AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年11月

Sandwich from my childhood

レストランで料理と一緒に出されるパンには、バターもオリーブオイルもつけない

 パンを食べるとき、何もつけないことがある。レストランに行き、西洋料理と一緒にパンを食べるとき、パンは、単独で食べるものとして食卓に出されているのではなく、料理のソースを味わうためのスポンジのようなものとして使うことが期待されている。パンのこのような使用法を考慮し、私自身は、バターやオリーブオイルが食卓にあっても、これらには手をつけないことにしている。

 ただ、もちろん、バターやオリーブオイルとともにパンを食べるのがレストランではマナー違反に当たるわけではない。そもそも、西洋料理のマナーなど、大して厳密ではないし、西洋人自身がマナーに忠実であるわけでもない。よほど高級な料理店での食事でないかぎり、「食べたいように食べる」のが一番である。

パンに直接ジャムだけをつけて食べるのは是か非か

 しかし、私たちが朝食にパンを食べるとき、パンは、主な栄養源と見なされている。したがって、料理に添えられたパンとは、当然、食べ方が異なる。

 とはいえ、少なくとも私自身にとっては、避けるべき食べ方、あるいは、あまりおいしくない食べ方というものがある。私が決してしないことにしているのは、パンにジャムをつけて食べることである。正確に言うなら、パンにバターをつけず、ジャムだけで食べることは、私にとっては禁忌である。

 私は、ジャムと一緒にパンを食べたいときには、必ずバターを一緒につける。私の家族が全員このようにしてパンを食べていたからであり、私もまた、これを見て育ったからである。この意味では、ジャム(だけ)をつけてパンを食べることを避けるのは、習慣にすぎないと言うことができる。だから、小学生のとき、トーストにジャムを直につけて食べている人間を初めて目撃したときには、少なからず驚いた。上半身には何も身につけず、パンツ一丁とマフラーと長靴だけで冬の繁華街を歩いている人間を見たような、何か見てはいけないものを見てしまったような気がしたのを今でも覚えている。

バターを加えるとインパクトの強い味になる

 とはいえ、習慣には関係なく、パンにに(バターなしで)ジャムを直につけて食べると味気ないことは確かである。製造している山崎製パンには申し訳ないが、次の商品は、私にはとてもまずく感じられた。(「ジャムパン」という言葉で私が思い浮かべるのは、バターとジャムがついたパンのことであるが、これは、商品名のとおり、コッペパンの中にイチゴジャムが入っているだけの食品である。)

山崎製パン | 商品情報 | 商品情報[菓子パン] | ジャムパン

 むしろ、(健康的であるかどうかはわからないが、)次の商品の方が、食べものらしい味わいがするように思われる。

山崎製パン | 商品情報 | 商品情報[菓子パン] | コッペパン(ジャム&マーガリン)

 パンにジャムをつけるときにバターが必須であるのは、単なる甘味よりも、塩分と脂肪分が加わった甘味の方が脳を刺戟するからである。これは、次の本に記されているとおりである。

コクと旨味の秘密 (新潮新書) : 伏木 亨 : 本 : Amazon

 もちろん、「ジャムだけ」か「バターとジャム」か、これは、いずれかが正しいという問題ではないのかも知れない。ただ、私の狭い見聞の範囲では、ヨーロッパの食卓では後者の方が普通であり、ジャムを直につけて食べるパンというのは、スコーンのように、すでに脂肪分と塩分が添加されているものに限られるような気がする。

 「ジャムパン」がジャム入りのパンであるというのは、個人的には何ともわびしく感じられるのだが……。


Image from page 440 of

 これは、下の記事の続きである。


人工知能の限界 あるいは遊戯のオリジナリティ : アド・ホックな倫理学

人工知能の能力は、人間に「できた」ことを精密に模倣する能力である 人工知能がどのような影響を社会に与えることになるのか、正確に予測することは困難である。しかし、現在の世界において「職業」と見なされているもののある部分が人工知能によって置き換えられるのは間


