AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年11月

Dust

4種類の方向

 あるとき、本棚に並んだ洋書をぼんやり眺めていて気づいたことがある。それは、本の背に印刷されたタイトルの方向が全部で4種類あるということである。すなわち、

    1. アルファベットを無理やり縦書きにする。
    2. 背の幅いっぱいにあえて横書きにする。
    3. 文字列を横に倒して上から書く。
    4. 文字列を横に倒して下から書く。

 これら4種類のうち、1.は圧倒的少数である。1.は、下のような街頭の看板にはときどき見られるが、私の知る範囲では、本の背に関するかぎり、全体の99%以上が2.、3.、4.のいずれかの方式を採用している。特に、学術文献で1.が用いられることはまずない。

Lost Chicago

 また、2.、3.、4.のうち、2.は、下のようなもので、特に目立ったバリエーションはない。ただ、この方式は、本の厚みを必要とするから、厚みが足りない場合、活字が大変に小さくなり、見づらくなることがある。

The Correspondence of Jonathan Swift - Swiss Cottage Library

上から下か、下から上か、並べるか、積み上げるか

 ところで、問題は、3.と4.である。まず、3.というのは、次のようなものである。

penguins

 これに対し、4.の方式を採用すると、次のようになる。

Chroniques de Mai 68

 英語の場合、3.の方式、つまり、本棚に立てると背の文字が上から始まるものが(少なくとも20世紀以降は)圧倒的多数であり、これに対し、ドイツ語やフランス語の出版物では、4.の方式でタイトルが印刷されているものがほとんどである。また、英語、ドイツ語、フランス語以外のヨーロッパ系言語では、英語と同じ3.の方が普通のようである。

 ただ、ドイツ語やフランス語でも、タイトルが上から下に印刷されるケースがないわけではない。たとえば、フランスのPresses Universitaires de Franceから刊行されている人文科学の古典の叢書”Quadrige”には、印刷の方向が上から下のものと、下から上のものが混在している。

 だから、異なる言語の洋書が本棚に混在すると、タイトルを読むのに苦労するばかりではない。書棚の外観が雑然として、あまり美的ではないのである。

 なお、3.と4.の違いについては、著名な書誌学者による次のようなコメントがある。


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 また、主な横書きの言語の出版物の背に印刷される文字の方向を調査した人――書誌学者ではないが、書誌学の専門的な知識があるらしい――がいて、次のページに結果がまとめられている。


本棚に立てられた洋書の背文字は読みにくい

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 とはいえ、「上から下」と「下から上」が分かれた原因がわかっても、読みにくさが解消されるわけではない。本をただ保管するだけであるなら、本棚に立てず、横にして積み上げればよいのであろう。しかし、本を積み上げてしまうと、下の方にある本を取り出すのが面倒になるはずである。和書とくらべると、洋書を美しく整理することは難しいようである。


Port of San Diego's Top Green Chef Cook-off

料理本で料理を覚える

 私は、料理本を20冊くらい所蔵している。処分してしまったものも含めると、あわせて50冊近く購入しているはずである。これが多いのが少ないのか、私にはよくわからないが、男性としては多い方なのではないかと勝手に考えている。私が料理を自分で作るのは、外食があまり好きではないからである。しかも、自宅と職場が近く、外食する適当な場所が途中にない。外食するには、どこかにわざわざ出かけて行かなければならないことになる。

 私の母も祖母も、料理本を参考にして何かを作る習慣がなく、私は、子どものころ、家に料理本が置いてあるのを見たことがない。(だから、作り方を尋ねても、答えはつねに「見ていればわかる」以上のものではなかった。)そのせいで、大型書店の料理本のコーナーの前に初めて立ったとき、何を選び、また、これをどのように使えばよいのか、まったくわからなかった。実際、料理本を「使う」には、それなりの経験が必要である。特に、レシピを見て、作業の手順を心に浮かべたり、味を何となく予想することができるようになるには、ある程度は場数を踏まなければならないようである。

 料理の初心者なら、NHKの「きょうの料理」を参考にすることが多いのではないかと思う。少なくとも私はそうであった。動画による手順の解説が初心者にとってわかりやすいことは確かである。私は、初めて独り暮らしを始めたころには、「きょうの料理」をよく見ていた。ただ、今から振り返ると、「きょうの料理」で紹介されたレシピは、決して初心者向けではない。また、出演者が多様なせいか、「あたりはずれ」が大きく、レシピの数と比較すると参考になるものは少なかったように思われる。私の場合、「きょうの料理」で紹介されたレシピを2回以上試したことはなく、参考になったものはすべて料理本のレシピである。

