AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年11月

Pettegolezzi - Tittle-tattle

どうしてほしいかハッキリ言わないかぎり、誰も助けてくれない

 あなたが誰かの援助を期待するのなら、まずあなた自身が最初の一歩を踏み出さなければならない。

 「誰か俺のことを助けてくれないかな」と思ってただ周囲を見渡していても、誰も助けてくれないからである。いや、助けようがないと言うべきであろう。

  1. 第1に、あなたが何も発信しなければ、誰もあなたに気づきようがないからであり、
  2. 第2に、あなたが「助けてくれ」と言っても、何をどうすればあなたを助けたことになるのか、他人にはわからないのが普通だからである。

 あなたがニートであっても、被災者であっても、あるいは、難民であったとしても、さらに、経営難に陥った会社の社長であったとしても、この点に関し何ら違いはない。

 とはいえ、誰にとってももっともわかりにくいのは、「被害者」と呼ばれる存在である。というのも、各種のハラスメントでも、「いじめ」でも、その他の犯罪でも、あなたがみずからを「被害者」と規定することにより初めて、あなたを被害者とするハラスメントや「いじめ」や犯罪が成立すると一般には考えられているからである。言い換えるなら、ある出来事がハラスメントやいじめや犯罪であるかどうかを決めるのは「被害者」なのである。あなたが被害者として声を挙げ、当の出来事を指し示し、さらに、何をしたら具体的に助けたことになるのか、周囲に対して明らかにする努力をしなければ、あなたが何かに苦しんでいるとしても、周囲がこれに気づくことは不可能である。

いじめの「自家中毒」的構造

 私の見るところ、もっとも厄介なのは「いじめ」である。というのも、少なくとも私の知る範囲では、「いじめ」という出来事のきわだった特徴は、被害者が被害者として声を挙げにくい点にあるからである。

 「いじめ」の潜在的な被害者が声を挙げないのは、沈黙することが「学級/クラス」という流動性を欠いた「ムラ社会」の内部における「生き残り」の戦略として有効だからであるのかも知れない。(だから、被害者自身が「いじめ」の事実を否認することすらありうる。)つまり、「いじめ」は、被害者がみずから声を挙げ、被害の事実を確認することを妨げるばかりではなく、誰かが生命を失うようないたましい出来事が発生し、「いじめ」のプロセスが自動的に停止するまで、とどまることなく内攻するような構造をみずからのうちに具えているのであり、そのせいで、そこに「いじめ」が発生しているのかどうか、外部からの観察ではわからないのである。

 「いじめ」を「早期に発見」したり「抑止」したりすることが困難であるのは、このような「自家中毒」的な構造が「いじめ」に具わっているからであると考えることができる。(児童虐待もまた、構造という点では同じである。)

「いじめ」を逃れるシェルターが必要

 教員が公平な目を持っているとしても――現実には、教員は生徒や児童と「運命共同体」を作っているから、そのまなざしは少なからず歪むことを避けられないのだが――閉鎖的な集団の内部で起こる「いじめ」を外部からの観察によって発見することは困難であるとするなら、児童虐待の場合と同じように、「いじめ」の被害者についても、「シェルター」のようなものは必須であるに違いない。実際、すでに次のような意見もある。

いじめシェルター | はるかぜちゃん | note

 以前に書いたように、学級/クラスが消滅しないかぎり、「いじめ」はなくならない。それでも、学校や家庭から分離された「シェルター」があり、そこに逃げ込むことがいつでも許されるのなら、「いじめ」を早いうちに発見することが可能になるかも知れない。みずからが「いじめ」の被害者であることを確認すること、そして、「いじめ」の事実を被害者として語り、どうしたいのか、どうしてほしいのかを語ることができるようになり、周囲の人間もまた、被害者を正しい仕方で応援し支援することができるようになるはずだからである。

「いじめ」の原因は流動性の低さにあるから、学校がムラ社会であるかぎり、「いじめ」はなくならない : アド・ホックな倫理学

昨日の新聞に、下のような記事が載っていた。「重大事態」明確化を=被害調査に指針も-いじめ対策で提言・文科省会議:時事ドットコム 何が「いじめ」に該当するのか、その基準を明文化することを文科省の「いじめ防止対策協議会」が決めたようである、上の記事にあるよ



 

