AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年10月

warm happy feet

 私の自宅には、こたつもソファもない。今の自宅にないばかりではなく、これまでに住んだどの家にも、これら2つは最初からなかった。漫画『のだめカンタービレ』の登場人物の一人「千秋真一」の場合と同じである。(こたつとソファは、親類の家でも見たことがない。)こたつやソファがあればいいな、と思う状況がまったくないわけではないが、それでも、わざわざ買いたい気持ちになるほどではない。

 両方ともスペースをそれなりに占領するというのは、こたつともソファとも縁がなかった理由の1つではあるけれども、それ以上に重要なのは、次の点である。すなわち、こたつとソファのある生活というのは、何か自堕落な印象を与えるような気がしてならないのである。(もちろん、これは私の個人的な好みの問題であり、「こたつを買うな」「ソファを使うな」などと言いたいわけではない。)

 こたつとソファが自堕落な印象を与える理由は明らかである。椅子が上半身を垂直に維持する家具であり、ベッドが上半身を水平にして休息させる家具であるとするなら、こたつとベッドは、これら2つの極の中間に位置を占める。こたつに入っているときには、あるいは、ソファに身を沈めているときには、坐ったり、寝そべったり、どちらともつかない姿勢をとったりすることが可能である。

 身体を縦にするでもなく、横にするでもなく、しかも、望むならそのまま居眠りすることもできるような体勢を可能にする家具が身近にあると、怠け者の私は、時間の許すかぎりずっとソファに寝そべり、こたつにもぐり込んだまま時間を過ごすことになり、その結果、生産性と活動意欲がいちじるしく低下することになりかねない。身体を完全に横にして寝るか、身体を完全に縦にして起きているか、白黒をハッキリさせ、その中間――つまり「くつろぐ」姿勢をとること――を許さない厳しい環境を作り出すことで、生活の規律をかろうじて維持しているわけである。

 こたつとソファを追放すれば、空いたスペースが増え、生活に(必要かどうかはわからないが)一種の緊張感が生れることは確かである。また、ことによると、子どもがスマートフォンをいじる時間が短縮され、その分、屋外での活動や勉強の時間が増えるかも知れない。また、テレビをダラダラと見続けることも少なくなるはずである。

 ただ、冬の寒い日には、私でも、こたつがうらやましく感じられることがないわけではない。そのようなときにはどうするか。猛烈に辛いものを食べて汗をかいてから、布団にもぐり込んで寝てしまうことにしている。


depression

 秋、特に10月と11月は、私のもっとも嫌いな季節である。秋が嫌いな理由はいくつもあるけれども、そのもっとも大きなものの1つは、間違いなく健康診断である。

 私の場合、今のところ、BMIは標準であり、「メタボ」と見なされる恐れはない。また、酒ともタバコとも縁がない生活を送っている。血液検査の数値に深刻な異常が出たこともない。それでも、健康診断がたまらなく嫌であり、健康診断が終わるまで毎日、何度も健康診断のことを考え、そのたびに憂鬱になる。それなりに忙しい時期であるにもかかわらず、集中力と生産性は非常に低くなる。

 ネットで調べると、健康診断が嫌いであることを公言する人が少なくないことがわかる。しかし、その理由は必ずしも同じではない。バリウムを飲むのが嫌である(ただ、胃部X線検査は労働安全衛生法に定められた必須の項目ではなく、したがって、検査は拒否できる)とか、血液検査で針を刺されるのが嫌であるとか、色々な理由が記されている。健康診断がそれ自体として精神衛生上有害な影響を生活に与えているのである。

 私の場合、なぜ健康診断ごときでこれほど憂鬱になるのか。おそらく、場所の雰囲気に耐えられないからであると思う。よく知らない人たちと一緒に列を作り、特に何を話すわけでもなく、閉じた空間を何十分か回遊するのが嫌なのである。少なくとも私の職場では、よく知らない者たちが人口密度の高い同じ一つの空間を共有するという状況が出現することはない。(もちろん、会議のときには、会議室の人口密度は高くなるけれども、普通は、全員が顔見知りである。)検査する側の看護師や医師からは、「やる気」も人間味も感じられず、受診する側は、工場のベルトコンベアを流れてくるモノのように扱われる。今の職場では、尿検査のときの採尿には便所が使われるが、以前の職場では、健康診断が実施される部屋の中――つまり便所の外(!)――に便器が1つ設置され、そこで採尿することになっていた。

