、予測できなければ何でもかまわないというわけではない。内容が支離滅裂であるという理由で予測できないこともあるからである。)

 
 しばらく前、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」(2012年に日本公開)という映画を観た。これは、9.11で父を失った少年が、一本の鍵を見つけ、この鍵が何を開くものなのかを探る「探検」をきっかけに立ち直る姿を描いた作品であり、批評家のあいだでは、それなりに高く評価されているようである。

 この作品の場合、これが何らかの意味でハッピーエンドであることは、観る前からわかっているが、具体的には、どのような大団円が待っているのかは、予測することができない。最後まで観てからストーリー全体を振り返れば、実に単純な構造の作品であることがわかるのだが、少なくとも私には、どのようなハッピーエンドになるのか、まったく予測できなかった。最初から最後まで観ることが時間の無駄にならなかったという意味では、すぐれた作品だと思う。


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Britain Prime Minister Theresa May Puts Fashion High on the Agenda
 しばらく前のことになるが、今年の7月にイギリスで女性が首相になったとき、マスコミの多くは、政治的な実績や手腕とともに、そのファッションについて詳しく報道した。男性が首相になっても、よほどのことがないかぎり身につけているものがマスメディアの話題になることはないが、女性の政治家の場合、ファッションが話題になることが少なくない。これは、日本に限ったことではなく、イギリス本国やアメリカでも、ファッションへの言及は少なくなかったように思う。

 女性の政治家が登場すると決まってファッションが話題になることについて、性差別主義的であり好ましくないと考える人は少なくないようであるが、私は、必ずしもこれには同意しない。報道機関自身がどのくらい自覚しているかはよくわからないが、女性の政治家のファッションを伝えることには、やはり、それなりの意義があるからである。

 性別に関係なく、政治家としての能力とファッションのセンスのあいだには、何らかの相関関係が認められる。もちろん、ファッションのセンスがすぐれていても、政治家としては無能という可能性がないわけではないが、少なくとも、身なりに気を遣わない政治家、服装に無頓着な政治家にロクな人物がいないことは間違いないように思われる。

 さらに、男性の場合、スーツを身につけているかぎり、あまりひどいことにはならないのが普通であるのに対し、女性については、ファッションセンスのよしあしは、ほぼ一目でわかる。女性の政治家のファッションが繰り返し話題になるのは、ファッションセンスが政治的能力を反映することを誰もが何となく知っているからであろう。

 ファッションのセンスが平均以下の女性の政治家は、有権者によい印象を与えないことが少なくない。この印象がセンスの悪さや服装への無頓着によるものであるのかどうかはわからないが、有権者がこれを政治的無能のサインとして不知不識に受け止めているというのは、十分にありうることである。

 たとえば、民主党政権時代に最後の文部科学大臣となったあの人物の場合、少なくとも政治家としての能力に深刻な問題があった。これは、周知の事実である。また、彼女がファッションに関し平均以上のセンスを持っているという意見には、誰も与しないに違いない。

 ファッションセンスによって直接の損害を被っている政治家の代表は、ヒラリー・クリントンである。クリントンは、ファッションセンスに乏しいことで以前から有名であり、そのちぐはぐな感じの衣装は、これまでマスメディアで繰り返し面白おかしくからかわれてきた。(下のリンク先でも、「何をどう着ても似合わない」というような書き方をされている。たしかに、リンク先には、クリントンのファッションセンスのなさを証明するような写真がたくさん載っていて、ことによると、本当にセンスがないのかも知れないと思えてくる。)

 写真で見るかぎり、大統領選挙に立候補してからは、スタイリストが決めたセンスのよいものを無難に身につけ、何とかサマになっているようであるが、それは、おそらく、着るものを自分で選ぶと、目も当てられない状態になることがわかっているからであろう。そして、このような事情は、アメリカ国内で、クリントンに対する好感度が低いことの原因の少なくとも1つではあるように思われるのである。
Hillary Clinton's 20 WORST fashion faux pas from the past 50 years


(翻訳:「68歳の彼女は、日曜日にニューヨークで注目を集めたが、そのとき家族と一緒に外出中の彼女が着ていたのは、刺しゅうされた花柄のジャケットである。ただ、彼女には、ファッションにまつわる不幸がたくさんあって、このド派手なコートはそうした不幸の1つにすぎない。」)

 上の写真のコートは、2003年にアフガニスタンのカブールで購入したとされるもので、クリントンは、この12年間、これを着用して人前にたびたび姿を現している。もちろん、これは、大変に評判が悪く、マスメディアでは、ファッションセンスの欠如の証拠として繰り返し酷評されている。


Japan Air-Self Defense Force Air Show



北ミサイル 日本のEEZにまた着弾 北海道西方沖 防衛省が残骸を捜査中:イザ!