The Ladies at Ruth's

男性の「おひとりさま」は困難か

 しばらく前、次のような記事を見つけた。調査の結果、男性の4割がひとりで外食することができないことが明らかになったというニュースである。

「1人で外食」は「恥ずかしい」? 「できない」派、こんなにいた

 たしかに、私も、ひとりで外食する機会は必ずしも多くはない。私自身は、外食するのが「恥ずかしい」とは思わないが、冷静に考えてみると、出先で外食することを思い立ったとき、その時点で視界に入った飲食店の10軒に4軒は最初から「パス」する。入りにくいからである。

 男性が入りにくいと感じる店にはいくつもの特徴があり、それは、決して1つではないであろう。ただ、これらの特徴が全体として「入りにくい雰囲気」を作り出していること、そして、最近では、相当な数の飲食店がこれらの特徴を共有していることは確かである。

飲食店の大半は、男性を客だと思っていない

 私は飲食業界で働いたことがあるわけではなく、したがって、これは、あくまでも客としての狭い経験の範囲内での感想になるけれども、居酒屋や(蕎麦屋やラーメン屋を含む)一部のファストフード店を除くと、飲食店の店作りは、基本的に女性客を標的としていると言うことができる。そして、これもまた私の個人的な印象になるが、この点は、高級な――つまり「客単価」が高い――飲食店ほど顕著であるように思われる。つまり、客にたくさんのカネを使わせるタイプの店は、男性のあいだに得意客を見つけるつもりなど最初からないように見えるのである。実際、しばらく前、新宿のある飲食店が「男性のみの入店お断り」を掲げたことがニュースになった。

「『男性のみ』お断り」のイタ飯店 「差別」指摘受け、取った対応

 飲食店が女性客を標的とする店作りにいそしむ理由は明らかである。女性の方が男性よりも可処分所得が多いのである。

 男女の所得の格差がこれほど問題になっているにもかかわらず、不思議なことに、消費の場面では、女性の方がはるかに多くのカネを使ってきた。つまり、戦後日本の女性の消費生活というのは、本質的に「返済不要の借金による豪遊」(?)のようなものであり、以前に書いたとおり、私は、これが戦後の日本の文化と消費生活の堕落の最大の原因であると考えている。

専業主婦は文化の貧困の原因 〈私的極論〉 : アド・ホックな倫理学

女性の社会進出、正確に言うなら、女性が自活することができるだけのカネを稼ぐことは、日本文化の将来にとり、きわめて重要である。実現可能性をあえて完全に無視して言うなら、自分で自分の生活費を稼ぐことなく、いわば「専業主婦」として暮らしている女性をすべて家庭



 客単価の高い飲食店で食事する女性の大半が支払うのは、自分の所得をはるかに超える金額である。これでは、目の前に並ぶ料理の質を価格との関係で厳しく吟味し批評する「眼」など養われはずはない。しかし、事情がこのようなものであるなら、飲食店が「価格に見合う味の追求」ではなく「味音痴が散財したくなる雰囲気の追求」を優先させるようになること、また、財布の中味と相談しながら食事するような男性客が歓迎されないこと、したがって、男性がひとりで飲食店に入りにくくなるのは、当然なのである。(だから、私は、飲食店の評価に関する女性の口コミは基本的に信用しないし、女性が執筆したレストランやカフェのガイドブックの類もあまり信用しない。)

自分で稼いだカネで食事する者が主役となる外食文化へ

 数年前、所用で京都に行ったとき、昼どきにある飲食店に入った。それは、それなりに「お洒落」な雰囲気の店であったから、当然、私を除き、客は全員女性であった。私は、若い女性の集団に囲まれたような席でひとりで昼食をとったのだが、そのあいだ、周囲の冷ややかな視線をずっと感じた。すぐ近くの席にいた(おそらく20代前半の)女性数人が私のことをジロジロと眺めていたのを今でもよく憶えている。

 私は、店から入店を断られないかぎり、周囲の客が私についてどう思おうと、それは彼女たちの問題であって私の問題ではないと割り切り、一切気にしないことにしているが、あまり気持がよくないことは事実である。

 しかし、女性――ということは、自分の所得を超えるカネで豪遊する客――を得意客とする飲食店を野放しにすると、日本の外食文化は、とどまることなく堕落するとともに、男性は、文化としての外食から締め出されてしまう。したがって、男性は、この状況にあえて逆らい、「お洒落」なカフェやレストランにあえて入ることが必要である。店に入ったとき、そこにいる客が全員女性であっても、怯えてはならない。場数を踏むうちに、客の性別など気にならなくなる。これは、飲食店に対する「宣戦布告」であるとともに、外食全般の嘆かわしい状況に対する「宣戦布告」でもある。「自分で稼いだカネで食う者が飲食店の評価を決める」のが正常な姿であり、この正常な姿を取り戻すためには、男性、特に必ずしも若くはない男性は――配偶者が何と言おうと――あえて困難な道を歩まなければならないように思われるのである。


