AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年12月

Rich - Poor

 昨日、次のような記事を見つけた。

「学歴」という最大の分断 大卒と高卒で違う日本が見えている

 高等学校卒業が最終学歴である人々と、大学卒業が最終学歴の人々とのあいだに、社会に対する見方に関し大きな隔たりが生れ、しかも、たがいに相手が社会をどのように見ているか、理解することができなくなっていること、学歴が再生産させ、階層が固定化しつつあることがこの記事には記されている。

 このような指摘は、それ自体としては特に珍しいものでもなく、新しいものでもない。学歴による社会の分断は、遅くとも20年前にはすでに言論空間において繰り返し指摘されてきた事実である。

 とはいえ、縦横に走る壁によって社会が細かい階層に分かれ、しかも、階層のあいだの交流が失われつつあることは、周囲を観察するなら、誰でも容易に確認することが可能であるに違いない。学歴は、階層を隔てる高い壁の1つであるかも知れないが、出身地、信仰、職業などによっても壁は作られる。そして、この壁が高く厚くなるほど、人々の交流は、狭くて均質な集団の内部にとどまることになり、社会に変化を惹き起こすような刺戟が生まれにくくなることは確かである。

 しかし、階層を隔てる壁が消滅した社会、ある意味において流動的な社会は、私たちにとって好ましいものなのであろうか。たしかに、別の階層に属する人々の見方を理解し、これを受け容れることは、理想としてはつねに好ましいことであるが、これが大きな苦痛を惹き起こす可能性があることもまた事実である。ものの見方が決定的に異なる他人と向き合い、1つの空間を共有することは、誰にとっても避けたいことである。ときには自分にとって不快きわまるような意見、自分の神経を逆撫でするような意見に耳を傾け、不快きわまる、神経を逆撫でする言葉を吐き出す人間たちと折り合って行かなければならないからである。多くの属性を自分と共有している人々に近づき、周囲に壁を作ること、あるいは、民主主義的な合意形成を諦め、暴力によって異なる意見を抑圧することは、自分の身を守る手段となる。階層を隔てる壁は、精神衛生上の必要悪であると言うことができる。

 実際、考え方の違う人間が共存することが困難であることは、仕事を求めて日本に来た外国人と地域の住民とのあいだのトラブルにより、容易に確認することができる。いや、19世紀初め、ユダヤ人が解放され、ヨーロッパ社会に進出するとともに反ユダヤ主義が激化したという古典的な事実を想起するだけで、異なる階層に属する者たちからなる社会には「属性を共有する集団がたがいが隔てられている」ことが絶対に必要であることはただちに明らかになるであろう。均質で流動性の高いだけの社会というのは、悪夢以外の何ものでもないのである。

 たしかに、目の前にいるのが異なる意見の持ち主であっても、相手と折り合う必要がなければ、無関心という緩衝材のおかげで、対立や憎悪がある限界を超えることはない。相手のことがよくわからないからであり、自分たちが正しく、相手が間違っているという思い込みに囚われていても、この思い込みを修正する必要がないからである。

 かつて、インターネットに対し、このような壁を平和的な仕方で解消する手段を期待した人々がいた。しかし、現実には、次の本が指摘するように、インターネット、特にSNSは、この壁を高く厚くし、むしろ、自分と異なるパースペクティヴで社会を眺めている人々の姿を視界から消去し、決定的に見えなくするという役割を担っている。

フィルターバブル | 種類,ハヤカワ文庫NF | ハヤカワ・オンライン

 (下は、この本の著者によるTEDでの講演であり、本のサワリの部分に相当することが語られている。)


 同じような属性の人々とのあいだで合意を形成したり、協力したり、競争したりしているとき、そのようなふるまいが拓く場面は、夢想と虚偽意識の産物にすぎないのかも知れない。しかし、この夢想と虚偽意識を解消したとき、私たちの目の前に真実として姿を現すのは、誹謗中傷によって満たされ、誰もが自分と異なる意見の持ち主を殲滅することを望む悪夢のような世界であることもまた、十分に考えられることであるように思われる。


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 ある1年間にある金額以上の商品を購入した客を、次の1年間、何らかの形で「優待」する小売店は――通販でも、現実の店舗でも――少なくない。それは、割引であったり、ポイントの付与であったり、何らかの――予約を優先的に受け付けたり、イベントに招待したりする――優遇措置であったりする。同じようなことは、小売店ばかりではなく、航空会社では、さらに大規模な形で行われている。もちろん、これは、忠実な客を囲い込むための戦術である。2009年のアメリカ映画「マイレージ、マイライフ」でジョージ・クルーニーが演じる主人公は、あるシーンで、マイルをためられないところにはカネを落とさないこと、また、マイルをためることがそれ自体として目的であることを公言している。これは、「優待」に引きずられた行動の極端な例である。(なお、主人公が求める「優待」の内容は、ストーリーに関係あるから、ここには記さない。)