 私など、屠殺されるために引きずられて行く牛になったような気分で、虚ろな目をして列に並ぶ。今年も、あと2日で、もっとも嫌いな年中行事がやってくる……。


Homeless in rain

 私たちは誰でも、ユーモアが人生の重要な要素であると考えている。もう少し正確に表現するなら、自分の言動がユーモアを帯びることに対し多くの人は価値を認めるとともに、他人の言葉やふるまいのうちに何らかのユーモアが現われることを歓迎する。現実の生活において「ユーモアのある人」あるいは「ユーモアがわかる人」が嫌われる可能性が低いことは確かである。

 ただ、ユーモアというものが伝えることの非常に難しいものであることもまた事実である。私が自分の言葉やふるまいにはユーモアがあると信じているとしても、このユーモアがユーモアとして他人に理解されなければ、それは、もはやユーモアではなく、コミュニケーションを阻碍するノイズにすぎない。実際、ユーモアは、ユーモアとして受け容れられる場合よりも、ノイズと見なされる場合の方がはるかに多いように思われる。だから、私たちになじみがあるのは、ユーモアが「通じる」ことによる心地よさよりも、ユーモアが「通じない」ことによる失望の方である。

 自分がユーモアであると思っているものが他人に受け容れられないことが多いとするなら、そのもっとも大きな原因は、ユーモアの多様性に求められねばならない。

 私たちは、相手のユーモアを理解することにより、実際的な必要を超えるある肯定的な関心を相手について抱く。相手のユーモアがわかるということは、相手に肯定的な仕方で関心を寄せていることの証拠であると言うこともできる。

 しかし、たとえば落語家が寄席に集まる聴衆のあいだに惹き起こす「笑い」には普遍妥当的な認識の表現としての側面がある――だから、何百人、何千人を同時に笑わせることができる――のに対し、ユーモアには、このような力はなく、コンサマトリーな会話においてオーラとして感知されるものにすぎない。ユーモアのうちに私たちが見出すのは、相手の「人柄」や「個性」のようなものにすぎないのが普通である。

 ユーモアが人柄や個性の表現にすぎないとするなら、そのタイプはかぎりなく多様であると考えざるをえない。あなたが自分の発言やふるまいにユーモアを込めても、これが相手に「通じる」ことなど期待しない方がよい。同じように、あなたもまた、相手が放つユーモアをノイズとして無視している可能性が高いが、だからと言って、あなたが「つまらない人間」であるわけではないし、相手が「ユーモアを解さない田舎者」であるわけでもない。あなたにはあなたのユーモアがあり、相手には相手のユーモアがあり、しかし、大抵の場合、両者が共鳴しないだけのことである。両者のユーモアが共鳴するのは、両者の生年月日が一致するよりも稀なことであるに違いない。

 だから、たがいのユーモアが通じる相手というのは非常に貴重であり、このような相手との出会いは、稀な幸運と見されるべきものであるように思われるのである。


Man And Woman On A Bench

「男女共同参画」の両義性

 もう何年も前から、「男女共同参画社会」という言葉を繰り返し目にするようになった。内閣府男女共同参画局のウェブサイトには、次のような説明が掲げられている。

男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」です。(男女共同参画社会基本法第2条)

 単なる言葉の言い換えのようにしか見えないこの説明は、しかし、「男女共同参画」に認められている価値の両義的な性格の表現としては大変に価値がある。すなわち、

  1. 「男女共同参画」には、一方において、男女の平等という目標が設定され、
  2. 他方において、「男女共同参画」により、社会全体の利益が促進されると普通には考えられている

ようである。これら2つの側面のうち、たとえば「選択的夫婦別姓」は前者の目標のための施策に当たり、「クォータ制」は後者を実現するための手段に当たる。すべての男女一人ひとりの福祉と社会全体の利益には、たがいに重なる部分が少なくない。(だから、今のところ、両者は明瞭に区別されてはいない。)けれども、両者は完全に一致しているわけではなく、男女一人ひとりの幸福の追求が社会全体の利益を損ねる可能性があり、また、反対の場合も同じように想定することができる。

 したがって、形式的に考えるなら、「男女共同参画」にはそれ自体としての価値があるのか、あるいは、「男女共同参画」が社会全体の利益を実現するための手段であるのか、二者択一を求められる場合があるはずである。両者の調和は必然ではないのである。

