AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年11月

The Asahi Shimbun Building (1968-2013)

「ニューズウィーク」でアムウェイの記事広告を見つける

 昨日、ニューズウィーク日本版のウェブサイトを見ていたら、次のようなページが目にとまった。

人々に選ばれる製品を生む「アムウェイ」の哲学

 ツイッターを見ると、このページを見た人の多くが、これを「ニューズウィーク」自身の記事と勘違いし、「ニューズウィーク」に批判的な態度をとったことがわかる。これは、「ニューズウィーク」の記事と同じフォーマットで書かれ、しかも、「最新記事>ビジネス」というカテゴリーに入っているから、記事であると勘違いさせる意図があったのかも知れない。ただ、タイトルの右下に「PR」と記されており、これが「記事」ではなく「記事広告」であることは、一応わかるようにはなっている。また、「マルチ商法」で有名な企業を褒める記事が「ニューズウィーク」に掲載されるはずはない。冷静に考えるなら、これは誰でもわかることであろう。

 それでも、私は、アムウェイの記事広告を「ニューズウィーク」が掲載したことに私は少し驚いた。「ニューズウィーク」の発行部数は必ずしも多くはないが、それでも、日本で一般に流通している日本語の週刊誌としてはもっとも高級なものの1つとして、他には代えられない意義がある。私自身は、ささやかな応援のつもりで、数年前から「ニューズウィーク」を定期購読している(年に2万円弱)。もちろん、最近は、紙媒体の方にも記事広告が増えているが、紙媒体の方では、記事広告は、本来の記事とは異なる活字で印刷されている。だから、紙媒体の方にも上の記事広告に相当するものが掲載されているけれども、こちらは、ページを開いた瞬間に広告とわかる。とはいえ、(たとえ記事広告であるとしても、)アムウェイの広告を掲載しなければならないということは、よほど部数が落ちているのかも知れないと思い、暗澹たる気持ちになった。部数がさらに落ち込んで廃刊になどならないとよいのだが……。

ニュースは無料ではない

 ところで、私は、今年の春から「朝日新聞」の電子版を購読している。月額3800円である。電子版に3800円は割高に見えるけれども、電子版を有料で購読すると、朝日新聞が提携する6つの有料サービス(食べログ、クックパッド、ジョルテカレンダー、ジョルダン、Zaim、@cosme)のうち3つを無料で利用することができる――私はどれも使っていないが――から、このようなサービスを使う可能性があるなら、むしろ割安ということになるのかも知れない。

 念のために言っておくなら、私は、「朝日新聞」が好きではない。あの「左の方しか向いていない」ような論調には、強い違和感を覚える。それでも、私が購読料を支払って電子版を契約しているのは、ニュースが無料であってはならないと信じているからである。数日遅れでかなりの数の記事がネット上にアップロードされ、無料で読むことができるにもかかわらず「ニューズウィーク」を定期購読しているのも、同じ理由による。

 現在では、ヤフーのトップページに掲載されている「トピックス」を眺めたり、グーグルニュースを開いたり、あるいは、スマートフォン上で動くキュレーション・アプリを使ったりすることにより、ニュースにアクセスする人が多いはずである。特に、50歳以下の世代は、「ニュースがタダ」であると思っている割合が高いのではないかと私は想像している。しかし、「ニュースがタダ」という認識は決定的に誤りである。

 新聞紙に印刷され、宅配される新聞を購読することが必要であるわけではない。しかし、ニュースが作られ、私たちの手もとに何らかの仕方で届くまでには、相当なコストがかかっていることは確かである。「ニュースがタダ」であるという誤解が蔓延すると、「国民の知る権利」――この権利を私たちの代理として行使しているのがマスメディアである――が損なわれ、公論の形成が阻碍されるおそれがある。

新聞や雑誌や書籍を買うことは、公論の形成や文化の再生産のために献金すること

 同じように、雑誌や書籍を読みたいと思うのなら、しかるべき対価を支払うのが、たとえ内容に不満があるとしても、当然の義務であると私は考えている。新聞、雑誌、書籍に付けられている値段というのは、新聞1部、雑誌や書籍1点の価格ではない。それぞれの値段は、文化を持続的に再生産し、民主主義社会を維持し健全に発展させるため、読者に負担してもらいたいコストなのであり、対価の支払いは、一種の「献金」に他ならない。

