AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年10月

Kobe delivery time!

 今日、下のような記事を見つけた。

1月2日の年賀状配達、17年から中止 日本郵便

 1月2日の年賀状の年賀状の配達が来年からなくなるようである。

 よく知られているように、年賀状というのは、年始の挨拶の代用品であり、年賀状に非常にながい歴史があるわけではない。また、「年賀状」という言葉を耳にして誰もが連想する「お年玉付き年賀はがき」は、1949(昭和24)年に最初に販売されたものであり、発売から70年も経っていないごく新しいものである。「年賀状の販売枚数が減った」「年賀状を出す人が減った」などの事実が否定的に報道されることが少なくないけれども、これが本当に悲しむべきことであるのか、私には判断することができない。

 そもそも、普通の会社員なら、元日に確実に配達されるよう年賀状を調達し作成し投函するなど、物理的にほぼ不可能であるし、冷静に考えてみれば、ブツとしての年賀状をわざわざ届けるに値する相手がそれほどたくさんいるわけではないかも知れない。しかも、現在では、正月休みはわずか数日しかなく、雑用に忙殺されて疲労困憊するだけのつらい期間に成り下がっている。(私が独身でよかったと思うのは、年末まで長時間労働を強いられた男性が正月に「家族サービス」の追い打ちをかけられているのを街で見かけるときである。)正月にどうしても誰かに挨拶したいのなら、メールに代表される電子的な手段でメッセージを送れば済む場合がほとんどであるに違いない。

 私自身、毎年一応年賀状を購入し、作成し、投函しているが、その数は年とともに減っている。年賀状の宛先は、ほぼすべて目上(≒高齢者)であり、この数年は、宛先のリストに新しい名前は加えられていないからである。

 昔は、仕事の関係で新しく知り合いになった相手には年賀状を出すことにしていた。年賀状を出すのが礼儀だと信じていたからである。しかし、最近は、この「年賀状を出すのが礼儀」という感覚が妥当なのかどうか、疑わしく感じられるようになり、基本的には年賀状の枚数を増やさないことにしている。また、私が年賀状を出しても、返事が戻ってこないことも少なくない。

 年賀状は、郵便局がどれほど宣伝しようとも、いずれ廃れて行き、高齢者のあいだで細々と維持される習慣になることを避けられないはずである。しかし、年賀状というのは、「去年お世話になったから今年は書く」というものではなく、継続して毎年届けることに意義があるものである。したがって、今年まで続けて出していた相手には来年も原則として出し続けるのが無難であると私は考えている。もちろん、「来年からは出さない」と宣言し、年賀状と縁を切ることは不可能ではないが、それもまた、それなりに手間のかかる作業であるようにも思われるのである。


Santa Claus!

「キリスト教徒でもない日本人がクリスマスを祝うのはおかしい」という主張

 私は、個人的には、クリスマスが好きではない。12月24日に何か特別なことをするわけではないし、周囲の人間に対して「メリー・クリスマス」などと挨拶することもない。私自身は、クリスマスとは一切かかわり合わないことにしている。ただ、クリスマスが嫌いだからと言って、「日本人がクリスマスーーというよりも、正確にはクリスマス・イヴ――に大騒ぎするのはおかしい」と考えているわけではない。

 「日本人がクリスマスを祝うのはおかしい」ことを主張する人は少なくないが、この主張の根拠は単純であり明瞭である。すなわち、クリスマスはキリストの生誕を祝うキリスト教の記念日であるが、日本はキリスト教国ではなく、したがって、キリスト教徒ではない日本人にとってクリスマスは何ら特別な日ではありえない……、これがクリスマス無用論の根拠である。私もまた、昔はこのように考えていた。しかし、私は、その後、意見を変えた。

 たしかに、キリスト教徒は、日本の全人口の1パーセントにもならない。この割合は、近隣の国々と比較してきわだって低い。つまり、日本は、世界でもっとも非キリスト教的な国の一つであり、平均的な日本人には、キリスト教の記念日であるクリスマスを祝う義務も大義もないことになる。「日本人がクリスマスを祝うのはけしからん」という意見は、妥当であるように見える。

