AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年10月

Tsukiji

市場の移転には必然性がある

 今年の夏、都知事選が終わったころから、新聞で「豊洲」の二文字を毎日のように見かけるようになった。もちろん、東京卸売市場を築地から豊洲へ移転させる計画は、ずいぶん前から進められており、しかも、移転の候補地に豊洲が挙げられるのと同時に、豊洲の土壌には深刻な汚染があることもまた、すでに広く知られていた。それでも、豊洲への移転が莫大な費用を投じて土壌を改良するという犠牲を払うに値するという合意が当事者のあいだで最終的に生まれたのには、やはり、築地市場の設備の老朽化が無視することができない程度まで進行しているという事実があったと考えるのが自然である。

 インフラは、ダムであれ、水道であれ、鉄道であれ、作るための初期費用以上に、維持するためのコストが必要になる。また、そのコストは、時間の経過とともに増えて行くことを避けられない。実際、わが国でも、橋が崩落したり、道路が陥没したり、水道管が破断したりする事故が過去にあったし、現在でもあるけれども、それは、インフラを維持するための資金が不足しているからに他ならない。

 それでも、東京――いや、日本と言うべきかも知れない――の状況は、他の先進国、特にアメリカと比較するなら、それほど悪いわけではない。アメリカでは、何十年にもわたってインフラを維持するための予算が削られ続け、しかも、コスト削減の結果としてどれほど大きな事故が起こっても、予算が十分に増える気配はない。政府による富の再配分の機能が麻痺しているからである。

 遠くない将来、アメリカは、金持ちが住むエリア、つまり、社会生活のインフラが完全に整備されたごく狭いエリアと、このエリアを囲むように形成された、貧乏人が住む広大なエリアへと完全に二極分解し、アメリカ人の多くが、電気もなく、水道もなく、ガスもなく、鉄道もなく、電話もなく、さらに、満足な道路すらない広大な――難民キャンプのような――街で暮らすことになるかも知れない。すでに、アメリカの各地に作られている「ゲーテッド・コミュニティ」(gated community) は、金持ちだけを住人とする、周囲から隔離された住宅地である点において、未来を部分的に先取りした都市であると言うことができる。

インフラを維持するコストを節約するもっとも簡単な方法は、そこから逃げ出して新しい都市を作ることである

 とはいえ、インフラの維持のためのコストは、地域や時代に関関係なく、国家につねに重くのしかかる。特に、作り上げられたインフラが大規模なものであるなら、維持のコストもまた、それだけ高くつく。

 だから、歴史的に見るなら、高度な技術を必要とするインフラを整備した国家の前にあった道は2つ、1つは、維持のコストで圧しつぶされる――旧ソ連――までがんばる道、もう1つは、破綻を避けるため、老朽化したインフラの更新を諦め、新しい都市を別の場所にまったく新たに建設する――古代ローマ――道であった。たしかに、インフラだけを残して都市の機能を別の場所に移転させるなら、その時点での人間の生活様式に最適化されたインフラを、何のレガシーも考慮せずにゼロから構築することが可能となるから、古いものをメインテナンスするよりも、はるかに安上がりになることは確かである。実際、古代ローマ帝国は、紀元後4世紀、ローマを放棄して首都をコンスタンティノポリスに移転した。帝国の財政がインフラの維持に耐えられなくなったというのが最大の理由である。

 すでにアメリカは、都市におけるインフラの更新を諦め、後者の道を歩き始めているように見えないこともない。わが国がどちらの道を歩むのか、これはわからない。しかし、インフラの老朽化がとどまることなく進行し、国や自治体に対し改修のための予算をつねに要求している以上、インフラ整備の問題から逃れるための手段に、街の全部または一部を丸ごと捨て、まったく新しい街を作ることが真面目に検討されてしかるべきであるように思われる。(インフラの改修が資金的に困難になった地域について、希望する住人をすべて移転させた上で、地上部分を更地に戻したり植林したりすることにより、ゴーストタウンやスラムが発生する危険はいくらか抑えられるはずである。)


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Donna Bell's Bake Shop

 “Donna Bell’s Bake Shop”というのは、ニューヨークのマンハッタンのうち、一般に”Hell's Kitchen”と呼ばれているエリアにあるベーカリーである。


Home

Because of our tiny size and changing menu...We do not ship or deliver.





