AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年11月

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人間の舌は保守的

 人間は、年齢を重ねるとともに、味の許容範囲が広がり、おいしいと思える食べもののバラエティが増えて行くものだと私は信じていた。実際、子どものときにはとても食べられなかったような紫蘇やタラの芽を、大人になってからはそれなりにおいしく食べられるようになったし、酸味のあるものも口にできるようになった。ワサビやサンショウなどの香辛料の役割もわかってきた。

 しかし、それとともに、残念ながら、年齢を重ねるとともに、人間の舌は保守的にもなって行くようである。外出先で少しばかり洒落たカフェやレストランに入ると、そのことを強く実感する。素材はよく知っているものなのに、また、調理法も特に変わったものではないのに、味つけに使われている調味料になじみがないせいで、料理があまりおいしく感じられないことがあるからである。

 最近、ある飲食店で、ハンバーグを注文した。運ばれてきたハンバーグを1口食べたところ、ソースに相当な量のチリパウダーが使われていることに気づいた。チリパウダー味のハンバーグは、私がこれまで知らなかったものであり、いくらか驚き、かつ、がっかりした。ハンバーグを口にしてチリパウダーの味がするなど、私にとっては、ありうべからざることなのである。

 新しい味に出会い、これをおいしいと感じる経験がどのくらい普通のことなのか、私にはわからないが、少なくとも私の舌は、かなり度量が狭い。外食しても、3回のうち2回は「失敗した」という感じとともに飲食店を出ることになる。私の舌が保守的だからなのかも知れない。

食事の「お子様ランチ」化

 しばらく前、「料理本は男性の著者のものに限る」という意味のことを書いた。


料理本は男性の著者のものに限る  : アド・ホックな倫理学

料理本で料理を覚える 私は、料理本を20冊くらい所蔵している。処分してしまったものも含めると、あわせて50冊近く購入しているはずである。これが多いのが少ないのか、私にはよくわからないが、男性としては多い方なのではないかと勝手に考えている。私が料理を自分で作る



 私が男性の著者による料理本を好むのは、ことによると、味の冒険が少ないからであるのかも知れない。たしかに、男性の料理人のレシピとくらべると、女性の料理研究家のレシピは、全体として、味について冒険主義的である。奇想天外な味であり、おいしいのかまずいのか評価に苦しむ味であるがゆえに、結論としてはまずいと評価せざるをえないような味に出会うことが少なくないように思われるのである。

 年齢をさらに重ねると、私の舌はさらに保守的になり、私は、外食をまったくしなくなるか、あるいは、すでに知っている味の料理しか食べなくなり、最終的は、「お子様ランチ」のような料理しか舌が受けつけなくなるかも知れない。たとえばマクドナルドのハンバーガーやケンタッキー・フライド・チキンのように、おいしいかどうかはともかく、少なくとも繰り返し食べることによって慣れ親しんだ味なら、まずいものを口にする危険はかぎりなくゼロに近いはずだからである。

 自分の舌が成長するのか、それとも、先祖返りしてしまうのか、これは予想することができないけれども、30年後の自分の食生活を想像すると、決してにぎやかとは言えない食卓の光景が心に浮かぶことは確かである。


Retrospective Dining

 21世紀に入ってからもう16年になるが、この間、「昭和レトロ」、あるいはこれに似た表現を耳にする機会が増えた。「昭和レトロ」として再現されるのが具体的にどの時代であるのか、明確なことはわからないが、おそらく、それは、現在60代後半、つまり団塊の世代とその前後の人々にとっての「昭和」なのであろう。すなわち、昭和30年代末までに子ども時代を経験し、昭和40年代後半から50年代前半に社会に出た人々が懐かしく回顧する過去が「昭和レトロ」として生産され消費されている記号であると考えることができる。

 しかし、昭和というのは、足かけ64年間も続いたきわめてながい時代であり、生まれた年が数年違うだけで、「昭和像」はまったく異なるはずである。昭和という年号が使用されていた時代に共通のものというのは、決して多くはないように思われるのである。

 たとえば、昭和10年前後に生れた人々は、小学校高学年で敗戦を迎え、黒塗りの教科書を使った時代を経て、昭和20年代後半から昭和30年代前半の騒然とした雰囲気の中で社会に出て、高度経済成長期に働き盛りの時期を過ごし、そして、バブルの崩壊からしばらくして社会の第一線を退いたはずである。このような人々が思い描く昭和は、団塊の世代の考える「昭和レトロ」とは異なり、よく言えば過去の時代の延長上に位置を占める昭和であり、悪く言えば、キナくさい政治と戦争の時代としての昭和である。この世代にとって、「昭和レトロ」は、自分たちが詳しく知らない若者たちの昭和であるに違いない。