「手段としての男女共同参画」――クォータ制の導入に賛成

 功利主義の観点から見るなら、男女共同参画は、社会全体の利益を促進する有効な手段の1つであると言うことができる。男女の能力が全体として同等であるなら、男性のみからなる1000人の集団から調達された800人分の人的リソース(上位8割)よりも、男性と女性をあわせた2000人の集団から調達する800人分のリソース(上位4割)の方がはるかに質が高くなることは、誰が考えても明らかだからである。

 クォータ制――議会の議員、大企業の役員、官公庁の幹部などの一定数(普通は40%程度)を女性にする制度――は、社会全体の利益を促進すること、具体的には、国内の産業に競争力を与えたりGDPを増加させたりするのに有効であると考えられているものである。社会の広い範囲に影響を与える意思決定に女性が関与することが、女性の活躍の場を広げることに有効であることは確かである。
 だから、たしかに、これが男性に対する「逆差別」に当たる可能性があるとしても、何ら不思議ではない。男性に対する逆差別であるからクォータ制を導入すべきではないという主張は、「目的として男女共同参画」と「手段としての男女共同参画」の取り違えに由来する単純な誤解にすぎない。(同じような意味で、少なくとも短期的には、クォータ制が女性の幸福を促進する保証もない。)
 クォータ制は、前の段落で述べたように、1000人の男性から上位800人を採用する代わりに、2000人の男女から上位800人を採用する試みであるから、これまで採用されていた男性のうち、少なくとも400人は採用されなくなる。しかし、単純で機械的な労働に対する需要が長期的には減少する運命にあるなら、その分、高度に知的な労働にを担うことのできる人材が必要であり、形式的に考えるなら、無理やりにでもクォータ制を導入する方が、人材が適切に配置された社会が実現するはずである。


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 東京のうち、隅田川よりも東に住んでいる人々には実感がないかも知れないが、東京23区の西の端で生れ、今も東京23区の西の端で暮らす私などにとっては、隅田川の向こうは一種の「異界」である。隅田川を向こうに渡ると、「ああ、東京の東だなあ」という(地元の人々にはおそらく意味不明の)感想が思わず口から出るのである。私は、職場の近くに住んでいるから、東京の東の方に行く機会はあまりないが、数日前、所用があって清澄白河に行ったときには、その雰囲気にいくらか居心地の悪さを覚えた。

 東京の東のエリアには、特有の空気がある。この空気に慣れない私のような者は、いつもこれに圧しつぶされそうになる。いや、圧しつぶされるというのは正確ではないかも知れない。というのも、東京の西の方と比較すると、東の方が、空気はむしろ軽いはずだからである。

 私にとって、隅田川より東にあるのは、「ゴチャゴチャしていない街」「風通しがよすぎる街」である。整然と区画された街並み、直角に交差する広いまっすぐな道路が規則正しくどこまでも続く。これは、東京の西の方、特に新宿より西では滅多にお目にかからない光景である。このような街には、当然、「路地」というものが原則として見当たらない。路地があるとすれば、それは何かの偶然で区画整理の対象にならなかったからにすぎない。

 六本木、西荻窪、高円寺、下北沢、原宿、麻布、赤羽、さらに、東急線や西武線の沿線にある小さな街……、東京の西にあるこれらの街の個性を作るのは、表通りの街並みではなく、表通りからどこへとも知れぬ奥へと延びる曲がりくねった路地である。路地に作られた住宅や商店が時間の経過とともに少しずつ交替しながら、空間が「人間化」されてきたのである。

 これに対し、隅田川の東岸には、路地がほとんどなく、自然発生的に作られた雑然とした街並みがない。本当は、私の住む地域などとは比較にならない歴史を背負っているはずなのに、街を歩いていても、歴史の厚みやありがたさを感じ取ることができない。これが、隅田川の向こうの不思議なところである。

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23区格差 (中公新書ラクレ 542)

 最近、隅田川の東側の住宅地としての再評価が進んでいるようである。もちろん、路地は防災の敵であり、合理的に計画された都市の方が、少なくとも表面的には、快適に生活するための条件が整備されていると言えないことはないかも知れない。

 しかし、このような計画的に作られた街には、時間の経過にともなう「人間化」を受け容れる余地は、もはやあまり遺されてはいないように見える。清澄白河と言えば、倉庫のリノベーションが有名であるし、実際、古い倉庫や住宅の1階に、飲食店や雑貨屋が入り、ウッカリしていると見過ごしてしまうような小さな看板が出ているのをいくつも見かけたが、リノベーションは、街を「観光地化」するかも知れぬとしても、街を「人間化」するのにどのくらい有効であるのか、私は疑問に思っている。


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