AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年10月

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生活の質を維持するには、蔵書のダウンサイジングは必須である

 どのくらいの量の蔵書があるのか、正確に数えたことはないが、本棚の大きさを手がかりに計算すると、家にある「私専用の本」だけで、5000冊くらいにはなると思う。以前、岡崎武志氏の『蔵書の苦しみ』を読んで、本をたくさん持つ者のつらさに共感を覚えた。

蔵書の苦しみ (光文社新書) | 岡崎 武志 | 本 | Amazon.co.jp

 本は、場所を占領するばかりではない。本の重量もまた、私たちの生活を苦しめる。今は鉄筋コンクリート造の建物に住んでいるから大丈夫であるけれども、木造の一戸建てで暮らしていたときには、本の重みで床が抜けたことがある。

 蔵書が原因の生活の質の低下を避けるためには、何らかの意味における「整理」を避けることができない。しかし、蔵書は、放っておけば際限なく増える。そして、アマゾン、大型書店、古書店、さらに、美術館や博物館の売店……、本を買うことへの誘惑に抵抗することが不可能であるなら、購入する以上のスピードで本を減らす以外に道はない。単なる書類とは異なり、本の場合、「必要/不要」の境界を明確にすることは容易ではなく、したがって、「不要な本を処分する」を作業の原則とするとしても、何が「不要な本」であるのか、決められないことが少なくない。さしあたり読む予定がなくても、「いつか必要になるかも」「一度手放したらもう2度と買えないかも」などと考え始めると、すべてが「必要な本」に見えてくる。実際、本を手放し、その直後に後悔したことは、これまで何度もある。

本を減らす場合の大原則:新しくて安い本から処分する

 私自身、蔵書整理の達人というわけではなく、長期的には、蔵書は増える傾向にある。それでも、この何年かは、増加のスピードがかなり緩やかになってきたことは事実である。本をこまめに処分するようになったからである。これまで本を1冊も手放さなかったら、蔵書は1万冊を超えていたと思う。

 蔵書を減らす方法は、きわめて単純である。すなわち、ブックオフに持参するのである。毎週1回、15冊ずつ本を選び、これをブックオフに持って行く。この作業を1年間繰り返し、蔵書を約750冊分小さくした。その際に原則としたのが、発行年月日が新しく、しかも、価格の安いものを優先的に処分することである。なぜなら、刊行されたばかりであり、価格が安いなら、万が一ふたたび必要になっても、同じものを入手することが容易だからであり、処分することへの抵抗感が小さいからである。また、蔵書整理に勢いが生まれると、抵抗感はさらに小さくなる。これに対し、刊行されてからある程度以上の年月が経過している場合、あるいは、何千円もする場合、処分は先送りするのが賢明である。

 もちろん、新しくて安い本でも、発行部数が少なく、ふたたび出会う可能性が低いものがないわけではないから、書名を確認せず機械的に処分するわけには行かない。私の場合、所蔵する沖縄関連本は、新しくて安いものであっても、さしあたり手もとに残すことにしている。特に、沖縄の書肆で刊行されたものは、今まで手放したことがない。「ひるぎ社」の「おきなわ文庫」を始め、沖縄まで行かないと入手できないものが少なくないからである。

 なお、私は、蔵書の整理にブクログを使っている。ブクログに本を登録し、発行年月日の新しい順にアイテムをソートし、上から順に処分を検討するのである。今のところ使う予定がなく、また、「必要になったら、そのときに手に入れればいいや」と思えるものなら、大抵の場合、処分しても大丈夫である。


Russell Baze at Golden Gate Fields

 現代は、若さが異常に高く評価される時代である。若くないことに積極的な価値が認められることはなく、年齢を重ねることは、単なる若さの喪失であり、「老化」にすぎぬものと捉えられることが少なくない。「アンチエイジング」なるものに狂奔する女性が多いのは、そのせいなのであろう。

 しかし、年齢にふさわしい外観を拒絶し、「アンチエイジング」にいそしむ姿は、年齢相応の経験の積み重ねを怠ってきたこと、内面が空虚であることの宣言と同じである。内面が本当に虚ろであるかどうかには関係なく、少なくとも「アンチエイジング」などには無関心であるかのようにふるまうのが賢明であるように思われる。