 これに対し、同じ昭和生まれとは言っても、平成になってからの人生の方が長い私のような者――オイルショックは小学校入学前の出来事である――の場合、ものごころがついたときにはすでに東京オリンピックは終わり、東海道新幹線が開通し、人類は月に到達していた。小学校のころに「およげ!たいやきくん」(日本でもっとも売り上げ枚数が多いシングルの記録を持つ)が大ヒットし、「スターウォーズ」が公開された。


 20歳前後で元号が昭和から平成になり、「平成1桁」の時代がほぼ20歳代と重なり、1990年代のいずれかの時期に社会に出たこの世代にとり、記憶にハッキリと残っている昭和というのは、昭和の最後の約10年間であり、その痕跡は、現在でも身の回りにいくらでもある。昭和は、「レトロ」と呼ばなければならないほど古びたものとは思われないのである。(実際、私が卒業した小学校の校舎は、私が通っていた時期に完成し、今もまだそのまま使われている。)

 もちろん、私よりもさらに下の世代から見ると、1980年代など、古色蒼然とした時代――スマホもパソコンもインターネットもなかった――にしか見えないかも知れない。だから、私が直接知る昭和が古くないなどと言うつもりはないし、また、あと20年くらい経つと、「平成1桁レトロ」などという名のもとに、バブル前後の風俗に光が当てられたりするのかも知れないが、あたかも団塊の世代とその前後が昭和生まれを代表するかのように語られることは、他の世代にとり少なからず迷惑であることは確かである。

 ところで、数日前、テレビを観ていたとき、Y!mobileのCMで次の歌の替え歌を耳にした。1983年のヒット曲である。私自身は、聴こうと思って聴いたことは一度もないけれども、当時、街中にこの曲が溢れ、嫌でも耳に飛び込んできたことは、今でもよく覚えている。(ただ、この曲を聴いても、心に浮かぶ感想は、「ああ、懐かしい」ではなく「ああ、あのころは辛かったなあ」である。私の性格が悪いのか、それとも……。)


commuters

 昨日、次の記事を見つけた。

【電車マナー】優先席めぐりお年寄りと座った男性が口論 動画が投稿され議論沸騰

 記事によれば、電車に設けられている優先席に坐っていた男性が、前に立っていた老人から席を譲るよう求められ、これを拒絶した様子が動画に記録され、アップロードされ、これが多種多様な反応を惹き起こしているようである。

 ただ、この出来事に何か複雑な内容が含まれているわけではない。

 記事が正しいとするなら、席を譲るよう求めた老人は威圧的であり、これに対し、老人の要求を拒否する男性は乱暴であった。だから、老人の態度がもう少し柔らかければ、男性は席を譲ったかも知れないが、これは、問題の本質ではない。

 まず、ガラス窓に貼られたステッカーによれば、優先席には、

    • 老人
    • 障碍者または怪我人/病人
    • 妊娠した女性
    • 乳幼児を連れた女性

の4種類の乗客が優先的に着席することになっている。しかし、それぞれの鉄道の運行会社が定める約款にこの優先席なるものについての記述があるわけではなく、あくまでも譲り合いが特に「望ましい」席であるという以上の位置は与えられていない。同じように、4種類の乗客の「着席の権利」が約款に明記されているわけでもない。すなわち、純粋に形式的に考えるなら、「すでに着席している他の誰かを立たせる」権利など誰にもないことになる。

 このような点を前提とることにより、次のような帰結が導き出される。

    1. 優先席には誰が坐っていてもかまわない。(=優先席を含むすべての座席を占有する権利は、原則として先着順による。)
    2. 上記4種類の乗客には、優先席に着席する権利があるわけではない。
    3. 上記4種類の乗客(=交通弱者?)は、すでに優先席を占有している乗客が「自発的に」席を空けることにより着席する機会を得る。

 上記4種類の乗客が優先席に坐ることができるかどうかは、すでに優先席を占有していた乗客が席を譲ることの意義を承認しているかどうかによる。すなわち、優先席は、上記4種類の乗客のための座席ではない。それは、上記4種類の乗客にいつでも席を譲る用意のある乗客のための座席なのである。つまり、老人を始めとする4種類の乗客が目の前に現れたときに、ためらいなく席を立つことができる人間は優先席に坐り、席を譲りたくない、あるいは、何らかの事情で席を譲ることができないのなら、普通の座席に坐ればよい。運行会社がこのように誘導すれば、今回のような問題はある程度まで回避することができるであろう。