 書物を図書館で借りて読むのではなく、自分のカネで購うことは、文化の再生産への主体的な参入を意味する。ネットニュースを無料で読むのではなく、新聞や週刊誌を購読することは、公論の形成を主体的に支えるという意思表示なのである。

 たしかに、新聞がつねに正しいわけではないし、雑誌や書籍に記されたことのすべてに価値があるわけではない。それでも、言論の世界を全体として見るなら、それぞれの媒体がたがいに他を批判したり修正したりすることにより、そして、このような批判や修正が公衆の前で遂行されることにより、公衆のあいだでの公論の形成や文化的な生産物の評価もまた可能になる。これが公論の形成の、あるいは、文化の再生産の理想的なプロセスである。だから、いずれか1つの媒体、いずれか1冊の本だけを取り出し、「偏向」「無意味」「反日」などの言葉をこれらに投げつけてはならないのである。

 現在の社会をよりよいものにすることを願うのなら、あるいは、文化的な生産物を長期にわたって享受することを願うのなら、そのコストをみずから負担することは、万人に課せられた義務である。「日本人は水と安全はタダだと思っている」という名言がある。水も安全も決してタダではないし、タダであってはならないものであるが、「ニュース」もまた、タダではないし、タダであってはならないと私は考えている。


Women@Work - KVLV

専業主婦には2種類がある

 私は、現在の日本の社会が抱える問題のかなりの部分が専業主婦の存在を解消することによって取り除かれると考えている。

 生産年齢人口に当たる15歳から64歳に属しているのに、学校に通っているわけでもなく健康上の問題を抱えているわけでもなく、それにもかかわらず正業に就いていない男性は、「ニート」や「ひきこもり」と呼ばれる。ところが、女性は、これと同じ立場に身を置いていても、なぜか「ニート」とも「ひきこもり」とも呼ばれず、未婚なら「家事手伝い」、既婚なら「専業主婦」と呼ばれている。私が家庭から追い出すべきであると考えているのは、「専業主婦」の仮面をかぶった「ニート」ないし「ひきこもり」である。

 とはいえ、専業主婦には大きく2種類を区分することができる。すなわち、自発的な専業主婦と不本意な専業主婦である。社会政策ないし労働政策として望ましいのは、後者、つまり、不本意ながら専業主婦の地位にとどまっている女性たちが社会に出て行くことができるよう最大限支援することであり、同時に、前者、つまり、「家庭に入る」「永久就職」などと称し――自覚しているかどうかわからないが――事実上の「ニート」「ひきこもり」として社会のパラサイトになっている女性たちにペナルティを与え、家庭から追い出すことである。

 既婚の女性が不本意ながら専業主婦にならざるをえないとするなら、その原因は、(失業を除けば、)家庭内で発生し、家庭内で賄われざるをえない労働力に対する需要を満たすためであり、少なくとも現在の日本では、この種の労働力への需要のうち主なものは、介護と育児から生れる。つまり、介護と育児に従事せざるをえないという理由により、フルタイムの仕事を諦め、不本意ながら専業主婦の地位にとどまらざるをえない女性が相当数いると考えるのが自然である。したがって、介護と育児に対し最大限の社会が最大限の支援を差し出すことは、不本意による専業主婦を社会に送り出すために必要不可欠であるように思われる。

問題は、「永久就職」を決め込んだ「意識低い系」の専業主婦

 しかし、自発的な専業主婦には、このような支援は何の意味もない。なぜなら、彼女たちには、外に出て働くつもりが最初からなく、労働しないことを権利として受け止めているからである。しかし、この「権利」を実際に享受しているかどうかはともかく、このような専業主婦願望を持つ「意識低い系」の女性――下の記事によれば、女性全体の約半分を占める――を放置することは、不本意ながら専業主婦にとどまっている女性に対する侮辱に当たるばかりではない。これは、女性の権利や社会的な地位を確立するために闘ってきた先人への侮辱にも当たる。