 実際、しばらく前、次のような出来事があった。

アンチエイジング大嫌い 小泉今日子ら、姐さん達の「ありのまま」がかっこいい - NAVER まとめ

 女性誌やネットに散見する「アンチエイジングって言葉が、大嫌い」という発言に対する反応の中には、これを真に受けないようにアドバイスするもの、あるいは、この発言の「真意」を解説するものが多かった。私は、そこに、見苦しさと痛々しさを感じた。「アンチエイジングは自分の最優先の課題だ、小泉今日子が何を喋ろうと関係がない」と言いきる度胸も信念も持つことができないままアンチエイジングを必要とする年齢になってしまった人間が珍しくないことが露呈したからである。

 しかし、もちろん、年齢を重ねること、若くなくなることには、大きな利点がある。それは、若いころの体験や経験を冷静に振り返ることが可能になる点である。私は、10年前、20年前、30年前とくらべて、いくらか高いところに登ってきたことを実感し、広い視野でものを考えることができるようになった。周囲を眺める余裕もなくひたすら前に向かって追い立てられるように生活していたころには気づかなかったことが、この年齢になってようやく視界に入ってきたのである。

 それとともに、年齢を重ねてからそれなりに賢くなるためには、やはり、若いころからのそれなりの心がけが必要であったこともまた、何となくわかってきた。私自身は、これまでの人生の中で時間をずいぶん無駄にしてきたけれども、それでも、若いころを振り返り、「ああ、あのときああいう勉強/経験をしておいてよかった」と感じる機会が少なくない。

 若いころの勉強や経験こそ、年齢を重ねてからの豊かな生活を実現するためのもっとも効果ある投資であり、これが本当の意味における「アンチエイジング」の手段でなければならないはずである。内面が虚ろなまま馬齢を重ね、そして――この事実を直視することができないからなのか――若返りのための美容や化粧に狂奔するというのは、何とも哀しいことのように私には思われるのである。


9-18 sunset Tokyo

 今から何年か前、次の動画を見た。

Neil Pasricha: ニール・パスリチャ:「Awsome(最高)」の3つの要素

 日常の何気ない「最高」なことを記録する意を語るこの動画は、TEDで行われてきたスピーチの中でも特に有名なものの1つであり、観たことのある人は少なくないであろう。(NHKでも放映されたらしいが、私は観ていない。)なお、”awesome”は、「畏敬の念を起こさせる」という意味の形容詞であり、会話では、日本語の「すごい」「素敵」などに対応する表現として頻繁に使われている。この動画で想定されているのは、後者の用法である。

 もちろん、動画で言及されているブログ1000 Awesome Thingsもある。

1000 Awesome Things - A time-ticking countdown of 1000 awesome things by Neil Pasricha

 どのような人間の生活にも、1日に1つくらいは小さな”awesome”があり、それに気づくことにより幸せを感じることができるのは確かである。たとえば、私は、昨晩遅く寝る前に作り、一晩寝かせたカチャトーレ(cacciatore=イタリア風の鶏肉のトマト煮込み)を、今朝、起き抜けに味見し、味がしっかり決まっていることを確認した。しばらく前に作ったときには、気が抜けたような味になり、手直しが大変だっただけに、これは、今日の私にとっては、間違いなく1つの”awesome thing”である。

 とはいえ、人間の行動は、万事が上手く行くことを前提とするものであるから、適切に、何の問題もなく、期待どおりにすべてが推移して行くことは、私たちの注意を惹かない。小さな”awesome”は、一瞬で忘れられる運命を免れないのである。私たちの注意を惹き、私たちの記憶に遺るのは、失敗したもの、故障したもの、停滞しているものである。だから、放っておくと、私たちの記憶は、上手く行かなかったこと、不快なことで一杯になってしまう。

