AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年11月

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手帳やメモ帳は使わない

 スケジュールを記入する小さな冊子は、一般に「手帳」と呼ばれている。これは、社会において何らかの役割を担っている大人なら、当然、少なくとも1人に1冊は持っているべきもの、いや、持っているに決まっているものであると普通には考えられているようである。しかし、私は、社会においてささやかな位置を占めているけれども、手帳を本格的に使ったことがない。(職場で手帳を毎年支給されるが、受け取っていない。もらっても使わないからである。)

 ひとりの人間にとって手帳が必要となる程度は、その人間の生活の不規則の程度に比例すると言うことができる。毎日、毎週、毎月、毎年、判で押したようにまったく同じスケジュールで生活している者には、手帳など不要である。また、生活の外見がどれほど不規則であっても、スケジュールを自分で管理しなくてもよいのなら、やはり、手帳は不要である。たとえば、有名な芸能人や政治家のように、自分に代わって誰かがスケジュールを管理してくれる者は、手帳を持たないはずである。手帳にみずから記入すべきことが何もないからである。

 これに対し、同じスケジュールの日が2日とない者、毎日が不規則な予定の複雑な組み合わせからなる者、しかも、スケジュールを自分で管理しなければならない者にとり、手帳を欠かすことはできない。次に自分が何をすべきか、覚えていられないなら、何らかの仕方で記録しておく以外に道はないことは確かである。

 そして、私たちは一人ひとり、これら2つの極のあいだのどこかに位置を占めている。前者に近いなら、手帳の出番はほとんどないであろうし、反対に、後者に近い生活を送っているなら、手帳――あるいはネット上でのスケジュール管理――なしでは、生活が成り立たないに違いない。私自身が手帳を使わずに済んでいるのは、幸か不幸か、ワンパターンにかぎりなく近い生活を送っているからである。だから、自分の生活の規則正しさの程度を吟味し、手帳に書き込むことがそれほど多くないのであれば、手帳を使わずに済むかも知れない。

A6版1枚に1つの事項を書く

 私の場合、スケジュールの管理には、メモ用紙を使っている。普段のパターンから外れた予定が入るときだけ、これをメモにとることにしているのだが、用紙をわざわざ購入することはない。A4版の不要になった書類をペーパーナイフで4つに切ってA6版の紙を作り、裏面をメモ用紙として使うのである。A6版1枚には1つのことしか書かない。会議の予定をメモするときには、1回の(あるいは一続きの)会議の予定だけ、図書館で本を借りるときには、借りる本の情報だけ、ネット通販で何かを買うことを思いつき、しかし、今すぐには実行できないなら、商品の情報だけを書いておく。さらに、たとえば会議の予定がしばらく先であれば、大型の付箋に必要最低限の情報を書き込み、パソコンのモニターの縁に貼りつけておく。(1ヶ月以上先のスケジュールや定例のイベントの予定は、グーグルカレンダーに書き込む。)だから、私の手もとには、「手帳」も「メモ帳」もない。

 そもそも、手帳が必要となるのは、(1)現在よりもあとに実行されるはずのこと、しかも、(2)今すぐには実行することができないことを書きとめるためである。思いついて即座に実行可能なら、手帳に書くことはないであろうし、過去の予定をわざわざ手帳に書き込むこともないであろう。当然、完了した予定に関する情報をいつまでも手もとにとどめておく理由はないことになる。メモ用紙にスケジュールを記録する方式を私が気に入っているのは、(手帳やメモ帳とは異なり、)完了した予定が書かれた紙片を捨てられる点である。過去の予定を保存することが必要なら、あらためてA6版1枚に必要最低限のことを書いておけばよい。過去の予定を保存するのは、やはり将来の何らかの予定のためでしかありえないからである。


kokuto manju - wagashi

田舎とは郊外である

 私は、個人的には、田舎があまり好きではない。東京生まれ、東京育ちであり、故郷という意味での「田舎」を持たないからであるかも知れない。

 私は、日本の田舎の風景もあまり好きではない。人里離れた山奥まで行けば事情は違うのであろうが、自動車を運転せず、公共の交通機関と徒歩以外の移動手段を持たない私のような者が地方で実際目にするのは、「田舎」というよりも「郊外」や「片田舎」と呼ぶのにふさわしい空間であり、残念ながら、私には、緊張感を欠いた、しかも――よそ者の私にとっては当然のことながら――よそよそしいその空間の価値がよくわからない。したがって、(世間には、「田舎暮らし」に憧れる人がいるようであるが、)少なくとも今の私には、「田舎暮らし」というのは、あまり魅力的には思えない。自宅から1時間以内の場所に大型の書店があるわけでもなく、もっとも近いスーパーマーケットに行くのにすら自動車を使わなければならない生活というのが人間的であるようには思われないのである。