都立新宿高校

あなたにとって高校が「通過点」でしかないのなら、「高認」を受けるべき

 「なぜ『高認』を受検せず、高等学校に通い続けるのか。」私自身は、この問いに答えることができない。

 というのも、全日制の普通科を卒業し大学に入学したり就職したりすることを計画しているのなら、高等学校にダラダラと3年も通うのは時間と体力の無駄であり、自分で勉強するなり予備校に通うなりして高認(=高等学校卒業程度認定試験/高卒認定)に合格し、人生のコマを先に進める方がよほど効率的だからである。

高等学校卒業程度認定試験(旧大学入学資格検定):文部科学省

 もっとも、「高校で友だちができる」とか「高校には課外活動がある」とか、進路への通過点以上の何ものかを高等学校に対し具体的に期待しているのなら、中学校を卒業して高等学校に入学し、ここで3年間を過ごすのは、決して悪いことではないかも知れない。

 また、高等学校に通わず高卒認定で資格を取得するには、(1)ある決まった目標を設定し、(2)この目標から逆算して勉強の計画を自主的に作り、そして、(3)この計画を着実に実行する覚悟が不可欠であるけれども、家庭環境の面でも、また、本人の性格や自覚の面でも、何らかの強制力が働かないと勉強の優先順位が際限なく下がり、必要最低限の勉強時間すら確保することができないという事情がある人もいるかも知れない。この場合、高等学校には、外部からの圧力を遮断して勉強できる環境を無理やり作るという効用が認められることになる。

 しかし、このような事情がなく、また、高等学校が単なる通過点であるなら、高認という選択肢を無視する手はない。

高認は大検よりもメリットが大きい

 高等学校卒業程度認定試験(=高認)は、2005年に、それまでの大学入学資格検定(=大検)の廃止とともに作られた新しい資格試験であり、趣旨は同じである。つまり、何らかの事情によって高等学校に通学しない者に高卒と同等の資格を与えるための試験なのである。(詳細は文部科学省のウェブページを参照。)

 ただ、高認が大検とまったく同じものであるなら、私は、高認が高等学校の3年間をいわば「中抜き」する有効な手段であるとは考えなかったであろう。高校が通過点にすぎないと思うなら高認を受けたらよいと私が言うのは、高認には、大検にはないいくつかの新しいメリットがあるからである。主なものは、以下のとおりである。


    1. 全日制普通科の高等学校に在籍したまま受検できる。(大検の時代には「退学」が受検資格になっていた。)
    2. 受検はすべて筆記試験で、科目数は、選び方によっては8科目まで減らせる。(大検では最大16科目の受検が必要で、その中には実技試験もあった。)
    3. 高等学校で単位を取得した科目は受検が免除される――これは大検でも認められていた――だけではなく、高認で合格した科目は、申請により高等学校の単位に算入される。
    4. 受検機会が年に2回ある。(大検では年に1回だった。)


 高等学校に通って単位を取得するのと並行して高認を受検し、両方を合わせて高認の全科目が合格扱いになった時点で高等学校を退学するのがもっとも合理的であろう。これはすでに、「高等学校を『中抜き』しろ」と文部科学省が言っているようなものである。(だから、私にとっては、高認が発足してから10年以上が経過した現在でもなお16歳から18歳の人口の99%以上が高等学校に通っていることの方が不思議である。)

高認の資格には若干の制限がある

 ただし、高認は、それ自体としては「高卒程度の学力を証明する」単なる資格であって「学歴」ではない。したがって、ここには若干の制限があることもまた知っていることが必要である。

 たとえば、大学に入学しようとする場合、国公私立大学の一般の入学試験の受験について制限はないが、「AO入試」「自己推薦入試」などと呼ばれる特殊な形式の入学試験については、大学によっては高認の合格者に受験資格を与えていない。また、形式的には受験資格が与えられていても、課外活動の実績を証明するもの、あるいは、高等学校の担任の推薦状を願書に添付することを要求する大学が多く、高認の合格者は、このタイプの入試からは事実上締め出されていると考えた方がよい。(高認合格者には、文部科学省が発行する合格証明書と成績証明書しかない。)