女性の半数が「夫は外、妻は家庭」と思っているのに、一億総活躍をどう実現するのか

 「意識低い系」の専業主婦願望がこれほど広がっているようでは、わが国の未来は暗いと言わざるをえない。

 少なくとも形式的に考えるなら、国民のポテンシャルを最大限に引き出すことにわが国の将来がかかっていることは事実であり、このかぎりにおいて、「一億総活躍」は、必ず実現されねばならない課題であることもまた確かである。社会保障費は老人のためのものではない。少なくとも今は、育児と介護による人的資源のロスを回避するために使われなければならないのであり、この名目のために社会保険料が増えるとしても、多くの国民は、これを受け容れるのではないかと私は想像している。


phone call I

「1回目」には応答するが、同じ番号からの「2回目」以降は無視するのが原則

 何かの事情で日中に自宅にいると、セールスの電話を受けることが多い。これを迷惑に感じる人は多いであろう。また、電話によるセールスというのは、21世紀の現在では、古典的――というよりも原始的――な勧誘方法であり、どのくらいの効果が挙がっているのか、電話を受けながら疑問に感じることがないわけではない。ただ、平均すると週に2件か3件の電話がかかってくることは確かであり、その都度、小さな不快感を味わっている。

 私自身は、電話機のディスプレーに表示される電話の発信番号が未知のものでも、だからと言って電話を無視することはなく、一応は電話に出る。ただ、その電話がセールスを目的とするものであることがわかったら、発信番号をその都度「セールス」として登録する。(発信番号に関係なく、すべて「セールス」という同じ名前で登録する。)そして、電話の呼び出し音が鳴り、電話機のディスプレーに「セールス」と表示されたら、その着信は無視することにしている。

 もっとも、同じ業者から2回以上かかってくることは、最近はずいぶん少なくなった。「2回目」以上の割合は、セールスの電話全体の5%くらいではないかと思う。

時間と体力と気分に余裕があるなら:法的(?)に反応する

 問題は、全体の95%を占める「1回目」の呼び出しにどのように対応するかである。もちろん、セールスへの対応に正解などあるわけではないから、好きなようにすればよいのだが、ここでは、対応をさしあたり3つに区分し、メリット/デメリットを考えてみる。

 最初に――あるいは最後に――思い浮かぶのは、セールスの電話に対する「法的」な対応である。

 そもそも、私の電話番号は、個人情報の一種である。そして、電話番号が個人情報であるかぎり、少なくとも日本では、私は、電話番号の使われ方をコントロールする権利を法律(個人情報保護法)によって認められている。名簿業者から購入した何らかの名簿を利用してセールスの電話を私にかけることは、それ自体としては違法ではない。しかし、この名簿に私の電話番号を掲載するに当たり、私は、電話番号の情報がセールスに使われることにあらかじめ同意しているわけではない。そして、個人情報が私自身の同意しないした方で使われた場合、私にはこれを拒否るする権利が法律によって認められているのである。

 だから、セールスの電話がかかってきたときには、セールスの電話をかけてきた業者に対し、(1)私の電話番号を入手した手段を明らかにするよう求めた上で、(2)電話番号のこのような使用に私が同意していないことを伝え、そして、(3)2度と私の電話番号を使わないよう求めればよいことになる。次の記事のように対応するなら、「法的」には完璧なのであろう。

迷惑な勧誘電話 - 悪質セールス撃退と個人情報保護法 - Lucablog

 たしかに、これほど強硬な態度で臨めば、同じ業者からふたたび電話がかかる可能性は、ゼロにかぎりなく近づくはずである。

 しかし、このような対応にはデメリットが2つある。1つは、かかってきた電話を一々この方式で撃退するのが面倒である点、もう1つは、こちらがお説教を始める前に、相手の方が電話を切ってしまう可能性が高い点である。気分的な余裕が十分にあり、かつ、セールスの電話によほど腹を立てているのなら――相手が電話を先に切った場合、こちらから電話をかけなおしてでも――時間と体力を使うのはかまわないが、残念ながら、これは万人向けの対策ではないように思われる。