「田舎風」という居直り

 また、これも東京に住む者の偏見かも知れないが、私は、「田舎」と名のつく商品も好まない。実際、食品の名称で「田舎」の二文字が含まれているものには手を出さないようにしている。たとえば、田舎風の汁粉、田舎風の弁当、田舎風の蕎麦……。「田舎風」という表現は、製品の「おざなり」で洗練を欠いた仕上がり、完成度の低さに対する居直りの表現であり、このような居直りは、いわゆる「民芸品」にも同じように認めることができる。製品の仕上がりがおざなりであることの自覚が作り手自身にあるにもかかわらず、これをあえて「田舎風」と名づけて販売し対価を得ようとするという態度に、私は、何か気持ちのよくないものを感じるのである。

 同じ理由によって、私は、餡を用いた和菓子について「漉し餡」か「つぶし餡」か、いずれかを選ぶことができる場合には、必ず「漉し餡」、つまり小豆の皮が取り除かれたものを選ぶことにしている。というのも、餡の完成形態は「漉し餡」だからあり、「漉し餡」を標準とするとき、「つぶし餡」というのは完成度の低い田舎風のものと見なされねばならないからであり、さらに、「つぶし餡」には、完成度の低さに対する居直りが認められるような気がしてならないからである。

 なお、私は、(関東風の)「ぜんざい」に関し「栗(くり)ぜんざい」と「粟(あわ)ぜんざい」から選ぶことができるときには、断然「粟(あわ)ぜんざい」を選ぶ。(関西風の「ぜんざい」は、東京では「汁粉」と呼ばれている。)家族から「『栗(くり)ぜんざい』を有り難がるのは田舎者」と言われるの聞いて育ったせいもあるのかも知れないが、「栗(くり)ぜんざい」は、つねに何となく魅力に乏しいように感じられるのである。(とはいえ、なぜ「栗(くり)ぜんざい」が田舎風なのか、よくわからないのだが。)もっとも、東京でただ「ぜんざい」と呼ばれているのは、ほとんどの場合、「栗(くり)ぜんざい」であり、「粟(あわ)ぜんざい」が食べられるところは、決して多くはない。


Bakery

独り暮らしの場合、保存の工夫は必須

 スーパーマーケットやパン屋で袋に入って売られている食パンやコッペパンには賞味期限が記されている。パン屋の場合、精算のときに賞味期限を確認し注意喚起してくれるところもある。また、あらかじめ袋に入っていない商品をパン屋で買う場合、賞味期限は記されていない。このような種類のパンは、できるかぎり早く消費しなければならないからである。

 パンが作られるときにどのような添加物が使用されているかにより若干異なるけれども、賞味期限は、製造日から長くて常温で4日、短い場合には2日というのが普通である。しかし、たとえば6枚切りの食パン1斤を2日で消費することは、独り暮らしでは不可能であろう。したがって、賞味期限を超えても食べることができるよう、パンを保存することが必要となる。

パンは冷凍して保存し、トーストの場合は冷凍のまま、それ以外の場合は1時間以内の自然解凍

 とはいえ、パンを保存する方法は1つしかない。それは、冷凍することである。

 ビニールの袋にあらかじめ入っているスライス済みの食パンは、買ってきたらすぐにそのまま冷凍庫に放り込んでかまわない。もう少し手間をかけるつもりがあるのなら、食パンを1枚ずつラップに包み、これらをまとめてビニール袋に入れて冷凍庫に保存するとなおよい。冷凍庫内は乾燥しており、わずかずつではあるが、パンの水分が奪われて行くからであり、パンを二重に包む方が、乾燥を防ぐには効果的だからである。

 食パン以外のパンは、買ってきたらすぐに、1回で食べきることができる分量に切り分け、まとめてビニール袋に入れて冷凍庫で保存する。あるいは、切り分けたものを1つずつラップに包み、これをまとめてビニール袋に入れて冷蔵庫に保存する。理由は上と同じである。

 食パンをトーストする場合には、冷凍のままトースターまたはオーブントースターに放り込んで焼けばよい。(私自身は、魚焼き用のグリルでトーストを作っている。)トーストしない場合には、食べる分だけ冷凍庫から出し、室温で放置すると1時間以内に解凍される。だから、朝食用のパンは、前日の就寝前に冷凍庫から出しておけばよいことになる。