 ただ、このような試みがどのくらい成功しているのか知らないけれども、私自身は、このような優待にはあまり気持ちのよくないものを感じる。というのも、購入した商品の合計金額に応じて客の扱いを変えるこのシステムが前提としているのは、ある小売店にとっての私の価値が私がその店で過去に「落とした」金額のみによって測られうるという了解だからである。

 私がある店で商品をたくさんの商品を購入し、その合計金額が多ければ、その店は、さらに多くの商品を購入する機会を私に提供する。(これが「優待」の意味である。)これは、合理的な措置であるように見える。たしかに、直近の1年間にたくさんの商品を買った客が次の1年間に行動を大きく変える可能性は低いであろう。

 しかし、私自身は、購入金額の合計によって客をA、B、Cなどに区分する小売店には違和感を覚える。忠誠心を競わせられているような気がするからである。あるいは、この店で買いものしないと客として扱わないと脅されているように感じられるからである。

 実際、航空会社、ホテル、百貨店などを除くと、このような仕方で客を盛大に選別しているのは、私の狭い経験の範囲では、どちらかと言うと、「高級感においていくらか劣る小売店」に多いように思われる。おそらく、このシステムは、選別を歓迎するタイプの客を引き寄せるのであろう。

 この点において、私自身はAmazonを評価する。Amazonは、他の多くのECサイトとは異なり、買い物の金額によって客を選別しないからである。これは、実に気持ちのよいシステムである。過去1年間に購入した商品の合計が100万円であっても、あるいは100円でもあっても、次にAmazon何かを購入する場面では、対応に違いはない。専用の窓口があるわけでもなく、何かの優先予約ができるわけでもない。たしかに、「Amazonプライム」に登録した客は優遇されることがあるけれども、これは、あらかじめ支払われた年会費に対する対価としてのサービスであり、過去の購入行動に現れた「忠誠心」への御褒美ではないのである。同じように、「ブラックカード」と呼ばれるクレジットカードを所持していると、それなりのサービスを受けることができるようであるが、これは、途方もなく高額な年会費の対価としての(ある意味では過剰な)サービスである。サービスに魅力を感じなければ、年会費を支払う必要はないし、カードを持つ必要もないのである。

 私自身は、何年も通い続けている少数の店を別として、ポイントカードを作らないし、ポイントをためるつもりもない。店に囲い込まれ、忠誠心を煽られると、商品の購入に関する判断が汚れるように、そして、自分が堕落したようなに感じられるからである。


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昭和の時代には、郵便番号にはあまり意味がなかった

 私は、子どものころ、郵便物のオモテになぜ郵便番号を書かなければならないのかわからなかった。

 郵便物のオモテには宛先の住所が書かれていないはずはなく、この住所にもとづいて人間が目視で郵便物を振り分けるのだから、郵便番号など必要ないはずであった。

 だから、私は、ながいあいだ、郵便番号を書かずに封書やはがきを出していた。

 また、縦長の封書の表面の上部に算用数字が並ぶのは、あまり美的な図ではない。私は、郵便番号を書いて封書やはがきのオモテを汚すことにも抵抗を感じていた。

 そもそも、郵便番号を記入することは法律で定められた義務ではなく、郵便事業の効率化への任意の協力にすぎないから、現在でも、郵便番号が嫌なら、書かなくてもかまわない。もちろん、郵便番号が記されていないという理由で郵便物が配達されないなどということはないのである。

郵便番号が7桁になってから、メリットを感じられるようになった

 しかし、その後、1998年になって、郵便番号がそれまでの3桁から7桁に増えた。これは、個人にも社会にも大きなコストを強いる変更であった。住所録から看板まで、郵便番号を書き替えなければならなかった。宛先の住所に7桁の数字が加わることになった。当然、その分、書き間違いが増えた。

 しかし、当時の郵政省は、郵便番号の7桁化に対する抵抗をやわらげ、7桁の郵便番号の使用を促進するため、「7桁の郵便番号が正しく記入されていれば、郵便物の宛先の住所の一部を省略することができる」点をメリットとして大いに宣伝した。

 すでに1968年に3桁の郵便番号が制定されたとき、郵便番号を記入することにより、宛先の都道府県を省略し、さらに、政令指定都市の場合は、市名まで省略することが可能であるということになっていた。すなわち、「A県B市C区D町E-F-G」という宛先の場合、郵便番号を使用すれば、「A県B市」は郵便番号によってこれを代えることができるのである。

 さらに、1998年、郵便番号が7桁になるにあたり、今度は、宛先のうち、町名より下だけを書けばよいということになった。7桁の郵便番号が「A県B市C区」の代りになるということである。

 そして、私は、これに飛びついた。

 「A県B市」を書かなくてもよい、と言われても、その代わりに郵便番号3ケタを封書やはがきに書く気にはならない。しかし、7桁の数字を書くことで「A県B市C区」をすべて省略することができるなら、7桁の郵便番号を使うことにはメリットがある。