 しかし、歴史を振り返るなら、キリスト教には何の縁もない日本人がクリスマスを祝う――というよりも、クリスマスに大騒ぎする――のは、特に不思議ではない。

クリスマスは、キリスト教固有の祭りではないから、これを日本的にアレンジしても差し支えない

 そもそも、クリスマスというのは、キリスト教に固有の祭りではない。12月25日という日付からわかるように、これは、キリスト教以前のヨーロッパ各地で行われていた冬至に関連する祭りをキリスト教が乗っ取ることで形作られてきたものである。

 古代ローマでは、この時期、ローマの守護神であるサトゥルヌス(Saturnus)――ギリシア名はクロノス――を祝うサトゥルナーリア祭が行われていた。当初、クリスマス、つまりキリストの生誕は、冬ではなく春に祝われていたが、キリスト教は、このサトゥルナーリア祭に合わせてクリスマスを冬に移動させ、無礼講を特徴とするサトゥルナーリア祭に便乗してキリストの生誕を祝うようになる。その後、キリスト教は、各地の土着の信仰や祭りを取り入れながら布教を進めて行く。その結果、イエスのもとでは純粋な一神教であった――そして、現在でも建前としては一神教である――キリスト教は、時間の経過とともに「多神教化」することになる。神学的にはともかく、信仰の外観だけを手がかりにするなら、キリスト教はもはや「一神教」ではなく「多神教」であると言うことができる。

 そして、クリスマスもまた、異教の伝統を自由に取り入れることにより、よく言えば豊かな祭りに、悪く言えば雑多で世俗的な祭りへと変質する。この点は、特にカトリックでは大らかに許容されている。

 クリスマスが異教の祭りを乗っ取ることにより成長し膨張してきた融通無碍な多神教的「イベント」であるなら、これが日本の文化や社会と出会うことにより、さらに新たな方向へと進化するとしても、何ら不思議ではない。クリスマスというのは、日本の「非キリスト教的クリスマス」を許容するほど自由なのである。この意味において、融通無碍なクリスマスが日本に浸透しやすいのと同じように、外来の雑多な要素をすべて混ぜてしまう日本のスタイルもまた、クリスマスに親和的であると言うことができる。

 実際、多くの日本人は、「日本がキリスト教国であるかどうか」あるいは「クリスマスがキリスト教徒の祭りであるかどうか」など、一切頓着しない。同じように、クリスマスにとってもまた、祝う主体がキリスト教の純粋な信仰の持ち主であるかどうかなど、どうでもよいことなのである。クリスマス・イヴには、時間を静かに過ごしたい者を邪魔しなければ、大騒ぎしたいだけ大騒ぎすればよい、と私は考えている。


Which one to choose

分類整理が現実的なのは、蔵書の量が一望できる範囲に収まっているときだけ

 蔵書が増えてきたとき、これを利用しやすくするために誰の心にも浮かぶのは、「本をどのように書架に並べるか」という問いであろう。

 たしかに、蔵書全体を一望のもとに見渡すことができる場合、この問いには意味がある。たとえば、1つの部屋の1つまたは複数の壁に固定された書架に蔵書が収まる程度であるなら、たとえばテーマ別、使用頻度別、著者名のアルファベット順、あるいは、背表紙の色ごとなど、自由な並べ方が可能であり、実際、それによって、蔵書が機能するであろう。

 しかし、本の分類整理は、あくまでも、すべての蔵書を一度に視界に収めることができる場合にのみ意味を持つ。蔵書が1つの空間内に固定された書架には収まらず、したがって、蔵書を一望することができない場合、本を分類整理しても無駄である。少なくとも、分類整理のためにおびただしいエネルギーが必要となり、分類整理のためのエネルギーは、蔵書の活用から生まれる効用を上回ってしまうはずである。蔵書が複数の空間に分かれているなら、本を「正しく」並べる手間をかける余裕があるかどうか、自分に尋ねてみる方がよいであろう。

 たとえば、図書館のように内容に従って本を分類して排列する場合を考えてみる。個人の蔵書は、図書館の蔵書とは異なり、原則として、所有者自身の必要にもとづいて集められた本からなっているはずである。したがって、すべての本は、所有者にとって使う可能性がある。ところが、蔵書を保管する書架が複数の空間にあり、しかも、本が内容別に分類、配列されているときには、どうしても、「使う本が別の部屋にあり、取りに行かねばならない」という事態を避けられない。そのため、本を取りに行くため、あるいは、本を戻すために席を立つことが面倒くさくなり、時間の経過とともに、本の配列が乱れることになる。配列方法が違っても、事情は基本的に同じである。複数の本を同時に並行して使用することがなく、書架からの本の出し入れの頻度が低い――つねに「何もないテーブルの上に本が1冊だけ」という状態――読書スタイルならばともかく、一般に本の分類製整理は維持に手間がかかるものであり、放っておけばエントロピーが増大する傾向にあるという事実は、つねに考慮すべきであるように思われる。