男性の調理人のレシピの方がエレガント

 ところで、料理本遍歴(?)を続けているうちに、気づいたことが1つある。それは、レシピには「精度」や「作りやすさ」というものに関し、著者によって大きな差があるという事実である。数学の問題の解法について、「ベタ」で「応用のきかない」ものと「単純」で「問題の本質に即している」ものが区別されるように、料理本のレシピも、その場かぎりで雑然としたもの、あるいは、不必要に奇抜なものと、プリシンプルが明確で手順が簡潔――ラクという意味ではない――なものを区別することができる。作りやすく、味が安定し、ふたたび作ってみたくなるのは、もちろん後者である。そして、後者のレシピは、少なくとも私の知る範囲では、大半が男性の著者によるものである。料理本の著者としては、男性の方が全体として女性よりも優秀であると私は考えている。男性の著者のレシピと女性の著者のレシピのあいだには、明らかな違いが認められるのである。

 ただ、この違いは、性別によるものであるというよりも、むしろ、職業によるものであると考えるのが自然である。すなわち、女性の著者の大半が料理研究家であるのに対し、男性の著者の場合、ほぼ全員が調理人であり、飲食店に勤めていたり、飲食店の店主だったりする。そして、男性の著者の料理本に掲載されたレシピの方がエレガントである事実は、これによって説明することができる。というのも、料理研究家と調理人では、作ってきた「皿数」(?)がまったく違うからである。1つのレシピが料理本に掲載されるまでに実際に作られた同じ料理、あるいは似たような料理の数は、店で客に料理を出す調理人の方が比較にならないくらい多いはずである。外科医の手術の腕前がこなした手術の件数に比例するのと同じように、料理の腕もまた、これまで同じタイプの料理をどのくらい作ってきたかによって決まるところが多い。自宅のキッチンでの10回の試作から生まれた料理研究家のレシピよりも、対価を支払う客を相手に繰り返された1000回の試行錯誤を背景とする調理人のレシピの方が洗練されていることは明らかである。また、レシピに忠実であるかぎり、何十回も、何百回も繰り返し作られることに耐える味が不知不識に追求されているはずである。

 これまで多くの料理本を手に入れたけれども、手もとに残ったものの大半は、男性の著者によるものである。女性料理研究家の料理本に掲載されたレシピは、素材の点でも、手順の点でも、味の点でも、応用可能性の点でも、料理の「あるべき姿」から逸脱しているように感じられることが多い。(たとえば、男性の著者の場合には、「手抜き」が謳われていても、料理の体をなすための最低限の節度は守られているのが普通であるのに対し、女性の料理研究家のレシピの場合、「手抜き」であることが強調されているときには、本当に身も蓋もない極端な手抜きであり、出された料理を食べる側の気持ちを著者がどう考えているのか疑わしく感じられるようなものが少なくない。)

 残念ながら、家庭向けの料理本を製作する男性の調理人は、比較的少数にとどまっているが、男性の調理人による料理本が増えれば、家庭料理の啓蒙が進むのではないかとひそかに考えている。

 なお、次の本は、私が所蔵する料理本のうち、もっとも古いものである。まったくの初心者向けであり、非常にすぐれた本であると思う。

割合で覚える和の基本 | 村田 吉弘 |本 | 通販 | Amazon


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 アメリカの社会学者エヴェリット・ロジャーズによれば、消費者は、新しいものに対する態度によって5つの階層に分かれる。すなわち、新しいものの受容に積極的である順に、「イノベーター」「アーリーアダプター」「アーリーマジョリティ」「レイトマジョリティ」「ラガード」の5つの階層が区分されるとロジャーズは考える。この考え方は、一般に「イノベーター理論」と呼ばれ、現在では、マーケティングにおいて広く用いられているようである。

 イノベーターは、新しいものを前のめりに取り入れるクラスターであり、アーリーマジョリティがこれに続く。ロジャーズによれば、両者が消費者全体の約16%に相当し、これら2つの階層によって受容されることにより、新しいものは、残る3つの階層に一挙に浸透して行くと考えられている。たしかに、これまで、流行することによってライフスタイルに変化を与えたような商品の多くは、このイノベーター理論に沿うような仕方で社会に受け容れられてきたと言うことができる。

 もちろん、新しい商品やサービスを取り入れるのに積極的な人々とこのようなものに慎重な態度をとる人々のあいだに優劣があるわけではない。社会の変化に乗り遅れないために新しい商品をやむをえず購入するのでないかぎり、満足の度合いは誰でも同じであろう。

 ただ、大衆化した社会において、新しいものをもっとも早く取り入れるイノベーターは、ある種の「悲哀」を免れることができない。というのも、イノベーターが最初に始めたこと、イノベーターが最初に受け容れたものがイノベーターに続くクラスターへと浸透し普及して行くとともに、商品やサービスの使われ方は、否応なく変質するからであり、イノベーターは、(商品やサービスの浸透がよほどゆっくりでないかぎり、)これを見守らざるをえないからである。