 また、当然のことながら、これは、高等学校を「中抜き」し、中学校と大学のあいだ、または、中学校と企業などのあいだに橋を架けるための資格試験であるから、進学も就職も予定していないのなら、受検するのは無駄である。


 念のために言っておくなら、私は、万人に対し「高認を受けるべきである」と言うつもりはない。ただ、勉強を自主的、計画的に進める自信があるのなら、高等学校が面白くない人、いじめられてつらい人、他にやりたいことがある人にとり、高等学校を離れるというのは、真面目に検討するに値する選択肢であるように思われる。

 たしかに、高等学校という組織に身を寄せていることによって得られる安心は非常に大きい。それは、高等学校を実際に退学し、家族以外のすべての集団と縁を切ってしまったときの心細さを体験すれば、すぐに確認できることである。しかし、同世代の99%以上が高等学校に通っているというだけの理由によって、あなたもまた、同じように高等学校に通わなければならないわけではない。高認について考えることは、高等学校に通う意味についても考える機会になり、したがって、実際に高認を受検するかには関係なく、自分の生活を見直す機会になるように思われるのである。


Schoolboys of Japan

ある知人の話

 ある知人から、次のような話を聞いた。

 毎朝、出勤するとき、自宅から駅まで歩き、そこから地下鉄に乗る。普段は、午前6時台に家を出るため、同じ時刻に出かけるサラリーマンや犬を散歩させる高齢者以外を見かけることはあまりない。

 ところが、ときどき、午前8時前後に出かけることがある。そして、そのようなときには、駅まで歩いて行く途中、近くの学校に向かう小学生や中学生の集団に遭遇することが少なくない。しかし、住宅街の中の道を歩いていて、小学生や中学生の集団が向こうから近づいてくるのがわかると、道を変えることにしている。すれ違うのがどうしても嫌だからである。正確に言えば、身の危険を感じるのである。

 もちろん、少し冷静に考えるなら、自分が小学生や中学生に朝の市街地で襲われるはずがないことは明らかである。それでも、向こうから近づいてくる小学生や中学生を回避することができず、彼ら/彼女らとすれ違うことを余儀なくされるときには、いつも軽い恐怖を覚える……。

 職業柄、人前で話す機会はそれなりにあって、大きなホールで目の前に大人が何百人が坐っていても、身動きがとれなくなるほど緊張することはないが、小学生や中学生が遠くに見えるだけで、気持ちがざわつく。

 知人は、このように語っていた。

 この知人は、小学生のころ、ひどい「いじめ」にあい、さんざんな生活を送っていたようである。「今にして思えば、よく生きて小学校を卒業できた」と知人は語っていた。登校する小学生や中学生の集団を見ると恐怖を覚えるのは、おそらく、この「いじめ」の経験があるからなのであろう。知人によれば、「『いじめ』の被害者としての経験は、ことによると自分の行動パターンに、知らずしらずに何らかの影響を与えている可能性はあるとしても、『いじめ』を思い出すことは、普段はあまりない。ただ、たとえば小学生や中学生の集団とすれ違ったり、「いじめ」と深い関連のある場所に身を置いたりするときには、昔のことが総集編のように記憶に甦り、鮮明に思い出される」ということであった。いわゆる「フラッシュバック」と呼ばれているものである。

「学校に通う」という惰性から一度は距離をとることが大切

 学校の授業や課外活動、また、学校での人間関係にどのくらいの価値を認めるのか、これは、人によりまちまちであろう。したがって、「いじめられるくらいなら、退学したり転向したりして、精神衛生上いくらか『まし』な環境に自分自身を移す」ことを選択する児童や生徒もいれば、反対に、(私自身には理解することができないけれども、)「今の環境にとどまり人間関係を再編成する可能性に賭ける」児童生徒もいるかも知れない。また、保護者の意向が本人の要求とは異なる可能性もある。したがって、少なくとも本人や保護者については、「いじめ」にあったときに講じるべき対応に「正解」があるわけではないと考えるべきである。

 ただ、少なくとも次の点は確かであるように思われる。すなわち、少なくとも保護者が、自分の子どもについて、「学校には行くのは当然」「学校をちゃんと卒業するのは当然」「友だちとちゃんと付き合うのは当然」「課外活動にちゃんと参加するのは当然」などの先入見を一度は捨て、学校と学校教育を相対化する視点を獲得しないかぎり、「いじめ」の問題は決して解決しないという点である。たしかに、保護者自身は、自分の子どもの学校生活を評価するとき、みずからが小学生や中学生であったころの生活を知らずしらずのうちにモデルとして前提しがちであり、このモデルに従うよう子どもを反射的に促してしまいがちであるように思われる。しかし、これは、子どもから選択肢を奪うばかりではなく、保護者自身からもまた選択肢を奪うことになる。

