昨日、次のような記事を見つけた。
高等学校卒業が最終学歴である人々と、大学卒業が最終学歴の人々とのあいだに、社会に対する見方に関し大きな隔たりが生れ、しかも、たがいに相手が社会をどのように見ているか、理解することができなくなっていること、学歴が再生産させ、階層が固定化しつつあることがこの記事には記されている。
このような指摘は、それ自体としては特に珍しいものでもなく、新しいものでもない。学歴による社会の分断は、遅くとも20年前にはすでに言論空間において繰り返し指摘されてきた事実である。
とはいえ、縦横に走る壁によって社会が細かい階層に分かれ、しかも、階層のあいだの交流が失われつつあることは、周囲を観察するなら、誰でも容易に確認することが可能であるに違いない。学歴は、階層を隔てる高い壁の1つであるかも知れないが、出身地、信仰、職業などによっても壁は作られる。そして、この壁が高く厚くなるほど、人々の交流は、狭くて均質な集団の内部にとどまることになり、社会に変化を惹き起こすような刺戟が生まれにくくなることは確かである。
しかし、階層を隔てる壁が消滅した社会、ある意味において流動的な社会は、私たちにとって好ましいものなのであろうか。たしかに、別の階層に属する人々の見方を理解し、これを受け容れることは、理想としてはつねに好ましいことであるが、これが大きな苦痛を惹き起こす可能性があることもまた事実である。ものの見方が決定的に異なる他人と向き合い、1つの空間を共有することは、誰にとっても避けたいことである。ときには自分にとって不快きわまるような意見、自分の神経を逆撫でするような意見に耳を傾け、不快きわまる、神経を逆撫でする言葉を吐き出す人間たちと折り合って行かなければならないからである。多くの属性を自分と共有している人々に近づき、周囲に壁を作ること、あるいは、民主主義的な合意形成を諦め、暴力によって異なる意見を抑圧することは、自分の身を守る手段となる。階層を隔てる壁は、精神衛生上の必要悪であると言うことができる。
実際、考え方の違う人間が共存することが困難であることは、仕事を求めて日本に来た外国人と地域の住民とのあいだのトラブルにより、容易に確認することができる。いや、19世紀初め、ユダヤ人が解放され、ヨーロッパ社会に進出するとともに反ユダヤ主義が激化したという古典的な事実を想起するだけで、異なる階層に属する者たちからなる社会には「属性を共有する集団がたがいが隔てられている」ことが絶対に必要であることはただちに明らかになるであろう。均質で流動性の高いだけの社会というのは、悪夢以外の何ものでもないのである。
たしかに、目の前にいるのが異なる意見の持ち主であっても、相手と折り合う必要がなければ、無関心という緩衝材のおかげで、対立や憎悪がある限界を超えることはない。相手のことがよくわからないからであり、自分たちが正しく、相手が間違っているという思い込みに囚われていても、この思い込みを修正する必要がないからである。
かつて、インターネットに対し、このような壁を平和的な仕方で解消する手段を期待した人々がいた。しかし、現実には、次の本が指摘するように、インターネット、特にSNSは、この壁を高く厚くし、むしろ、自分と異なるパースペクティヴで社会を眺めている人々の姿を視界から消去し、決定的に見えなくするという役割を担っている。
フィルターバブル | 種類,ハヤカワ文庫NF | ハヤカワ・オンライン
(下は、この本の著者によるTEDでの講演であり、本のサワリの部分に相当することが語られている。)
同じような属性の人々とのあいだで合意を形成したり、協力したり、競争したりしているとき、そのようなふるまいが拓く場面は、夢想と虚偽意識の産物にすぎないのかも知れない。しかし、この夢想と虚偽意識を解消したとき、私たちの目の前に真実として姿を現すのは、誹謗中傷によって満たされ、誰もが自分と異なる意見の持ち主を殲滅することを望む悪夢のような世界であることもまた、十分に考えられることであるように思われる。