 ”awesome”を記録するとは、事実ではなく、気分や感情を記録することである。しかも、できるかぎり時間を措かずに記録しなければならない。私たちは、自分の体験を前後の事実、似たような事実と関連づけることで周囲の世界に秩序を与え、合理的な行動を可能にする。しかし、小さな”awesome”は、放っておくと、時間の経過とともに他の事実と関連づけられ、整理されてその輝きを失い、個性のない平凡な事実になってしまう。1つひとつの小さな体験を、単なる実用や必要から切り離し、それ自体として受け止める態度は、”awesome”を体験しこれを記録するための前提なのであり、”awesome”を見つけたら、その場でこれを記録しなければならないのである。


Le Creuset

 独り暮らしの食生活は、あまり健康的ではないのが普通である。スーパーマーケットで売られている生鮮食品、特に野菜の最小単位は、独り暮らしを想定した分量ではない。また、在宅している時間が短いと、帰宅後には、料理する気力など残されてないかも知れない。脂質や糖質が多すぎる食事が続いたり、あるいは、そもそも食事――特に朝食――を抜いたりすることになるのは、独り暮らし生活の実態を考えるなら、やむをえないことであると言うことができる。

 しかし、それなりの時間と体力を使って健康的な食事を続けることを決心しても、実現するのは簡単ではない。

 まず、上に述べたように、スーパーマーケットで買ったものをすべて使いきることが難しい。さらに、時間と体力と気力を捻出するのにも工夫が必要である。普通のサラリーマンの場合、休日、早朝、夜間など、貴重なオフの時間を料理のために使わなければならないはずである。料理が好きならば話は別であろうが、健康を維持するためだけに自炊することは、苦痛ばかりが大きいように見える。(なお、栄養の計算は面倒であるように見えるけれども、実際には、料理のたびにネットで検索する作業を1ヶ月くらい続けると、材料を見ただけで大雑把なカロリーがわかり、脂質、タンパク質、糖質のうち、どれが過剰であり、どれが不足しているかも、大体わかるようになる。)

 しかし、独り暮らしであるにもかかわらず健康に配慮した食生活を続けようとする者が何よりも警戒しなければならないのは、料理の「餌化」の問題であると私は考えている。「餌化」とは、文字通り、餌になってしまうという意味である。

 料理に使う時間と体力と時間を最大限まで節約しながら、食品を廃棄せずに使いきる、この2つを一度に実現させる方法がある。それは、全部をまとめて煮ることである。具体的には、「鍋」または「カレー」としてまとめて調理してしまうことである。栄養学的に好ましいと考えられている量と種類の野菜や肉をすべて鍋に放り込み、煮込んで味つけするのであるから、「作り方」を覚える必要はない。これほど簡単な料理は他には考えられないのである。

 私は、大量の野菜を使って巨大な鍋一杯のカレーを作り、小分けにして冷凍庫で保存して3週間にわたって食べ続けたことがある。また、秋から冬にスーパーマーケットに並ぶ「鍋の素」を大量に買い込み、味を変えながら1ヶ月くらい毎日一人分の鍋を作って食べ続けたこともある。たしかに、野菜の嵩は、煮込むことで減るから、必要十分以上の量の野菜を簡単にとることが可能となる。どうしようもなく飽きることを度外視するなら、鍋とカレーは自炊する者にとって理想の料理であるように見える。

 ただ、少し冷静に考えてみると、毎日の食事が鍋とカレーばかりであると、次のような状態になる。すなわち、副菜を別に用意しないかぎり、1回の食事で口にするものは、すべて同じ味つけになる。また、副菜がなければ、1回の食事で目の前に置かれる器は、基本的に1つである。さすがに私自身は、鍋(調理器具)から直接に食べることはしなかったけれども、調理した鍋料理を鍋(調理器具)からそのまま食べることは可能であり、この場合、食器は不要になる。しかし、これは、箸やフォークを使うことを除けば、犬がドッグフードを食べたり、ネコがキャットフードを食べたりするのと構造としては同じであり、「食事する」というよりも、「餌にありつく」と表現するのがふさわしい行動である。(ひとりで鍋を食べているところを鏡に映すと、犬やネコにそっくりであることがよくわかってげんなりする。)

 素材となる食品を鍋やカレーにまとめることは、独り暮らしが食生活の健康を維持するためには有効であるけれども、放っておくと、料理はかぎなく「餌」に近づく。この「餌化」を避けるためには、「一汁三菜」などと表現される食事の構成を鉄の意志で堅持する覚悟が必要である。しかし、これは、ただでさえ残り少なくなった気力や時間や体力を独り暮らしの人間からさらに奪うことになるに違いない。