 もちろん、現在の日本の教育制度の場合、完全にドロップアウトしてしまうと、キャッチアップがきわめて困難であることは事実であり、キャッチアップすることができないと、社会生活において重大な不利益を被る危険があることもまた確かである。

 しかし、自主的に勉強を進める条件をみずから整えることができるかぎりにおいて、小学校や中学校に通わなくても、課外活動に参加しなくても、友たちを作らなくても、卒業することができないわけではないし、その後の進路に直接の悪影響が及ぶわけでもない。「周囲から浮く」というような、実に日本的な気がかり、しかし、非本質的な気がかりを一度は捨てることは、どうしても必要であるように思われるのである。


ドラマは密室で独りで観る

 「テレビドラマを観るのにまで作法が必要なのか」と思うかも知れない。結論から言えば、そのようなものは原則として不要である。映画館で映画を鑑賞するのとは違って、テレビ受像機――ブツとしてのテレビの正式名称――を前にするときには、格好や姿勢は一切関係がない。極端なことを言うなら、逆立ちしていようと、裸だろうと、何ら問題がない。昔はともかく、今では、テレビというものは、独りで密室で観るものになっているからである。したがって、逆説的であるが、テレビドラマを観る作法なるものを設定することが可能であるなら、それは、何よりもまず、テレビドラマが鑑賞される状況の「密室性」を促進し完成させるようなルールでなければならないであろう。たとえば、スマートフォンは手もとに置かない、来客があっても居留守を使う、テレビのある部屋のドアは閉めておく……、これらは、ドラマ鑑賞のための最低限の条件となるに違いない。

 もちろん、ドラマを密室で鑑賞するからと言って、注意を画面に集中しなければならないわけではない。番組の最中に台所に立ってコーヒーを淹れてもかまわないし、ストレッチしながら画面を眺めてもかまわない。大切なことは、「ドラマを観ているあいだは独りになる」という原則であり、この原則が守られてさえいれば、何をすることも許されるということなのである。

気晴らしになるドラマ以外は観ない

 さらに、テレビドラマを観るに当たり、守るべき作法がもう1つある。それは、「何のためにドラマを観るのか」を自覚し、この目的に適合するドラマだけを観ることである。大抵の場合、ドラマを観るのは、勉強のためではないし、仕事のためでもない。ドラマを観るのに費やされる時間は、気晴らしのための時間である。したがって、ドラマを観て気晴らしができなければ、その時間は無駄だったことになる。つまり、「確実に気晴らしすることができる」点がテレビドラマの価値となるのである。

 この場合の「気晴らし」とは、大雑把に言うなら、ストレスの解消であり、最近は、「コーピング」(coping) という総称で呼ばれる一連の作業の中に位置を与えられているものである。そして、生活の中で惹き起こされた否定的な気分から距離をとり、これを相対化することがコーピングであるなら、ドラマを観ているときには、本当に気晴らしができているのか、手をときどき胸に当てて自問することが必要であり、ドラマが気晴らしになっていなければ、そのようなドラマを観るのはただちに中止すべきである。

 「話題になっているからつまらなくても観続ける」などというのは、テレビを観ているときに知り合いを思い出すことになるから、このような理由でドラマを観ることは、精神衛生上マイナスの効果しかない。「つながり」から解放されるためにドラマを観るのだから、「つながり」を想起させるような仕方でドラマを選ぶべきではない。これは当然の話である。

新番組の第1話はすべて観る

 最近はやめてしまったけれども、私は、何年か前までは、連続ドラマの第1話を、日本のものも海外のものも――「韓流」を除き――すべて録画して観ていた。第2話以降も観続けるに値するかどうかをチェックするためである。さまざまなタイプのテレビドラマを観ていると、そのうち、自分にとって気晴らしになるものと気晴らしにならないものの区別が次第に明らかになってくる。たとえば、私の場合、「ホラー」と「SF」と「高校生が主人公のもの」は気晴らしにならない。また、具体的な名前は挙げないけれども、どうしてもテレビで観たくない俳優がいることもわかってきた。もちろん、自分の本当の好みがわかるまでには、それなりに「場数を踏む」ことが必要である。場数を踏まないと、自分の内面の声が聞こえるようにならないからである。


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