 ホームページに記されているように、これは、主に南部風のペストリーや菓子パンをコーヒーやスープとともに販売する店である。

 私は、ニューヨークに行ったことがなく、当然、この店に行ったこともなく、したがって、詳細については何も知らなかったのだが、しばらく前、この”Donna Bell’s Bake Shop”という店名をそのままタイトルにした本を見つけ、取り寄せて読んでみた。というよりも、本を読んで、同じ名前の店がニューヨークにあることを知ったというのが実際の順序である。

Donna Bell's Bake Shop: Recipes and Stories of Family, Friends, and Food

 ニューヨークの最新事情に特に詳しくないかぎり、日本人なら、店を知るよりも先に本を知るのが普通である。特に、ケーブルテレビやCS放送で海外のテレビドラマを観ることを習慣にしている人なら、なおさらであるに違いない。

 というのも、この本は、2003年から放送されているアメリカの有名なテレビドラマNCISの主な出演者のひとりであるPauley Perretteが2人の友人――店の共同経営者でもある――と公刊したものだからである。私自身は、Pauley Perretteがツイッターで刊行を告知しているのを見て本のことを知ったはずである。

 Pauley Perretteについては、ドラマでの風変りな役柄についても、あるいは、テレビの外での活動についても、好き嫌いが分かれる――動物愛護やLGBTQの権利擁護などの活動家でもある――であろう。(私は、どちらかと言うと好きであるが。)それでも、彼女がアメリカで非常に知名度のある芸能人であることは事実である。この本に対しては、amazon.comで200件以上のレビューが書き込まれているが、これもまた、Perretteが著者に名を連ねているからであると考えるのが自然であろう。

 ところで、この本によれば、Donna Bellというのは、2002年に世を去ったPerretteの母の名前であり、この店は、家族のために料理や菓子を作ってくれたこの母の想い出に敬意を表すために作られたものである。また、店で販売される菓子類は、母がノートに書きとめたレシピを参考に作られており、同じように、店の内装やコンセプトにも、母の思い出が反映されているようである。

 Preretteは、現在はハリウッドに住んでいるが、1990年代には、ニューヨークで活動しており、このころからの友人として家族ぐるみの付き合いがあったDarren Greenblatt(共著者のひとり)がDonna Bellの名を冠した店を開くことをPeretteに提案したのが、Donna Bell’s Bake Shopが生れたきっかけだったようである。そして、店を作るにあたり、Perretteが協力を求めたのが、彼女がハリウッドで知り合った料理人Matthew Sandusky(共著者のひとり)であり、この3人を共同経営者として店が生れた。Donna Bell’s Bake Shopには、3人がこの本に寄せた合計約30篇の短いエッセーが、2011年5月に店が生れるまでの経緯、そして、その後の経営をそれぞれの視点から語っている。

 マンハッタンにある店が日本的な意味における「タレントショップ」であるのかどうか、この点に不案内な私には判断することができないが、Perretteのファンがアメリカ各地ばかりではなく外国からも訪れることは、この本に記されている。店の外で記念撮影するファンの話や、店で大量の菓子を買い求めて冷凍して持ち帰り、NCISをテレビで観ながら食べるという外国のファンの話も紹介されており、この意味では、一種の「タレントショップ」なのかも知れない。(なお、Perretteは、ニューヨークを訪れるときには、必ずこの自分の店に足を運び、店頭でみずから客に応対したり電話に出たりするが、自分がいつ店頭に立つかは、事前にわかっていても告知はしないことにしている、と記されている。おそらく野次馬やパパラッチを避けるためなのであろう。)

 もっとも、この本の全体の4分の3は、南部風のビスケットやカップケーキ、ペストリーなどの約50種類のレシピからなる。掲載されている写真はいずれも美しいけれども、「味が大雑把でサイズが大きい」というアメリカの菓子に共通する特徴が認められるような気がする。平均的な日本人に合うかどうかは微妙かも知れないが、Perretteの公認のレシピではあるから、ファンなら自作しても悪くはないと思う。


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受信料を支払わない者に文句を言う資格はない

 NHKに受信料を支払わず、これを滞納し続けたり、あるいは、確信犯的に支払いを拒否したりする者がいる。しかし、このような行動は、私にはまったく理解することができない。

 20年以上前、まだNHKが受信料を集金していたころ、長期間自宅を空けていたため支払いが遅れたことが1度だけある。しかし、このようなハプニングを除けば、私は、自分のテレビを持つようになってから現在まで、NHKの受信料をずっと支払ってきた。

 もちろん、NHKの番組に文句がないわけではない。それどころか、電波の純粋な無駄遣いとしか思えないような番組はいくつもある。以前に書いたように、その代表は、夏の高校野球である。あれは、高校野球にまったく興味のない私にとっては、一種の電波ジャックである。また、番組の前後にNHKの別の番組の宣伝CMを挿入するのも、やめてもらいたいと思っている。以前、誰かが、このCMが一種の迷惑行為であり、「知人の家を訪ねたら、こちらが望んでもいないのに、家族の旅行や運動会のビデオを延々と見せられるのと同じようなもの」であるという意味のことを語っていたが、まったくそのとおりであろう。