口をきくのは面倒だが、不快であることを相手に示したいなら:放置する

 ただ、セールスの電話が強い不快感を惹き起こした事実を相手に伝えたいことはある。そのようなときにに有効なのは、電話に出たあと、受話器を放置することである。

 電話をかけてきた業者は、大抵の場合、こちらが実際に聞いているかどうかには関係なく一方的にしゃべり続ける。こちらに相槌を打つ隙を与えず、型通りの話をダラダラと3分近く続けた業者を私は知っている。不思議なことに、このような一方的なおしゃべりが相手に不快感を与えることに気づかず、それどころか、何かが売れるかも知れないと期待しているらしい。

 かつて、同じ不動産の業者が毎日のように電話をかけてきたとき、私は、毎回、電話に出てから受話器をそのまま放置し、勝手にしゃべらせておいた。これが効いたのかどうかわからないが、その業者からは、やがて電話がかかってこなくなった。やはり、受話器の向こうに誰もいない状況で同じことをしゃべり続けるなど、普通の神経では耐えられないであろう。相手に間接的な不快感を与えることで、こちらの気分を相手にわからせることができる可能性は高いように思われる。

時間と体力のロスを最小限に抑え、早く忘れたいなら:すぐに切る

 とはいえ、やはり、セールスの電話がかかってきたら、そして、内容に興味がないのなら、もっともよいのは、「すぐに切る」ことである。この場合の「すぐに切る」とは、文字通り、電話をかけてきた相手がセールスであるとわかったら、1呼吸おいて切ることを意味する。「1呼吸おく」ことが必要であるのは、間違いなく通話を遮断するためである。というのも、(1)電話を切るのがあまりにも早いと、知り合いからの電話をセールスと勘違いして切ってしまう危険があるからであり、また、(2)電話をかけてきた業者の方が、何らかの事故で回線が切れたと判断し、かけなおしてくる危険があるからである。

 私は、かつて、ながいあいだ、セールスの電話がかかってくると、相手の用件を確認した上で、「興味ありません」と謝絶して電話を切ることにしていた。電話をかけてくるのが同じ人間であるかぎり、相手の話を聞いてからこちらが返事するというのがコミュニケーションの本来の姿であると私は考えていた。今でもそう考えている。

 しかし、今から20年近く前、あるセールスの電話を受けてから、私は、セールスの電話についての考え方を少し変えた。

 今でもよく覚えているのだが、それは、そのころ「3分9円」中継電話サービスを開始した東京電力系の東京通信ネットワークが提供する「東京電話」のセールスであった。私が電話に出ると、相手は、こちらの名前も確認せず、東京電話のサービスの説明を始めた。それは、まるでパンフレットを棒読みしているようであった。私は、30秒くらい黙って聞いていたが、少しつらくなってきた。そこで、謝絶しようと思い、「申し訳ないが、興味ありません」と言おうとしたところ、「申し訳……」まで言ったところで、電話をいきなり切られた。セールスの電話に出て、相手から電話を切られたのは、それが最初であった。

 もちろん、このような行動は、商品や業者のブランドイメージを毀損するから、それなりに知られた企業やブランドを名乗ったセールスや勧誘では避けるべきことであるに違いない。実際、「東京電話」に対する私の印象は非常に悪くなり、当時、テレビでさかんに流れていた東京電話のCMを見るたびに、私は、不快なセールスを繰り返し思い出すことになった。


 このような不快な思いを避けるには、セールスの電話は、数秒のうちに黙って切るのがもっともよい。これは、電話をかけてきた相手に対する礼儀という点で問題がないわけではないけれども、こちらの都合や気持ちなどまったく考慮しない相手が与えるかも知れぬ不快感から身を守り、精神の健康を維持することを優先するには、やむをえないことであると私は考えている。