Drugstore

 2、3日前から体調がよくなかったが、どうも、しばらくぶりに風邪を引いてしまったようである。喉が痛くて声が出ないのは少々つらい。今日は休日だが、午後から仕事がある。出かけなければならないことを考えると、気が重い。

 よく知られているように、風邪に関しては、これを治す薬というものがない。風邪の症状を惹き起こす原因となるウィルスは無数にあるからである。同じように、風邪を引くたびに、個別のウィルスに対する免疫が作られ、そのおかげで、同じウィルスを原因とする風邪にはかからないようになるけれども、ウィルスが無数にあるため、風邪を引かなくなるということは決してない。

 また、風邪を引いたら、基本的にはおとなしくしている以外に回復の道はない。たしかに、薬を飲めば、症状を抑えることはできるが、喉の痛みや発熱などの症状は、異物に対する身体の正常な反応であるから、この反応が起こらないようにしてしまうと、回復がその分遅くなる。だから、早く治りたければ、薬を使うのは最低限にとどめなければならないことになる。


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どれほど頑張っても、若者には老人のものの見方を理解することができない

 髪が薄くなったり、疲れやすくなったり、食欲がなくなったりすると、齢をとったなと感じる。また、若いころにはなかったようなタイプの身体の不調を覚えるときにも、年齢を感じることがある。

 しかし、日常生活にはいろいろな関心事があり、身体や年齢のことをいつもクヨクヨと考えているわけではなく、他のことに紛れていつのまにか忘れてしまう。しかし、ふたたび身体の変化に注意が向くと、しばらくのあいだ齢のことを考える。こうしたことの繰り返しの中で、少しずつ時間は経過し、そして、本当に齢をとることになる。

 もう20年近く前、老人の身体を若者が体験するための器具がテレビで紹介されているのを見たことがある。この器具を身につけて生活すると、バリアフリーの意義を実感したり、老人の気持ちを理解したりすることができるようになる……そうである。検索したら、現在は、「高齢者疑似体験セット」などの名でいくつかのメーカーから販売されているようである。

ヤガミ - 高齢者疑似体験セット - 保健福祉|理科機器・保健 福祉・救急救命・施設設備機器・工業用電気ヒーターのヤガミ

 たしかに、これは、おもちゃとしては面白いであろうが、実際の問題解決にはあまり役に立たないように思われる。理由は2つある。

老人は時間によって作られる

 第1に、10代、20代の若者がこの疑似体験セットを身につけて生活を送れば、疑似体験セットの有無で身体の活動能力が違うことを比較によって実感することができる。しかし、当たり前のことであるが、老人は、疑似体験セットを身につけるのと同じように一気に老人になったわけではない。20代の若者が70代の老人になるには、50年という歳月がかかったのであり、20代の若者は、50年のあいだに、小さな「老いのきざし」を少しずつ積み重ね、この「老いのきざし」に適応するように行動パターンを少しずつ変化させながら70代の老人になったのである。だから、若者が疑似体験セットで老人に変身したときに味わうほどの苦痛を、本物の老人が経験しているわけではないと考えるのが自然である。

 したがって、第2に、老人は、疑似体験セットを身につけ「いきなり老人」となった若者とは異なり、精神の発達状態がよほど幼稚な段階にとどまっているのでないかぎり、「若いころはできたことが今はできないのはつらい」などと一年中、朝から晩まで考えているわけではないはずである。なぜなら、身体的な事情によって行動が制限されるとともに、思考の枠組も一緒に変化してこの制限に適応しようとするからである。「いきなり老人」は、「この身体の状態では富士山に登れなくてつらい」と思うかも知れないが、富士山に登る体力を持たないなら、本当の老人は、そもそも富士山に登りたいとも思わないであろうから、富士山に登れないことに苦痛を覚えることもないはずである。

 「若いころはできたことが今はできないのはつらい」と思わなくなることを「意欲や気力の減退」と呼ぶことができないわけではないが、身体的な行動能力とものの見方、つまり心身のあいだにある種のバランスが維持されているのなら、そこには何ら問題はないと考えるのが自然である。「いきなり老人」となった若者には、疑似体験がどれほど積み重ねられても、老人の考えていることはわからないに違いない。


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