 イノベーターが新しいものを受け容れたのは、それが特別なものだったからである。つまり、その商品やそのサービスを使うことは、イノベーターにとっては、アイデンティティの核心をなす。しかし、「レイトマジョリティ」や「ラガード」へと浸透した商品は、もはや特別なものではなく、コモディティとして扱われる。当然、特別な自覚もなく知識もないこれらのクラスターのもとで、商品やサービスは、誰でも使いやすいものへと姿を変えたり、万人受けするような使い方が支配的になったりするはずである。そして、イノベーターの目には、この事態は、遅れてやってきた大衆が自分のアイデンティティの核心をなす商品やサービスを食い散らかしていると映る。(しかも、大衆は、自分たちが使い始めた商品をイノベーターがどのように使っていたのか、などということには関心を持たないし、イノベーターに敬意を払うこともない。)自分が一種の覚悟とともに受け容れたものが大衆に浸透し、変質すること、そして、自分のアイデンティティの一部が陳腐化して行くこと、これがイノベーターの悲哀の意味である。


Edouard Manet - Luncheon on the Grass - Google Art Project.jpg
By Édouard Manet - twELHYoc3ID_VA at Google Cultural Institute maximum zoom level, Public Domain, Link

 「日本の男性の女性に対する態度は性差別主義的か。」この問いに対し、私は、「全体としてはイエス」と答える。

酒の席での「男子トーク」では悪い意味での「男らしさ」が発揮される

 私は、「男らしさ」があまり好きではない。もちろん、「勇気」「謙虚」「公正」などの美徳を体現するふるまいを「男らしい」ふるまいと呼ぶなら、このような意味での男らしさには何の問題もない。(ただ、このようなふるまいは、男性に固有のものではないから、厳密に考えるなら、これを「男らしい」ものとして評価するのは性差別主義的である。)

 しかし、私は、男性に固有の女性に対する態度、特に、「酒の席で」「複数の男性のあいだで」醸成される女性に対する態度を見ると、つねに気持ちのよくないものを感じる。私が酒を飲まないからであるのかも知れないが、私には、昔から、どうしても「男子トーク」(?)には入り込むことができない。いや、そもそも、特定の状況のもとで女性に対し最低限の礼儀を守ることができなくなる男性が多いのがなぜなのか、私にはよくわからないのである。

 私は女性ではないから、女性に対する男性の即物的なまなざしを女性がどのように受け止めているのか、想像する他はないけれども、それは、「バカバカしい」と感じられるとともに、場合によっては軽い恐怖を惹き起こすものでもあるように思われる。私ですら、同じひとりの人間がシラフのときとはまったく異なる貌を見せるのを目撃し、気味が悪くなったことが何回もある。私は、セジウィックが「ホモソーシャル」と名づける状況がひどく苦手なようである。

男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望 | イヴ・K. セジウィック, Eve Kosofsky Sedgwick, 上原 早苗, 亀沢 美由紀 |本 | 通販 | Amazon

ホモソーシャルは、女性に対する無関心の反映

 ところで、今月(2016年11月)になってから、マタニティマークに関する連載記事がNHKのウェブサイトに掲載されている。(今日の時点で第3回まで読むことができる。)

マタニティマークがつけられない|NHK NEWS WEB

マタニティマーク 不安が引き起こす動き|NHK NEWS WEB

マタニティマーク 警鐘鳴らす専門家|NHK NEWS WEB

 マタニティマークが2006年に作られ、少しずつ普及するようになってから、私は、公共の交通機関でこのマークをつけている女性を見かけると、大抵の場合、席を譲るようにしてきた。たしかに、子育てというものは、両親が中心となって進められるべきものであるが、社会の応援は、いかなる状況のもとでも必要不可欠である。電車で席を譲るというのは、安上がりな「ちょっとした親切」であり、しかも、誰にでもできる簡単な応援であるにもかかわらず、社会全体が子育てを応援しているという「雰囲気」を作るのにはとても効果がある。(なお、同じ理由で、私は、電車で出入り口の脇のスペースに立っているとき、ベビーカーを押している女性が乗車するのを見つけたら、事情が許す範囲で、この出入り口の脇のスペースを譲ることにしている。このスペースにベビーカーを寄せると、ベビーカーを両手で抑えている必要がなくなるからである。)

 ただ、上の連載記事を読むと、妊娠した女性がマタニティマークをつけることに対し、必ずしも肯定的な印象を持っていない人が多いことがわかる。私自身は、このような人々の意見に必ずしも同意しないけれども、席を譲りたくないのなら、マタニティマークには強制力などないのだから、無視すればよいだけの話である。(もっとも、「マタニティマークをつけるべきではない」と要求する権利は誰にもない。)