一度書架に収めたら、本の位置は大きく変えない方がよい

 蔵書が1つの空間に収まらなくなるとともに、蔵書の分類整理、および分類整理された状態の維持にかかる手間は飛躍的に増える。私の場合、蔵書は、自室ともう1つの部屋の合計2つの部屋におよそ20%対80%の割合で分かれている。したがって、もう1つの部屋の方にある80%については、分類整理を諦めている。

 ただ、これら自室の外にある本については、書架に収める際、棚の1つひとつに番号([1][2][3][4][5]……)を振り、本をブクログに登録する――私は、蔵書の管理にブクログを使っている――とき、本が収まる棚の番号を「タグ」欄に記入しておく。ブクログを見ることで、どの本がどこにあるか、ただちにわかるようになっている。自室の書架の棚には番号を振らず、自室にある本には[0]というタグを一律につける。よほど広い部屋でないかぎり、見渡すことで、目指す本がどこにあるかすぐにわかるからである。

 ただ、別の部屋にある本を自室に持って来たら、ブクログを開いて「タグ」欄に記入された棚番号を[0]に変更する作業は必要であり、逆もまた同様である。そして、このような作業をしばらく繰り返していると、やがて、本を移動させる機会は減る。(面倒くさいからである。)最終的に、使用頻度の高い本が手もとに自然に集まり、あまり使わない本は別の部屋の書架に収まることで、本を運ぶ手間は少なくなって行くはずである。

 なお、自室にある本は、場所を頻繁に変更しても大した問題は起こらないが、別の空間にある書架に収められた本は、よほどの必要がないかぎり、位置を大きく変えない方がよいと私は考えている。というのも、本の位置を書架の中の位置や背表紙の配列で記憶していることが多いからである。「あの本はたしか『七つの習慣』と『サテュリコン』のあいだにあったはずだ」「あの写真集は、あの書架の下の方から飛び出していたはずだ」などの空間的な記憶は、本を素早く見つける手がかりとなる。

 とはいえ、次のことには注意が必要である。すなわち、見渡すことのできる範囲にない蔵書の分類整理はせず、本が収められている棚の番号のみを記録しておくこと、そして、これらの本については、できるかぎり位置を変えないこと、このような点に注意して蔵書を管理しても、書架の眺めは決して美しくならない。「美しい書架」を作ることを最優先にするのなら、「維持がラクである」とか「使いやすい」とか、このような実際的な観点は度外視し、美しい本を美しく並べる手間を惜しんではいけないのであろう。


Donald Trump supporter

孤独は「さびしさ」を感じさせるから嫌われる

 以前、ある知人と話していたとき、「天涯孤独」という言葉を耳にすることがあった。彼は、ながく同居していた病気の母親を看護し、そして亡くしたのだが、兄弟もなく、また、親しく往来していた親類もおらず、本人にも家族はいなかった。そこで、母親が亡くなったとき、「天涯孤独」であることを実感したというのである。

 たしかに、母親の病が篤くなってからは、自宅では在宅医療の関係者、病院では医師や看護師がつねに身近におり、また、母親が亡くなって葬儀が行われたときには、遠い親戚や知り合いがそれなりにたくさん参列してくれた。しかし、葬儀が終わった途端、それまで周囲にいた人々は一斉に姿を消し、ただひとり取り残された。そして、火葬場から骨壺を抱えて一人で自宅に戻ったとき、「ああ、これからはずっとひとりなんだな」と感じたというのである。もちろん、それまでも、誰もいない自宅に戻ることは珍しくはなかったけれども、これからは、「ずっとひとり」であることを強く感じ、「さびしさ」を覚えたそうである。