 理論的には、人生全体を遊戯にすることは簡単である。自分が遊戯――ゲームではない――として専念することができるようなものを人生の中心に置き、生活の残りの部分を、この遊戯に奉仕するように組み立てればよい。「遊戯として専念することができるもの」とは、他の何か――たとえば生活の糧を得ること――の手段であるかぎりにおいて意味を持つものではなく、それ自体が目的であるような活動である。

 しかし、「遊戯として専念することができるようなものを見つけ、これを中心に生活を組み立てればよい」という見解は、少なくとも2つの反論をただちに惹き起こすはずである。すなわち、

    1. 「遊戯として専念することができるようなものは仕事とは言えないし、そうでなければ食って行けない」という反論、そして、
    2. 「遊戯として専念することができて、それ自体が目的となるようなものを見つけるなど不可能である」という反論

である。たしかに、少なくとも現在の社会では、この反論は決して誤りではない。

 とはいえ、人工知能が高度に進歩し、多くの職業が人工知能によって担われ、言葉の本来の意味における「職業」ではなくなるとき、それにもかかわらず、人工知能には、私たちが実際に遊戯として専念しているものに関し、これを代理することは不可能である。

 現在では、職業というのは、遊戯となりうるどうかを基準として選ばれ、評価されているのではなく、生活の糧を得るための効率、あるいは、社会的な影響を基準として選ばれることが少なくない。しかし、社会における人工知能の役割が大きくなるとともに、職業選択の基準や職業の評価もまた、おのずから変化するはずであり、最終的に、遊戯として専念することができるようなものを何も持たない者は、生活の糧を何によって得ていたとしても、社会における位置を失うことを避けられないであろう。

 そもそも、人生というのは、何か人生の外部にある何かに奉仕するものではなく、それ自体が目的と見なされるべきものである。人生の外部には何もないのである。もちろん、「人生の目的」なるものを設定することは可能であり、また、好ましいことでもある。ただ、人生の外部に目的を設定することは、人生のそれ自体としての価値の否定に他ならない。「人生の目的」は、みずからの人生の内部に――必ず恣意も「自分だけのために」ではなく――求められるべきものであり、それにより初めて、人生は、みずからを目的とするもの、つまり遊戯となる。

 人工知能が社会において担う役割が大きくなることは、社会生活の外見をごく表面的に変化させるばかりではない。近い将来のことはよくわからないが、少なくとも遠い将来――何十年、何百年も先――職業や仕事というものの観念は、現在とはまったく異なるものになっているはずである。


Fritz Lang - Metropolis still 1

人工知能の能力は、人間に「できた」ことを精密に模倣する能力である

 人工知能がどのような影響を社会に与えることになるのか、正確に予測することは困難である。しかし、現在の世界において「職業」と見なされているもののある部分が人工知能によって置き換えられるのは間違いないように思われる。

 人工知能によって置き換えられる可能性が高い職業について、さまざまな観点からさまざまな予測が試みられているようであるけれども、これもまた、正確な予測は困難である。ただ、人工知能の本質を考慮するなら、次の点は確かである。すなわち、仕事に携わる者の個性を成果に反映させることを求められないような職業は基本的にすべて人工知能に置き換えられる可能性がある。求められるのが高度な知識や正確な技術にすぎないような仕事は、人間のするものとは見なされなくなるであろう。

 医師や法律家は、高度に知的な職業であるように見えるけれども、その業務内容のかなりの部分は、人工知能に奪われるはずである。たとえば、X線写真を読影して単純な怪我を治療したり、適切に投薬したりすることには、人間の個性などまったく要らないからである。遠い将来、技術を競うようなタイプの仕事には、もはや医師は必要とされず、医師の業務として残るのは、患者のケア――キュア(治療)ではなく――だけとなるに違いない。(だから、医師の場合とは異なり、看護師、ソーシャルワーカー、臨床心理士などの仕事の大半は、人工知能では置き換え不可能である。)法律家についても事情は同じである。「法律家なら誰がやっても同じ」であるような仕事は、人工知能によって置き換えられるはずである。