 ただ、私は、いくら高校野球のために放送時間を使うのが嫌だからと言って、あるいは、CMが気に入らないからと言って、これらを理由に受信料の不払いを計画したことはない。受信料を支払うことは、NHKに文句を言う資格を手に入れるための必要最低限の条件であると考えるからである。

「罰則がないから受信料を支払わない」という主張には動物的なにおいがする

 NHKとの受信契約と受信料の支払いは、放送法第64条の以下の条文によって定められた義務である。

協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であつて、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものをいう。第百二十六条第一項において同じ。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。

 もっとも、受信料の不払い運動に携わっている者たちが主張するように、また、NHK自身も確認しているように、上記の義務に違反しても、刑事罰が科せられるわけではない。そもそも、法律において義務として定められているもののすべてが違反に対する罰則を持っているわけではない。(これは、法律の不備ではない。受信料を支払わない者に対し、放送法を根拠にNHKがいつでも損害賠償を請求することができると考えられているから、罰則規定がないのである。)

 「受信料を支払わなくても罰則がない」という理由で滞納を続けるふるまい、あるいは、支払いを拒否するふるまいには、動物的なにおいがする。なぜなら、このような理由による受信料の不払いの延長上には、「制裁がなければ何をやってもかまわない」という主張が認められるからである。罰則があるかどうかには関係なく、さしあたり法律が義務と定めるものを尊重することは、社会集団を構成する一人ひとりに対し当然のこととして要求されるふるまいである。制裁が課せられなければルールを守れないというのは、もはや人間ではなく、動物であると私は考えている。

「NHKの番組が反日的だから受信料を支払わない」という理屈は逆立ちした「反日無罪」

 しかし、世の中には、「NHKの番組を観ないのに受信料を支払うのはおかしい」「カネがない」などという即物的な理由にもとづいて支払いを拒否するのではなく、「NHKの番組の内容が反日的である」という主張を根拠に受信料を支払わない者がいる。


 主にいわゆる「右翼」が表明してきたこの理屈は、私には不可解なものとして響く。むしろ、「『正しい信念』(?)にもとづくふるまいなら、それが違法であってもかまわない」というのが彼らの見解であるなら、ここには重大な問題が含まれていると考えねばならない。というのも、これは、受信料の不払いが「愛国無罪」によって正当化されると彼らが考えていることを意味するからである。

 右翼は、たとえば沖縄の「反基地」運動に関連し、あるいは、「反原発」運動に関連し、左翼の「反日無罪」を繰り返し批判してきたはずである。しかし、NHKの受信料に関し右翼が強調する「愛国無罪」は、逆立ちした「反日無罪」であり、「受信料を支払う必要はない」などと嘯くことをやめないかぎり、彼らには左翼の「反日(反基地/反原発)無罪」を「糾弾」する資格などないと考えるのが自然である。

 そもそも、形式的に考えるなら、受信料を支払っていないということは、NHKの番組を観ていないことを意味する。受信料を支払わぬままNHKの番組を観ることは違法だからである。しかし、NHKの番組を観ていない者には、NHKの番組内容を知ることができず、当然、NHKを批判することもできないはずである。「NHKの番組が反日的だから受信料を支払わない」と言う者を見つけたら、何よりもまず、「どのようにしてNHKの番組の内容を知りえたのか」を尋ねることが必要であろう。


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 2016年の春に「かかりつけ薬剤師」という制度が始まったらしい。

今春スタート!薬局で【かかりつけ薬剤師制度】を活用するメリットとは? | EPARKくすりの窓口コラム

 どこかでこのようなニュースを聞いたような気がするが、幸いなことに、今年は病院と薬局に何回か通ったが、昨年は病院にも薬局にも縁がなく、すっかり忘れていたのを、昨日、下のような記事をたまたま目にして思い出したのである。

「かかりつけ薬局あり」は41% 「くすりの適正使用協議会」発表

 この「かかりつけ薬局」は、「かかりつけ医」と同じように、病人の健康管理について重要な役割を担うことになるものらしいということはよくわかる。それでも、私には、どうしても「余計なお世話」と感じられて仕方がない。

 しばらく前、処方箋を持って薬局に行ったときのことである。初めて行くその薬局で、保険証の提示を求められた。薬局で保険証を提示しろと言われたのは、私にとっては初めてのことだった。そこで、「その要求に法的な根拠はあるのか、処方箋に必要な情報はすべて記されているはずだが」と私が切り返すと、処方箋に記された保険証の番号を確認するのに必要であること、したがって、毎回は必要ないが、年に一度はチェックしたいという返事が戻ってきたため、その場で保険証を見せた。(薬局が保険証のコピーを保管するようなことはなく、私が提示した保険証をその場で処方箋と照合し、住所をメモするだけの作業であった。)