 人生には、孤独を感じる機会が少なくない。田山花袋は、次のように語っている。

人間元来一人で生まれて一人で死んでいくのである。大勢の中に混じっていたからって孤独になるのは、わかりきったことだ。

 しかし、この有名な言葉を俟つまでもなく、友人や家族と一緒にいても孤独を感じることは避けられない。もちろん、「孤独」という言葉が使われるときに物理的に孤立した状態が想定されているなら、この意味における孤独は、決して悪いことではない。というのも、この場合の孤独は――独房に入れられているというような特殊な場合を除けば――何らかの自由を含むものだからである。いや、ただひとりで狭い空間に押し込められているときですら、私たちの心は、自由でありうる。(自由で「ありうる」と言ったのは、現実には、孤立した状況に打ちひしがれて自由を失うこともありうるからである。)

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 しかしながら、私たちの多くが抜け出したいと思う孤独とは、単なる物理的な孤立ではなく、むしろ、「さびしさ」を覚えるような状況のことである。孤独が問題であるのは、それが「さびしさ」を感じさせるかぎりにおいてであることになる。自分のことを周囲から理解してもらえないとき、連絡をとることのできる相手が周囲にいないとき、私たちはさびしさに襲われる。私など、秋の休日の夕方、日が暮れる少し前、ひとりで近所を散歩しているとき、来し方と行く末を考え、心細さで心が一杯になることがある。

あえて孤独を選ぶ

 問題は、孤独な状態を脱することではなく、「さびしさ」から解放されることである。そして、「さびしさ」から解放されるためには、自足すること、つまり、自分自身を全面的に信頼しうるようになること以外に道はない。(他人との「つながり」を求めれば、かえって「さびしさ」は増幅する。)そして、自分自身を全面的に信頼するためには、自分の「使命」を自分で見出すことが必要である。「自分で」と言ったのは、次のような事情があるからである。

 「さびしさ」を感じるとき、私たちは、他人にすがりたくなる。そして、他人の強い要求や勧めを実行することが自分の存在理由を明らかにしてくれるという幻想を抱きがちである。ナチズムが強固な支持者を獲得したのも、また、現在アメリカで進行中の大統領選挙においてドナルド・トランプが狂信的な支持者を産み出したのも――遠くから眺めている私たちには理解しがたいことであるけれども――おそらく、ヒトラーやトランプの言動が、大衆の一人ひとりの自信の根本的な欠如と共鳴したからであるに違いない。

 トランプが現在のアメリカにおいて異常な支持を集めているのは、白人の地位低下、格差の広がり、産業の空洞化などが原因であると普通には言われている。しかし、現実には、このような表面的な事柄に目を向け、これらを問題として受け止め、そして、ある特定の態度をとるよう求める声に大衆が耳を傾けたのは、この声に従い大衆運動に身を投じることが自分の存在を正当化してくれるかのような錯覚を心に産み出す素地、つまり、自信の欠如と「さびしさ」が各人のうちにあらかじめ用意されていたからであると考えるのが自然である。(決して逆ではない。)サッカーの熱狂的なサポーター(フーリガン)の行動についても、事情は同じである。

 自分自身を全面的に信頼することができるようになるためには、群れから身を引き、最低限の孤独を確保することが絶対に必要である。人は孤独だからさびしいのではない。孤独になりえないからさびしさを覚えるのである。


Tesco Schools and Clubs vouchers 2011

 昨日、次のような記事を見つけた。

高校成績「4」以上→月3万円 給付型奨学金の自民案:朝日新聞デジタル

 現在の日本では、大学生を対象とする奨学金のほぼすべてが貸与型、つまり、返済を必要とするタイプの奨学金である。これに対し、外国、特に他の先進国では、奨学金というのは、基本的に給付型であると言われている。日本と同じように、外国でも、奨学金の多くは貸与型であるけれども、日本で「貸与型」と呼ばれている奨学金は、外国では「奨学金」ではなく「学費ローン」と呼ばれている。「外国では奨学金はすべて給付型」という誤った情報が流通しているのは、そのためである。

 ところで、「評定平均が4以上であることを条件に月3万円」という方針は、支給の基準の点でも、支給額の点でも、いくらか問題があるように思われる。

金額は十分だが、支給は現金ではなくバウチャーで行うべき

 まず、支給額について言うなら、月に3万円というのは、「奨学金」が学業を支援するためのものであり、生活費ではないということを考慮するなら、十分すぎるほどである。実際、授業料を除く学業に直接関連する支出が年に36万円を超える大学生というのは、日本の場合には決して多くはないはずである。だから、「3万円分を稼ぐために必要なアルバイトを減らして、その分、勉強に時間を使って下さい」という趣旨は、それ自体としては何らおかしなことではない。