 冷凍した場合、半永久的とまでは言わないが、少なくとも1ヶ月はおいしく食べることができる。ただ、スーパーマーケットで売られている一部の丸型パンについては、冷凍の期間が長くなると、うまく解凍されず、何となくパサパサしていたり、あるいは、反対に、表面がベタベタしていたりすることがあり、注意が必要である。(食べられないわけではないが、何となく食感がよくない。)これは、パンの表面積と関係があるのかも知れない。

パンは買ったらすぐに帰宅する

 なお、パンというのは、決して保存食ではない。むしろ、本質的には生鮮食品の一種と考えるべきものである。実際、添加物が使われていない食パンをビニール袋に入れて室温で放置すると、1週間以内にカビが生えてくる。いくら待ってもカビが生えてこない食パンには、保存料が添加されているはずである。フランスパンの場合、室温で3日くらい放置すると、周囲の湿気を吸ってフニャフニャになることもあれば、水分を奪われてカチカチになることもある。もちろん、さらに放置するとカビが生えてくるのは、食パンの場合と同じである。

 カビが生えたパンは、決して食べてはならない。というのも、青や黒のカビが目につくようなったときにはもう、目に見えない白いカビがパン全体に広がっているはずだからであり、カビというのは、基本的には毒を持っており、口にすると危険だからである。(発酵食品の製造に利用されるカビは、品種改良され無害化されたものであり、特殊なカビであると考えるべきである。)

 だから、出先でパンを購入したら、できるかぎり早く帰宅し、小分けにして冷凍庫に放り込まなければならない。パンは鮮魚と同じようなものであるから、パンを買ってから、その足でさらにどこかに出かける、パンを買った帰りにカフェに立ち寄っておしゃべりするなど、「パン」を「鮮魚」に置き換えてみれば、問題外の行動であることは明らかであろう。

 同じような理由で、自宅からあまりにも遠い場所でパンを購入するのも、避けた方がよい。たとえば、千葉県松戸市には、次のような有名なパン屋がある。

zopf|パン焼き小屋 ツオップ

 また、神奈川県湯河原町にある次のパン屋も、よく知られている店である。

BREAD & CIRCUS

 しかし、これら名店であることは知っていても、また、どれほど時間に余裕があっても、私は、これらの店でパンを購入し、自宅に持ち帰るつもりはない。いずれの店に行くのにも、私の自宅から片道2時間以上かかるからである。私は、帰宅に1時間以上かかる場所にある店ではパンを購入しないことにしている。また、パン屋を含む複数の店で買いものするときには、パン屋を最後にすることにしている。これは、パンの鮮度を保持するための小さな工夫、しかし、とても効果的な工夫である。


Jonah Who Lived in the Whale ....

狂信の政治

 2016年のアメリカ大統領選挙は、これまでの選挙とはいろいろな点において性格を異にする選挙であったと言うことができる。そして、そのせいなのであろう、マスメディアの多くが今回の選挙の特異な点をさまざまな観点から報道していた。

 特に、マスメディアにおいて繰り返し強調されていたのは、ドナルド・トランプを支持する有権者の熱狂である。外国、特に自由民主主義を標榜する先進国の平均的な国民の目に、この熱狂はいくらか不気味なものと映ったはずである。アメリカの大統領選挙の様子を伝えるヨーロッパのメディアがいずれもトランプの主張、あるいは、トランプの主張に賛同する狂信的な支持者を一様にペジョラティヴに扱い、さらに、狂信の経済的、社会的な背景の説明に多くの文字数と時間を費やしてきたのは、ある意味においては自然なことである。たしかに、多くのアメリカ人が社会の現状に対する強い不満を抱いているとしても、荒唐無稽で実現不可能な政策、あるいは、アメリカの国益を損なうことが確実な政策ばかりを掲げる候補者にこれほど多くの支持が集まるのか、当事者ではない者にとり、これは謎であるし、その理由を知りたいと考えるのは、当然のことである。

 とはいえ、狂信の原因がわかったとしても、現実に狂信に囚われている者たちとの意思疎通が可能となるわけではない。狂信者は相変わらず狂信とともに、あるいは、狂信のうちにあり、立場を異にする者が合意形成を目指して何かを語りかけても、耳を貸さないばかりではなく、内容を理解することのできぬまま、あるいは、理解する意欲もないまま、断片的な言葉を捉え、いわば「脊髄反射」のように誹謗中傷の言葉を相手に浴びせかけるばかりである。オープンな議論を拒むこと、「友でない者はすべて敵」というのが政治的狂信の意味だからである。