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 昨日、次のような記事を見つけた。


【本なんて、もはやインテリア】複合書店は、出版界の救世主になれるか。(五百田達成) - Yahoo!ニュース

昨年から、本とそれ以外の商品を並べる「複合書店」の動きが加速しています。


 上記の記事は、新刊書店が雑貨屋、カフェ、家電量販店などと一体化する「複合書店」を取り上げているけれども、同じことは、古書店についても言うことができる。

 商品が新刊書である古書であるかには関係なく、本屋というのは、本を売る店であると私はながいあいだ信じていた。そして、本屋が本を売る店であるかぎり、本屋の価値を決めるのは、在庫の量と質ででなければならないとも考えていた。だから、本を探すときには、必要に応じて、アマゾンで検索したり、紀伊國屋、ジュンク堂、三省堂などのように多種多様なジャンルにわたる膨大な在庫がある本屋に足を運んだり、文学、歴史、経済、美術などの専門に特化した古書店のカタログを眺めたりしてきた。目指す本が見つかる確率が高くなるほど、本屋の価値は上がることになる。

 もちろん、店員の質もまた、少なくとも古本屋の場合には、店の価値を決める重要な要素である。けれども、古書店の店員の価値は、愛想のよさとか一般的な意味での話の面白さにあるのではなく、古書に関する知識の量に求められること、これもまた当然の話である。

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 しかし、最近は、「セレクト古書店」などと呼ばれるタイプの古本屋が目につくようになった。在庫している本の数はごくわずかであり、大抵の場合、ハッキリしない基準にもとづいて「選ばれた」少数の本が――冒頭の記事で取り上げられている「複合書店」と同じように――インテリア風に品よく壁際に並べられていたり、ハンカチ、カバン、額縁などと一緒に雑貨として売られていたりする。さすがに神田の古書店街でこの種の古本屋――と言えるのかどうかわからないが――を見かけることはないけれども、私の自宅の最寄り駅近くに新しく開店した古本屋はいずれも、この「セレクト古書店」である。また、私の見るかぎり、このような本屋に来る客が期待しているのは、読む本を見つけることであるというよりも、むしろ、店員/店主としゃべることであるように見える。また、客と「つながる」ために店を開いたということを堂々と語る店主もいる。(私にとって、店主との会話は、古本屋で本を探すときの単なる「コスト」にすぎず、店主と「つながる」ために古本屋に行くなど、思いもよらないことであった。本を探し、本を読むというのは、「本との対話」という本質的に私的な孤独な営みだからである。)

 このような傾向に関連し、ある古書店主――「セレクト古書店」の店主ではない――は、次のように語っている。

新しい古書店では、多くの顧客が店主との対話を求めている。本自体の魅力だけではなく、書店自体がメディアとして人と情報の結節点となることが求められている。文化を伝える道具としての本を中心として、人と人が出会う場所として本屋という空間が利用されているのである。今回の取材で、いろいろな古書店を回る中で、「エンターテインメント空間」という言葉を何度も聴いた。たとえば、十年以上輸入写真集を黙々と扱って来た某書店は本の値段をドルで表示している。しかも、そのレートは毎日変わるのだ。わずかとはいえ、買う日によって損をしたり得をしたりする。そうすることによって、買い物にゲーム性や賭博性を持たせているのだ。このちょっとした遊びが、コミュニケーションを生み出すきっかけとなる。

 このような事実から明らかなように、「セレクト古書店」というのは、本質的に本を読まない人間のための本屋である。そこでは、読むための本が売られているのではない。売られているのは、部屋に飾るための本、あるいは、読んでいる姿や携行している姿を他人に見せるための本であり、最大限に好意的に考えても、おしゃべりのきっかけになるような本にすぎない。

 このような店で売られている本の値段が表現しているのは、書物の内容の価値ではなく、表紙と厚みの価値にすぎない。だから、「束見本」のように内部の版面に何も印刷されていなくても、それどころか、内部が空洞であっても、値段は変わらないことになる。いずれにしても、真面目に読まれることはないからである。私は、このような本の扱われ方に強烈な違和感を覚えるとともに、本を読むことを前提とする文化がこれほどまでに痩せ細っていることに少なからず驚いた。

 冒頭の記事の著者が予測しているように、複合書店において、本が知的な雰囲気を作り出すためのインテリア以上の役割を担っていないのであるならば、本が売場から追い出される日がいつか到来するはずである。そして、そのとき、新しいタイプの「文盲」が社会に蔓延し、文化の再生産のための基盤が蝕まれ、崩れることになるように思われるのである。