 ただし、月額3万円を支給する場合には、これを現金ではなく教育バウチャー(school voucher) としなければならない。つまり、学業目的に限定されたクーポンを配布し、これによって学生自身がサービスや現物を購入することで学業の経済的負担を軽減するシステムとすべきなのである。(学費と生活費を峻別し、奨学金を学費としてしか使えないようにするということである。)年に36万円の学費をバウチャーとして支給しても、(授業料の支払いにバウチャーが使えなければ、)これを全額使いきることのできる学生は一部にとどまるはずである。

 3万円という金額は、学業のための支出としては――特に学部生にとっては――決して少額ではないが、学生1人の1ヶ月の支出と比較するなら、もちろん、決して高額ではない。現金で支給すると、生活費と区別がつかなくなり、「ありがたみが減る」ということがあるに違いない。

希望者全員にセンター試験(またはこれに代わる試験)を受験けさせ、その成績によって受給者を決めるべき

 さらに、支給の基準について言うなら、これには3つの問題点がある。

 第一に、誰が考えてもすぐにわかるように、「評定平均が4以上」であることは、本人の成績がすぐれていることをいささかも保証しない。なぜなら、成績評価の基準は学校によってまちまちだからである。異なる学校に在籍する同じ「評定平均」の生徒を比較するなら、その学力がまったく異なることはただちに明らかになるであろう。

 第二に、評定平均というのは、本人の学力を単純に反映するものではなく、本人が教師に与える印象に大きく左右されるものであり、学力の指標にはなりえないものである。(だから、推薦等の特殊な入試を除き、大学入試では、合否の決定にあたり、高校での成績は一切考慮されないのが普通である。)何としても奨学金の給付を受けたい、あるいは、(奨学金の趣旨にはいちじるしく反することであるが、)奨学金がないと生活できないという事情を訴える生徒について成績が操作される惧れは十分にあり、反対に、教師に与える印象がよくない生徒は、評定平均に悪影響が及び、奨学金が受給できない可能性がゼロではない。このような恣意的な操作によって、すでに指標としての信頼性がない評定平均の信用がさらに損なわれる危険は十分にあると私は考えている。

 そして、第三に、大学に入学する者の中には、「評定平均」という数字を持たない者がいることを忘れてはならない。たとえば、生活上のさまざまな事情によって高校を卒業せず、「高卒認定」に合格して大学に入学してきた者には、受検した各科目の得点が記された成績証明書を提出することができるだけであり、そこには、「評定平均」などという数値は記されていない。自民党が構想する奨学金が1年のうちどの時点で受給者を決定するのかわからないが、入学前に確定するなら、これは、「高校出身者優遇」という一種の不公平を生むことになるはずである。

 全国の大学はほぼすべて、「AO入試」「自己推薦入試」などの名で呼ばれる特別な入試を何らかの仕方で実施している。これは、高等学校からの推薦や内申書がなくても出願することができるタイプの入試である。しかし、実際には、このような入試の多くは、高卒認定の合格者に受験資格を与えていない。(受験資格に「高卒認定」を含めていない大学もあれば、出願の際に「課外活動での実績」を報告するよう求めることで高卒認定の合格者を事実上排除している場合もある。)給付型奨学金については、高校を卒業しなかった者たちが不利益を被ることのないよう配慮すべきである。そして、そのためには、たとえば、奨学金の受給を希望する者全員にセンター試験(またはこれに代わる試験)を受験させ、その成績を受給者の決定の唯一の基準とするのがふさわしいように思われるのである。

 給付型奨学金は、国税を財源とするものであるから、外国人には原則として給付すべきではない。また、費用対効果(学業を終えたあと、どの程度の富を社会に還元するかという点)を考慮するなら、受給者の決定において学力を基準とすることは必要である。(奨学金の目的は生活の補助ではなく学業の支援にある以上、これは当然である。)しかし、「評定平均が4以上」という雑な基準に従って現金をバラまくことは、税金の単純な無駄遣いと瞬間的な人気とり以外の何ものにもならないように私には思われるのである。

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