 民主主義が成立するためには、オープンな議論が不可欠である。オープンな議論の「オープン」の意味は、当事者の態度がオープンであることを意味する。すなわち、議論のプロセスにおいて自分の意見を柔軟に変えることを拒まないような当事者による議論がオープンな議論である。そして、オープンな議論にもとづく合意形成の原則は逆、つまり「敵ではない者はすべて友」である。

 そして、このようなタイプの狂信が現実の政治の場面に姿を現す――イギリスのEU離脱やアメリカの大統領選挙が典型である――と、「真理にもとづかない政治」(post-truth politics)「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) などと呼ばれることになる。事柄の真相や合理的な判断から目をそむけ、幻想や妄想だけを頼りに生きている姿は、覚醒剤中毒の患者を私たちに想起させるはずである。

「友でない者はすべて敵」という狂信は日本にもある

 しかし、このような狂信は、アメリカばかりではなく、わが国にも見出すことができる。ただ、日本人は、不気味な狂信のにおいを感じると、アメリカのようにこれに光を当てるのではなく、むしろ、これを話題にすることを避ける点に違いがあるだけである。先日、次のような記事を見つけた。

日本人の無自覚な沖縄差別

 私自身は、この記事に強い違和感を覚えた。その理由は、上に述べた点にある。すなわち、沖縄の「反基地」活動が「無自覚」の「差別」に対する反作用であるというのは、いかにも左翼の好みそうな見立てであり、しかも、一連の出来事の複雑な真相を切り捨てることによって作られた底の浅い見立てである。

 平均的な日本人が沖縄の基地問題について多くを語らないのは、関心がないからではない。そうではなくて、「反基地」活動に従事する運動家(つまり「プロ市民」)に不気味な狂信のにおいを感じるからである。実際、沖縄の運動家たちは、万人に対し全面的な同意をつねに強要する狂信者である。彼らにとり、自分たちの主張は絶対に真であるから、「友ではない者はすべて敵」となる。つまり、自分たちの意見に賛成しない者はすべて敵となる。彼らにとり、意見の一致を目指してオープンな議論に参加し、全員で協力して最適な解を見出す努力など、思いもよらないであろう。

 しかし、当然のことながら、無条件の同意を他人から強要され、「友ではない者はすべて敵」などと言われたら、私たちは誰でも、非常に窮屈な思いをする。そして、このような狂信者のことは、できるかぎり考えないようにするはずである。多くの日本人が沖縄について多くを語らないのは、狂信を忌避する自然な反応である。沖縄の「反基地」活動は、「差別」に対する反作用という観点からではなく、何よりもまず、狂信という観点から語られるべき事柄であるように思われるのである。


Well Wishers

祝日は単なる休みの日ではない

 2016年1月1日現在、わが国には「国民の祝日」が16日ある。すなわち、「元日」「成人の日」「建国記念の日」「春分の日」「昭和の日」「憲法記念日」「みどりの日」「こどもの日」「海の日」「山の日」「敬老の日」「秋分の日」「体育の日」「文化の日」「勤労感謝の日」「天皇誕生日」の16日である。なお、国民の祝日が16日というのは、世界的に見ると多い方であると一般には考えられている。(アメリカには祝日が10日しかない。)

 言うまでもないことであるが、国民の祝日は、「祝日法」(=「国民の祝日に関する法律」)第3条にもとづき休日になることが決められているが、もちろん、単なる「休みの日」ではない。国民の祝日には、それぞれの祝日の趣旨に従って何かを「祝う」ことが必要である。祝日法第1条は、「国民の祝日」の意味について、

自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける

と説明する。国民の祝日というのは、単なる「仕事のない日」でもなければ、「家族サービスの日」でもないのである。私自身は、たとえば「建国記念の日」(←紀元節)、「春分の日」(←春季皇霊祭)、「昭和の日」(←天皇誕生日)、「秋分の日」(←秋季皇霊祭)、「文化の日」(←明治節)などには、少なくとも国公立の小学校と中学校を休みとせず、児童と生徒を全員登校させ、「祝う」という言葉にふさわしい何らかの行事を実施すべきなのではないかとひそかに考えている。

「祝え」と言われても、何を祝ってよいのかわからない祝日が多い

 とはいえ、それぞれの祝日に祝うべき事柄は、きわめて曖昧である。上に挙げた5つの祝日は――底の浅い左翼は嫌うであろうが――その意義が比較的明瞭であるが、中には、なぜ祝日に定められているのがよくわからないもの、休日を増やすためだけに国民の祝日に加えられたのではないかと疑うようなものもある。