 以前に書いたように、人間に「できた」ことなら何でもするのが人工知能の本質である。つまり、人間がなしえたことを機械的に再現したり、これを組み合わせたりする能力に関するかぎり、人工知能は人間よりもすぐれているに違いない。しかし、人工知能には、人間に「できる」ことなら何でもできる能力が具わっているわけではない。というのも、人工知能には、独創性(オリジナリティ)が決定的に不足しているからである。つまり、本質的に新しいものを産み出すのは、人間だけなのである。


人工知能と「贋作の時代」の藝術作品 : アド・ホックな倫理学

しばらく前、精巧な贋作を大量に製作した人物のドキュメンタリーを観た。NHKオンデマンド | BS世界のドキュメンタリー シリーズ 芸術の秋 アートなドキュメンタリー 「贋(がん)作師 ベルトラッチ~超一級のニセモノ~」 この人物は、贋作が露見して逮捕、告訴さ



 もちろん、既存のものの組み合わせを「オリジナリティ」と呼ぶなら、人工知能にもオリジナルなものを産み出すことができると言えないことはないが、それは、表面的な目新しさにすぎない。人工知能が「作る」歌謡曲――厳密には、人工知能が歌謡曲を作るのではなく、人間が人工知能に歌謡曲を作らせるのであるが――がどれほど多くの聴衆を惹きつけるとしても、それは単なる見かけ上の新しさにとどまるのである。

オリジナリティは、学習の失敗によって生れるエラーではなく、遊戯のうちにあり、仕事を遊戯に変えるものである

 人工知能にはオリジナリティがないこと、したがって、オリジナリティあるいは「その人らしさ」が求められるようなタイプの仕事は人工知能によって置き換えられないことは、これまで繰り返し語られてきた。そして、この問題に関する支配的な見解は、オリジナリティの意味を、学習の失敗によって産み出されるものとして把握する。言い換えるなら、オリジナリティとは、人間の模倣能力が不正確であることが原因で発生する一種のエラーであると考えられていることになる。

 しかし、オリジナリティがエラーであるという主張は、必ずしも妥当ではないように思われる。たとえば、工藝、演藝、音楽、武術などにおける達人や名人は、すぐれた技能や技巧を披露することができるという理由によって「達人」や「名人」と呼ばれているわけではない。彼ら/彼女らが産み出すものには、彼ら/彼女らの個性が反映されており、極められた「」に反映された個性が評価されているのである。

 とはいえ、「藝」の上達の道は、素人には一直線であるように見えるけれども、実際には、上達するほど、「どちらに向かうと前進したことになるのか」明らかではなくなる。そして、このようなレベルに辿りついた者たちは、「達人」「名人」などと呼ばれ、「三昧」と呼ぶことのできる境地で「藝」の上達のために試行錯誤を繰り返すことになるはずである。(だから、これは一種の「遊戯」である。)ここで発揮されるオリジナリティは、記述可能な到達点を基準として測定されたエラーなどではない。そもそも、「藝」には決まった到達点などないからである。

 同じことは、普通の仕事についても言うことができる。それ自体を目的とするふるまい、つまり「遊戯」になりうる職業、そして、遊戯が成果として評価されるような職業は、オリジナリティを要求されるがゆえに、人工知能によっては決して置き換えることができない。残念ながら、いわゆる「会社員」が担っている仕事のかなりの部分は、オリジナリティとは無縁のもの、成果を測定する明瞭な基準が定められているものである。(もちろん、設定された基準の中には、たとえば「売り上げ」のように、明瞭であるが正当性のハッキリしないものもある。)

 これらの仕事がすべて人工知能に委ねられるとき、すべての仕事は遊戯となる。そして、各人は、みずからの職業を――期待される給与ではなく――遊戯として専念しうるかどうかにもとづいて選択することになるに違いない。


Beautiful hands with french manicure

クリームも手袋もサプリメントも、私には効果がなかった

 私は、子どものころから、指先の「あかぎれ」と「ひび」に悩まされていた。また、ある時期からは、湿疹のようなかゆい水疱がまでできるようになった。10年くらい前まで、冬になると、いや、場合によっては他の季節にも、指先がガサガサとして、ウロコのようになり、つねに軽い痛みを指先に抱えていた。タオルで手を拭くと、繊維が皮膚のひび割れた部分に引っかかるほどであった。