Koenji

 最近、都市としての東京の現状について、西よりも東の方が発展しており、東京の未来を映すのは東京の東の方、特に隅田川よりも東であるというような見解をときどき見かける。たとえば、私は、次の本でこれを見た。


東京どこに住む? 住所格差と人生格差 (朝日新書) : 速水健朗 : 本 : Amazon

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 この本の著者の速水健朗氏は、基本的に「東京の未来は東から」(?)派であり、次の本でも、同じ観点が前提となっている。

東京β: 更新され続ける都市の物語 (単行本) | 速水 健朗 |本 | 通販 | Amazon

 たしかに、この20年くらいのあいだに範囲を限るなら、東京全体のうち、変化が目立つのは東の方であり、また、観光客を集めるようなスポットも東の方に多い。しかし、このようなことが事実だからと言って、「これからの東京は東の方だ」という結論を導き出すことに、私は違和感を覚える。というのも、都市の発展の場合、人口が流入し、変化が活発に起こり、この変化が要請する新しいライフスタイルに合わせ(再開発に代表される)大規模なアップデートが進行しつつあるエリアがあるとしても、

    1. このようなエリアがその都市の「都市としての中心」となることを意味するわけではなく、また、
    2. このようなエリアにおいて認められる変化ないし発展がこのエリアを含む都市全体の変化ないし発展の方向を指し示しているわけでもない

からである。これは、東京23区の西の方で生まれ、東京23区の西の方で育ち、そして、現在でも東京23区の西の方に住み、40年以上にわたってこのエリアの空気を読んできた人間の実感でもある。成長、変化が活発なエリアが私たちの注意を惹くことは事実である。しかし、都市の都市らしさというのは、この大規模なアップデートが一段落したところから「成熟」という仕方で見えるようになるはずのものである。この意味において、東京の西の方、具体的には新宿区、中野区、杉並区、世田谷区、練馬区、そして、武蔵野市と三鷹市……、戦後に(基本的には住宅地として)大規模な開発が進行したこのエリアは、ようやく、単なる「巨大な村」の状態を脱し、本来の意味における都市へと変化し始めたのではないかと私は考えている。(もちろん、この範囲のすべてが成熟した都市になるわけではない。単なる貧寒な郊外へと転落する部分は少なくはないであろう。)

 都市が今この瞬間のライフスタイルに合わせてアップデートされて行くと、そこには、さしあたり、時間的な移ろいも歴史の積み重ねも認められないのっぺらぼうの街が出来上がる。おろしたてのバスタオルにシワもシミもほころびもほつれも認めることができないようなものである。しかし、大規模な開発または再開発が終わると、この街は、時間の経過とともに、住人の変化に合わせて小規模な手直しが繰り返し行われる。シワ、シミ、ほころび、ほつれがバスタオルを少しずつボロにして行き、さらに、必要に応じて試みられたつくろいの跡も目立つようになるのと同じである。その街には、本格的な歴史的建造物などないかも知れないが、しかし、その都度の必要に応じて、手持ちのリソースを使い回して住人の生活の必要に応える努力のあと、あるいは、環境になじむための住人の努力の跡があちこちに認められるようになる。たしかに、このような無数に繰り返されたミクロのレベルの手直しの積み重ねは、そのエリアに対し「中途半端に古ぼけた」雰囲気を与える。たとえば、西荻窪や浜田山は、そのような街の典型である。けれども、都市の都市たる所以は、若木のように力強く成長して行く姿にあるのではなく、必要に応じてつくろわれながら使われ続けている古ぼけたタオルのような姿にある。つまり、住人と街のあいだにおいて適応を目指して試みられた相互作用の痕跡こそ、都市の成熟と進化の証なのである。

 残念ながら、少なくとも私の知る範囲では、隅田川の東側、特に、アップデートが進行中のエリアには、このような仕方で人間化された街というものはまだ誕生していない。現在、本当の意味において都市化が始まろうとしているのは、むしろ、東京の西の方であるように私には見えるのである。

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