 祝日法第2条には、それぞれの国民の祝日の意味が記されている。

第二条  「国民の祝日」を次のように定める。

元日 一月一日 年のはじめを祝う。

成人の日 一月の第二月曜日 おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。

建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。

春分の日 春分日 自然をたたえ、生物をいつくしむ。

昭和の日 四月二十九日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。

憲法記念日 五月三日 日本国憲法 の施行を記念し、国の成長を期する。

みどりの日 五月四日 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。

こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。

海の日 七月の第三月曜日 海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。

山の日 八月十一日 山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する。

敬老の日 九月の第三月曜日 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。

秋分の日 秋分日 祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ。

体育の日 十月の第二月曜日 スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。

文化の日 十一月三日 自由と平和を愛し、文化をすすめる。

勤労感謝の日 十一月二十三日 勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。

天皇誕生日 十二月二十三日 天皇の誕生日を祝う。

 (なお、上に掲げられた国民の祝日のうち、建国記念の日だけは「政令で定める日」となっており、具体的な日付がないけれども、昭和41年に「建国記念の日」が新たに国民の祝日になって以降、現在にいたるまで、戦前の「紀元節」に当たる「2月11日」に固定されている。)

 たとえば「体育の日」は、1964年の東京オリンピックを記念し、開会式の日(10月10日)を祝日にしたものであるが、「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」祝日というのは、まったく意味不明である。少なくとも、東京オリンピックの開会式以降に生れた国民にとっては、何を祝えばよいのかサッパリわからない日である。

 あるいは、「文化の日」に与えられた「自由と平和を愛し、文化をすすめる」という説明もまた、完全に意味不明である。名称を「明治の日」に改めた方がよいかどうかは、よくわからないけれども、少なくとも現状では、何をどのように祝えばよいのかわからないことは確かである。

 さらにひどいのは、「春分の日」と「秋分の日」である。上の条文では、それぞれの趣旨に関し「自然をたたえ、生物をいつくしむ」「祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ」と記されているけれども、あまりにも抽象的で意味がわからない。しかも、問題は、「春分の日」が「春分日」に、「秋分の日」が「秋分日」にそれぞれ置かれている点にある。つまり、昼と夜の長さが同じ――厳密に天文学的に言うと少し違うらしい――になる日が祝日と定められているのである。「昼と夜の長さが同じ」であることの何がめでたいのか、私には理解することができないが、少なくとも、国民の大半は、「昼と夜の長さが同じになったぞ、さあ祝え」と言われても、困惑するばかりであろう。

祝うべき事柄を明らかにした上で、不要な祝日は廃止すべき

 さらに、16の国民の祝日のうち、「成人の日」「春分の日」「海の日」「敬老の日」「秋分の日」「体育の日」の6日が移動祝日になっており、これらのうち、「成人の日」「海の日」「敬老の日」「体育の日」の4日が月曜日に置かれている。これは、連休を増やすための措置以外の何ものでもない。もちろん、休日を確保するために祝日の数を増やしたり、祝日を移動させたりするなど、祝日の趣旨に明らかに反する措置であると私は考えている。(労働者を休ませたいのなら、「国民の休日」あるいは「労働禁止日」――「『3』のつく日は一律休み」のような――を法律で定めればよい。)

 「何を祝うのか」という観点から国民の祝日を眺めると、不要な祝日が多いことがわかる。たとえば、「憲法記念日」(5月3日)と「みどりの日」(5月4日)は廃止しても一向に差し支えないに違いない。憲法記念日の廃止を主張すると、「護憲派」は憤慨するであろうが、実は、11月3日の「文化の日」(日本国憲法の公布日)が事実上の憲法記念日になっているのだから、5月3日を祝日にしなければならない理由はないのである。そして、5月3日が平日になれば、「憲法記念日」と「子どもの日」のあいだを埋めるためだけに作られた「みどりの日」もまた、不要となるであろう。

 祝日は、あくまでも「祝う」ため――条文のとおりに表現するなら、「祝い、感謝し、又は記念する」ため――に休日とされている日である。したがって、わが国全体にかかわる何かをその都度「祝う」ことが国民の責務であることになる。しかし、そのためには、それぞれの祝日に祝うべき事柄が明らかでなければならない。何を祝うのか、それは祝うに値する事柄であるのか、一つひとつ吟味し、場合によっては、国民の祝日を廃止することもまた、真剣に考慮すべきであるように思われる。


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