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私たちはトランプについてよく知らない

 アメリカの大統領選挙が2016年11月8日に実施され、ドナルド・トランプが当選した。

 選挙期間中、トランプは、膨大な量の言葉をアメリカ国民および外国人に向かって投げかけたけれども、私たちの手もとに届けられた言葉は、大統領に就任したときの具体的な政策の細部を教えるものではない。一方において、私たちは、今のところ、この点に関し断片的な情報しか持っていないと言うことができる。

 しかし、他方において、アメリカの内政と外交は、途方もない数の利害関係者を持つ。アメリカの影響を一切受けない者は、地上にはいないはずである。そして、おそらくそのせいなのであろう、少なくとも2016年11月の時点では、本人を除く世界中のすべての人間が、これから始まる4年間について、それぞれ勝手な期待を抱き、この期待を勝手に表明しているように見える。いや、当選後のトランプ自身の発言を見るかぎり、本人もまた、実現すべき具体的な政策をあらかじめ持っているわけではなく、個別の具体的な状況のもとで「アド・ホック」に政策を決めることを原則とすることに決めたようにも見える。

「きれいごと」の政治から「力まかせ」の政治へ

 今後4年間のアメリカは、これまでの8年間とは異なり、また、さらにその前の8年間とも異なる顔を私たちに見せるはずである。オバマが大統領であった8年間のアメリカは、国内に対しても、また外国に対しても、美しい理想を語り、これを押しつけてきた。さらに、その前のブッシュも、内容はオバマと異なるけれども、理想を大いに語る点において違いはない。21世紀のアメリカでは、よく言えば「格好のよい政治」が追求されてきたのである。しかし、これは、悪く言えば、皆が「きれいごと」を身にまとい、具体的な問題には誰も責任をとらない政治、「表裏のある政治」が続いた8年間でもある。(英語圏のマスメディアでは、トランプの政治的な姿勢に関し、”post-truth”(=「真理にもとづかない」)や”post-factual”(=「事実にもとづかない」)などの表現が用いられてきたけれども、また、アメリカの新しい政権が白人を煽ることに終始するかどうか、これは予測できないけれども、見方によっては、「真理」にも「事実」にももとづかないのは、むしろ、理想ばかりが語られてきたこの16年間の政治の方であったと言えないことはないように思われる。)

 そして、今後4年間のアメリカは、これとは反対に、理想をあまり語らない政治、「力まかせ」の政治、結果によってのみ評価される政治への道を辿るはずである。アメリカの社会において支配的であると考えられてきた価値観のいくつかに自覚的に逆らう――女性への蔑視や軍人への批判――ことを繰り返し語った候補が当選したという事実は、重く受け止められるべきであろう。だから、トランプの当選を根拠として「アメリカ社会の変質」を語るのはまだ早いと私は考えている。これは、きれいごとばかりが並び、理想がインフレーションを起こし、誰もこれを文字どおりには受け取ることができなくなった状況に対する国民の嫌悪の現われにすぎないかも知れないからである。

変化にはすぐに順応してしまう

 冷静に考えるなら、政治家が語る美しい理想というのは、国民の目を現実から逸らし、政策の失敗を隠蔽する手段であると言うことができないわけではない。そもそも、政治家は、理想や意図ではなく、結果によって評価されるべき存在であり、この意味において、これからの4年間は、政治が正道に回帰する4年間になるかも知れない。

 たしかに、最初のうち、世界は、この「逆コース」に強い違和感を覚えるかも知れない。この逆コースは、無軌道でも無秩序でもないけれども、少なくともリベラルの目に、トランプのアメリカは、民主主義に対する一種の挑戦と映るはずである。

 しかし、アメリカ人はよくわからないが、少なくとも平均的な日本人は、1年もしないうちに、アメリカの新しい体制に慣れてしまうであろう。一般的には、新しい状況にすぐに順応し、昔のことを忘れてしまうのは、決して好ましいことではない。ただ、今回の場合、理想を多く語らぬ政治、力まかせの政治が登場することにより、オバマの8年間が日本(と世界の多くの国)に与え続けた「軽いがっかり感」から解放されることは確かであるように思われる。


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