 冬には絆創膏が欠かせなかった。指先のひび割れたところが出血するからである。また、水疱をかき壊すと、大変なかゆみに苦しめられることになる。冬というのは、ながいあいだ、指先のトラブルの季節であった。手の10本の指のうち7本から8本には絆創膏が巻かれているのが普通であった。当然、このような状態では、ペンを握るにも、パソコンを打つにも一苦労となるが、そればかりではない。会議室や応接室で仕事関係の打ち合わせがあるときには、手を相手に見せないようにしなければならなかった。私の指先を見た相手がギョッとしたような顔をすることが多かったからである。たしかに、すべての指先が絆創膏で覆われているのを見れば、不審に思うのが自然であろう。

 もちろん、何の対策も講じなかったわけではない。最初に試したのは各種のクリームである。しかし、少なくとも、保湿成分を含むクリームは、私には何の効果もなかった。

 手袋も使った。外出するときばかりではなく、寝るときも湿度を逃さないよう、ビニールの手袋を付けていた。仕事中と食事中以外、手をずっと手袋に入れていた年もあった。しかし、手袋は、つけているあいだは快適――とはいえ、蒸れることはあった――であるけれども、はずしてしまえば、指先の状態はもとに戻ってしまう。

 ビタミンEを含むサプリメントを試したこともある。しかし、これもまた、目に見える効果はなかった。

「あかぎれ」の主な原因は「指先の乾燥」ではなく「全身の冷え」

 ちょうど、これらを一通り試した10年くらい前の冬、別件で病院に行く機会があった。診察を受けているとき、指先をチラッと見た医師から、絆創膏だらけの理由を尋ねられ、私は、「あかぎれ」であると答えた。すると、医師から、「あかぎれ」の最大の原因は「乾燥」ではなく「冷え」、特に体幹の「冷え」だから、身体を温めると効果的である、という意味のことを言われた。

 私は、それまで、特に身体を冷やすような服装をしていたわけではなかったけれども、たしかに、ゴロゴロと着込む方ではなかったが、医師の忠告をうけ、試しに、自宅にいるときにも防寒の下着と厚手のパーカーを常時着用して過ごしてみたところ、指先の状態が数日のうちに急速に改善された。少なくとも、絆創膏を必要とするような状態ではなくなった。やはり、私の場合、「あかぎれ」の原因は冷えであったようである。

 その後は、毎年冬になると、身体を冷やさないよう、徹底的な厚着を心がけており、そのせいか、この数年は、指先の皮膚がウロコのようになることはない。また、私の体験の範囲では、この状態でクリームを使用することは、銘柄に関係なく、とても効果的である。

 一般に「冷え」というのは、身体の不調の多くの原因の一つになっているものであるから、身体は冷やすよりも温めた方がよい。フリース1枚で「あかぎれ」が軽減され、体調の改善にもなるのであれば、これは、ずいぶん安上がりな解決法であると言うことができるように思われるのだが……。


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「ライフハック業界」(?)は無視すべし

 「TO-DOリスト」を作ることは、タスク管理の手段の1つ、しかも、もっとも原始的な手段の1つであると普通には考えられている。「なすべき」(to do)ことを紙に箇条書きにすること、そして、終わったら線でこれを消すこと、TO-DOリストの使い方はこれで尽きている。

 もちろん、この原始的なタスク管理は、なすべきことの単なる箇条書きでしかないから、それぞれの事項の優先順位も関連も記されてはいない。そこで、最近約50年のあいだに、タスクを上手に組織するとともに、これを確実に実行し消化することを標榜する多種多様な「仕事術」が姿を現した。もっとも有名なのは、デイヴィッド・アレンの”GTD” (= Get Things Done)である。

ストレスフリーの仕事術―仕事と人生をコントロールする52の法則

 このような仕事術はすべて、もっとも原始的なTO-DOリストを批判的に発展させることで生まれたものであり、「ライフハック」(lifehack) などと呼ばれている。私は、これらを「自己啓発書」「セルフヘルプ」に含めて理解している。