 しかし、私は、保険証は提示しても、初めての薬局に行くたびに記入を要求される「問診票」「アンケート」などと呼ばれる書類の記入は、すべて断ることにしている。余計な個人情報を薬局に伝えたくないのである。

 たしかに、薬局が、薬を客に引き渡す前に、客が現在服用している薬の種類、(アレルギーを含む)副作用、そして、既往症に関する情報を把握しなければならないことはよくわかる。したがって、私は、求められれば、必要最低限の情報を口頭で伝えることにしている。(「問診票は書かない」と薬局の窓口で言うと、「何か薬を飲んでいるか」「薬の副作用が出たことはあるか」などを即座に尋ねられることが多い。)

 患者が自分の身体に関する情報を開示する気になるかどうか、そして、薬局の窓口にいる薬剤師から意見やアドバイスをもらったとき、これに耳を傾ける気になるかどうか、つまり、患者が、薬局にいる薬剤師に健康管理の一部を委ねる気になるかどうか……、「かかりつけ薬局」なるものが機能するかどうかは、この点にかかっていると私は考えている。自分の健康というのは、誰にとっても大切なものであるから、「かかりつけ薬局」なる制度が作り上げられたとしても、薬剤師が親身でなかったり、他人事だったり、よそよそしかったりすれば、私たちは、薬剤師に必要最低限の情報しか開示しないであろうし、まして、薬剤師に何かを相談することなど決してないであろう。「かかりつ薬局あり」が41%にとどまっているのには、それなりの理由があると考えるのが自然であり――というよりも、41%は、私の予想よりもかなり高い数値である――「かかりつけ医」が制度化されるとしても、事情は同じであるに違いない。


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 昨日の新聞に、下のような記事が載っていた。

「重大事態」明確化を=被害調査に指針も-いじめ対策で提言・文科省会議:時事ドットコム

 何が「いじめ」に該当するのか、その基準を明文化することを文科省の「いじめ防止対策協議会」が決めたようである、上の記事にあるように、滋賀県大津市で5年前に起った中学生の自殺をきっかけとして「いじめ防止対策推進法」が制定され、いじめを防いだり、監視したりする体制が整い始めているようであり、今回の決定は、いじめの防止のためのさらなる対策の1つとしての位置を占める。

 しかし、このような対策をどれほど試みても、学校があるかぎり、「いじめ」がゼロになる可能性はないと私は考えている。なぜなら、「いじめ」というのは、児童や生徒が身を置く「学級(=クラス)」というシステムに原因があるからである。学級は、変化に乏しい「ムラ社会」であり、流動性はかぎりなくゼロに近い。中学校なら、入学から卒業までの3年間、1学年の構成メンバーの入れ替えはほとんどまったく起こらない。そして、1つの学級の内部では、30人から40人の子どもがメンバーの入れ替えがない状態で(少なくとも)1年というながい期間を過ごす。当然、そこには、「放っておかれる権利」などというものはなく、誰もが誰もを監視する恐ろしく窮屈な社会が生れる。周囲との微妙な差異が「いじめ」のきっかけになるわけであるが、この周囲との微妙な差異は、万人に具わるものであり、また、万人が具えていなければならないものであるにもかかわらず、周囲の注意を悪い意味で惹くことを避けるためには、自分と周囲との差異をできるかぎり消去し、匿名のone of themとしてふるまうことが必要となる。誰もが「いじめ」の標的となりうる以上、「いじめ」がまったく起らないなどということは、現実にはありうべからざることなのである。

 「いじめ」を完全に解消しようと思うなら、たとえば、「学級」や「学校」という単位を解消する、あるいは、入学から卒業まで同じ学校にとどまる児童、生徒を作らないよう、裁判官の転勤と同じように、(たとえば生徒、児童を無作為抽出し)近隣の学校への転校を定期的に繰り返させる制度を作るなど、教室内部の流動性を高くする以外に道はないであろう。

 もちろん、現実に「いじめ」の標的になった子どもの心境や事情は区々であり、全員がムラ社会から逃れることを願っているわけではないであろう。ことによると、ムラの内部で居心地よく過ごすことを望む者がいるかも知れない。ただ、学級や学校というのが本質的にムラ社会であるという事実を示し、そして、ここから逃れるという選択肢を子どもに与えることは、生徒や児童の精神衛生にとってきわめて重要であるように思われる。


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