 北朝鮮がまたミサイルを発射した。「憲法9条を改正すればこんなことは起きない」などと言うつもりはないが、前回のミサイルが排他的経済水域に落ちたことを考えると、今回のミサイルにまったく対応できなかった――もちろん、事後にはいろいろとやっているが――ことは、やはり憲法のせいなのかも知れないと思わずにはいられない。

 ところで、国家というのは、外からの脅威に対して国民の安全を守ることが最低限の役割であり、これが果たせない場合、国家とは言えない。これは政治学の常識であるばかりではなく、世界の常識でもある。

 もちろん、海外で日本人が事件や事故に巻き込まれたり、テロの標的になったりすることがあり、これを完全に防ぐことは不可能であろう。しかし、今回のミサイルへの対応を見ていると、政府は、国内にいる日本人の安全すら本気で守るつもりがないのではないかという疑念を抱かざるをえない。これは、一つの国家が他国に対してとる態度ではないと私は思う。(もっとも、日本は、北朝鮮を国家として承認していないから、日本から見ると、北朝鮮は「国」ではないことになる。)

 いずれ、北朝鮮は、ミサイルを飛ばすであろう。ことによると、ミサイルは、領海、いや、領土のどこかに着弾するかも知れない。そのとき、わが国は、これに対して反撃するのであろうか。それとも、相変わらず抗議したり非難したりするだけなのであろうか。そして、どこまでひどく国民の安全が脅かされれば、わが国は、まともな仕方で反撃することができるようになるのであろうか。

 今回の件は、法的にはともかく、素朴な常識に従うなら、「有事」と呼ぶのに十分な事態であったと私は思う。それなのに何もしなかった政府が、次の機会に何かをすることは、ことによると対して期待できないのかも知れない。


Fishing Hole, Yellowstone National Park, Wyoming, USA.


ヘリ利用の中国人女性のエベレスト登頂を認定


 以下は、登山には何の興味もない人間による、思いつきのような極論である。

 上に掲げたのは、2014年、エベレストに登頂しようとした中国人の女性登山家がヘリコプターを使ったことに関連する記事である。ネパール政府は、この中国人の登頂の認定を留保していたが、これを正式に認定することになったというのが記事の内容である。

 少なくとも今のところはまだ、ヘリコプターのみで山頂まで行くことができない。エベレストの山頂は、足を使わなければ辿りつくことができない場所であるから、登山にはかけがえのない価値があると言うことができる。

 しかし、ヘリコプターで行けるところまではヘリコプターで行くという選択は、地元の住民の感情をいたく傷つけることは間違いないが、許しがたいほどのことではないと思う。ヘリコプターを使った登山が一般的になれば、エベレストの標高全体のうち、上から4分の1くらいが本当の意味における登山の対象となり、下の4分の3は観光地になるであろうし、それはそれで、やむをえないことであろう。

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 この観点から眺めるなら、たとえば富士山に登ることには、もはや積極的な意味は何もないように見える。というのも、富士山の山頂までは、ヘリコプターでも行くことができるし、自動車でも行くことができるからである。(人間ではなく生活物資を運ぶための道路が山頂まで整備されている。)山頂に辿りつきさえすればよいのなら、富士山にあえて足で登ることの意味は、必ずしも明瞭ではないことになる。

 想定されるのは、「足を動かしてこそ登山だ」「周囲の眺めを楽しむ」などの説明であろうが、これら2つが理由なら、富士山の代りに尾瀬に行ってもかまわないし、眺めのいいスポーツジムでトレッドミルの上を歩いてもかまわないことになる。ヘリコプターでも自動車でもなく、足で富士山の山頂を目指す理由としてもっとも説得力があるのは、「乗り物を使うカネがないから」ということになってしまうのであろうか。

 現代では、富士山に足で登るのは、釣り堀で魚を釣るのと同じと言うことができる。魚を手に入れることが目的なら、釣り堀での魚の捕獲など時間とエネルギーの無駄遣いであり、魚屋かスーパーの魚売り場に行くのが合理的である。富士山の山頂に辿りつきたいのなら、何も足を使う必要はない。何のために山に登るのか、登山とは何なのか、一度よく考えてみることが必要であるように思われる。


『折り鶴』


「千羽鶴、何とか生かせないか」名刺や封筒にリサイクル、コスト大が課題に 長崎原爆資料館(西日本新聞) - Yahoo!ニュース


 上のような記事を見つけて少し驚いた。というのも、長崎と同じように折り鶴が大量に集まる広島市では、はるか以前から焼却したり、無償で配布したり、リサイクルしたりする形で折り鶴が処分されていたはずからである。

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 ところで、私は、平和を非常に大切であると考えているが、折り鶴を折ることと平和との関係は、直観的にはよくわからない。平和は実現のために努力するものであり、願うものではないような気がするからだ。

 しかし、平和への願いを何かに込めると平和が実現するなら、あるいは、折り鶴の数に比例して平和に近づくなら、私は、毎日、睡眠時間を削ってでも鶴を折り続ける。

 もちろん、折り鶴の数と平和のあいだには、何の関係もない。そもそも、「願い」で平和が実現するなら、それほど簡単なことはない。鶴を折る手間と時間があるなら、尖閣諸島周辺に毎日のように現れる中国の艦船の動きに注意を払ったり、憲法の改正を働きかけたり、竹島がわが国の領土であることをアピールするためふるさと納税の形で島根県を支援したりする方がよほど合理的であるように思われるのだが。

 なお、折り鶴と平和のあいだに関係があることが合理的に証明されたら、おそらく、政府は、大量の労働者を雇用して鶴を折らせるか、あるいは、「折り鶴自動製造機」の開発に膨大な予算を投じるであろう。平和を実現する合理的な手段がわかっているのに、この手段を使わないまま放置すると、不作為で政府が告発される可能性があるからである。


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