 そして、この「ライフハック業界」(?)が花盛りだからなのであろう、現在では、「仕事術」の提案自体を職業とすることすら可能になっているようである。実際、専業の「仕事術ライター」と呼ぶことのできる者たちは、日本にも外国にも見出すことができる。しかし、誰が考えてもすぐにわかるように、このような者たちが実践しているのは、「仕事術を産み出す」というきわめて特殊な仕事であり、この自己完結した自己言及的な試みが社会生活の質の向上に貢献するとは考えにくい。実際、これら「仕事術ライター」たちの提案する「仕事術」は、少なくとも私の目には、裨益するところの乏しいものと映る。

 そもそも、「仕事術」なるものは、一人ひとりがそれぞれの状況に応じて試行錯誤の中で手作りすべきものであり、他人から教えてもらうものではないはずなのだが……。「仕事術」「ライフハック」などの言葉が表紙に印刷された書物を何冊も読むことは、それ自体としてすでに、仕事に対する態度が根本的に転倒していることの証拠であるように思われるのである。

TO-DOリストを作ると効果的な状況の3つの条件

 私自身は、「仕事術」や「ライフハック」からは距離をとるころにしており、また、TO-DOリストも、できるかぎり作らないことにしている。

 私がTO-DOリストを作るのは、次の3つの条件をすべて満たす状況が出現したときである。すなわち、

        1. デッドラインまでの時間が非常に短く(長くても半日以内)
        2. デッドラインまでのあいだに完了させるべき「タスク」が非常に多く、
        3. さらに、「タスク」がすべて単純作業であり、順序を決めてこれらを一気に片づけることが必要であり可能でもある

場合、TO-DOリストを作ることは仕事の効率を向上させるのに有効であり必須であると私は考えている。

 当然、TO-DOリストにはメモ用紙を使う。


手帳を使わずメモ用紙で予定を管理する 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

手帳やメモ帳は使わない スケジュールを記入する小さな冊子は、一般に「手帳」と呼ばれている。これは、社会において何らかの役割を担っている大人なら、当然、少なくとも1人に1冊は持っているべきもの、いや、持っているに決まっているものであると普通には考えられている



 箇条書きになったタスクがすべて終わるとともに、紙を捨てることが可能であり、それとともに、完了した仕事を意識から追い出すこともできるからである。(「ライフハック」マニアが好む「週次レビュー」や「月次レビュー」など、もちろん、私はやらない。それは、マクドナルドで買ったハンバーガーの包み紙を保存しておき、定期的にこれを舐めてハンバーガーの味を無理に思い出すことをみずからに課すのと同じようなものであり、精神衛生上決して好ましくない作業だと思うからである。)

完了しないタスクがTO-DOリスト上に残ったら、「本当にやる必要があるのか」を自問してみる

 だから、私は、現在から数えて24時間以上経過しないと着手することができない事柄については、TO-DOリストは作らないことにしている。TO-DOリストに載せるのは、「すぐに済ませないと不都合が生じる」ことだけである。というのも、タスクを実行する日時が現在から遠くなるほど、そのタスクを実行するときの状況、その日時におけるタスクの優先順位がハッキリしなくなり、実行されないままTO-DOリスト上に残る危険が高くなるからである。完了しないタスクがTO-DOリストに残っていることは、気分的な負担にもなるはずである。

 だから、終わらないタスクがTO-DOリスト上に残ったら、そのリストは一旦捨て、現在の状況と優先順位を考慮しながらリストを作りなおすのがよい。(これもまた、TO-DOリストをメモ用紙で作らなければできない動作である。)タスクが終わらなかったのには、それなりの理由がある。1つのタスクを分割すれば問題が解決することがないわけではないが、それ以上に真面目に検討すべきなのは、それが本当にする必要があり、する価値のある仕事であったのかという点である。「面倒である」「煩わしい」などの理由で先送りされてきたタスクであるなら、やめてしまってもかまわないこと、あるいは、少なくとも、自分でする必要のないことである可能性がある。「やりたくないことで、やらなくてもかまわないことは、できるかぎりやらない」というのは、生活をシンプルにするための一般的な原則でもあるように思われるのである。


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