 それでも、マタニティマークをつけた女性を見つけたら、少なくとも男性は、席を積極的に譲るのがよいと私は考えている。私自身を含め、男性は――子育てに対するコミットの程度に関係なく――全体として女性に対し恐ろしいほど無関心であり、したがって、自分とは異なる視点から社会を眺めることに無関心である。そして、この無関心が不気味な「男らしさ」を産み出し、性差別主義的と受け取られかねないような態度を産み出しているような気がする。だから、マタニティマークーー驚くべきことに、60歳代以上では、6割以上がマタニティマーク自体を知らないらしい――に気を配り、積極的に席を譲ることは、異質なものに目を向けることにより、自分の「男性性」(?)を相対化するための最初の一歩となるはずである。


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電子書籍は「蔵書」ではない

 電子書籍の登場以前、蔵書を管理するときに考慮しなければならないのは、紙の本だけであった。また、現在でも、電子書籍とは無縁の生活を送っているなら、電子書籍の扱い方に頭を悩ませることはないであろう。

 しかし、自分が所蔵している本を何らかの仕方で管理したり整理したりする必要に迫られている人の大半にとり、読書は、紙の本による場合もあれば、電子書籍による場合もあるというのが普通であるはずである。つまり、大半の人は、紙の本と電子書籍が混在した「蔵書」を抱えているに違いない。

 とはいえ、紙の本と電子書籍を一元的に管理する試みは、さまざまな困難に出会うはずである。たしかに、ブクログや読書メーターのようなサービスを使えば、少なくともデータの上では紙の本と電子書籍を同じ蔵書として扱うことが可能である。しかし、紙の本とは異なり、電子書籍の1冊は、書架に位置を占めていないから、両者が混在した状態を「現物」の形で一覧することはできない。少なくとも整理という観点から考えるなら、電子書籍を紙の本と同じ意味での「蔵書」と見なすことは困難である。

電子書籍は「財産」ですらない

 ところで、最近――と言っても、もう何年も前からであるが――紙の本を裁断してスキャンし、みずから電子書籍化する試みが社会の広い範囲で見られるようになった。これは、一般に「自炊」と呼ばれている。また、同じタイトルについて紙の本と電子書籍の両方が販売されている場合、紙の本ではなく電子書籍の方を購入する人も多いようである。たしかに、紙の本を電子化したり、最初から電子書籍を購入したりすることにより、新たなスペースを作ることが可能となる。たしかに、誰にとっても、蔵書について最優先で解決しなければならないのは「収納」の問題であるから、三次元空間に位置を占めない電子書籍には、すでにこれだけでも大きなメリットがあると言うことができる。

 しかし、私が所蔵している紙の本は、私が手放さないかぎり、死ぬまで私の手もとに置くことができるのに対し、電子書籍については、今後何十年にもわたって参照可能であるという保証がない。電子的なデータは消えてしまうかも知れないし、電子書籍のうち、たとえばアマゾンで購入し専用の端末やアプリを使わなければ読むことのできないものは、提供する側の都合で閲覧することができなくなる危険にさらされている。電子書籍は、蔵書ではないばかりではなく、財産ですらないのである。

スペースの節約が極度に切実な問題なら、電子書籍への置き換えは選択肢の1つ

 このような点を考慮するなら、あるタイトルを紙の本ではなく電子書籍で購入するというのは、割高であることがわかる。電子書籍の価格が同じタイトルの紙の本の価格の3分の1程度ならばともかく、両者に大した違いがないのであれば、電子書籍をあえて購入する理由はないはずである。

 ただ、電子書籍を購入したり、紙の本をみずから電子書籍化したりすることの大きな理由の1つにスペースの節約があることは確かである。実際、たとえば、漫画を何百冊、いや、何千冊も所蔵している人にとり、収納場所の確保は、特に重要な問題であるはずである。

 だから、蔵書が占有しているスペースを解放するために蔵書の電子化を進めようとしているのなら、次のように考えてみるとよいように思われる。すなわち、現在所蔵している漫画100冊が相当なスペースを占有しているとき、このスペースを空けるためにいくらまでなら支払うことができるか、胸に手を当ててみずからに尋ねるのである。

 漫画1冊が500円であるとすると、漫画100冊は50000円になる。漫画の場合、電子書籍の価格は、紙の本とほぼ同じである。したがって、漫画100冊分のスペースを空けるために50000円以上支払ってもかまわないのなら、今後は、すべての漫画を電子書籍で購入してもよいであろう。しかし、漫画100冊分のスペースを空けるのに50000円も支払うつもりがないと考えるのであれば、それは、収納の問題が切実ではないことの証しであり、蔵書の電子書籍化を進めることには慎重になるべきなのであろう。


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