 そこで、郵便番号が7桁になった1998年、私は、パソコンで管理していた住所録から、町名より上の部分をすべて削除し、それ以来、差出人の住所を含め、封書やはがきのオモテに「A県B市C区」を書くのをやめた。実際、手書きの場合、「A県B市C区」をすべて書くか、7桁の数字を書くか、この違いはかなり大きいように思われる。(なお、大抵の場合、郵便番号の下4桁が町名に対応しているから、町名を書かなくても届かないわけではないかも知れないのだが、日本郵便は、町名を省略しないよう求めている。)

宅急便の伝票に郵便番号と住所の全体の両方を書かせられるのはおかしい

 しかし、私は、郵便番号が7桁になってから、1つのあまり好ましくない変化に気づいた。それは、ヤマト運輸の宅急便の伝票の形式が変更されたことである。

 かつて、宅急便の伝票には、郵便番号を記入する欄がなかった。当然、宅急便で荷物を送るときには、宛先の住所の全部を伝票に手で記入していた。都道府県名から始まる住所のすべてを記入するのは、宅急便に関しては当然の手間であった。

 ところが、郵便番号が7桁になってしばらくしてから、宅急便の伝票に郵便番号を記入する欄が作られ、そこに郵便番号を実際に記入するよう求められるようになった。しかも、郵便局は、宛先の郵便番号がオモテに記されていない郵便物でも引き受けるが、宅急便の場合、コンビニも営業所も、こちらが伝票に郵便番号を記入しないと荷物を引き受けない。

 ヤマト運輸は、郵便番号のシステムに便乗し、これをそのまま自社の業務に流用することにしたのであろう。しかし、これは、利用者によっては、大きな不利益をともなう変更となった。というのも、封書やはがきの場合、7桁の郵便番号を記入することで、「A県B市C区」を省略することができるのに、宅急便の伝票ではこの部分を省略することができないからである。省略した住所を記入した伝票を持ってコンビニや営業所に行くと、都道府県から始まるすべての住所を書くよう求められるのである。

 封書やはがきの場合、宛先を印刷してしまうことが多いけれども、個人が宅急便を送る場合、伝票は基本的に手書きである。それだけに、伝票に郵便番号7桁を書き、かつ、都道府県から始まる住所の全体を省略せず書くのは、利用者にとって大きな負担となる。

 私は、ヤマト運輸が郵便番号システムに便乗し、これを自社のサービスに流用することについて苦情を言うつもりはない。しかし、伝票の記入に関し、利用者に余計な負担を強いることには小さな不満を持っている。

 ヤマト運輸は、誤配や遅配が少なく、全体として日本郵便よりもはるかにすぐれていると私は思っているけれども、それだけに、日本郵便が利用者に許容している宛先の省略が宅急便では認められないというのは、私にはどうしても理解することができないのである。


Chris Overworked

Inbox Zeroは生活をせわしないものにする

 毎日の仕事の中にデスクワークが少しでも含まれる人にとって、仕事に関係のあるメールから逃れることは事実上不可能であるに違いない。

 しかし、メールの中には、すぐに返信しなければならないもの、返信するのに若干の作業が必要なもの、返信する必要はないがスケジュールをカレンダーに書き込む必要があるもの、ただ読んで内容を確認すればよいもの、さらに、そもそも読む必要がないもの、それどころか、なぜ送られてきたのかわからないものなど、多種多様なものがあり、このようなメールがすべて同じ1つの受信箱に集まってくる。

 もちろん、受信箱そのものを複数のフォルダーに分割することができないわけではないし、実際、メールを自動的に複数のフォルダーに振り分けている人は多いであろう。それでも、何らかの反応をしなければならない(かも知れない)メールが日々受信箱に届く。放っておけば、未読のメール、あるいは、読んだだけで返信していないメールが際限なく溜まって行くことに変わりはない。

 このようなことを避けるための1つの方法は、届いたメールを即座に、あるいは時間を決めて定期的に処理――ただ「読む」のではなく、「処理」するのである――して削除し、受信箱から消去することである。仕事の生産性向上をテーマとするブロガーのマーリン・マン(Merlin Mann) が提唱するInbox Zeroと呼ばれるテクニックがこれに当たる。

43 Folders Series: Inbox Zero | 43 Folders

(このようなテクニックは、単純な目標を掲げているけれども、細かい手順や作法が決まっているため、実際にはかなり面倒くさいのが普通であり、この点は、Inbox Zeroも同じである。)

 しかし、受信箱をつねにカラの状態に保つためには、どうしても避けられないことがある。それは、メールが運んでくる情報を基本的にすべて受け止めることである。メールが1日に10通しか来ないのであれば、それでもよいであろうが、1日に1000通もメールを受け取るなら、メールを選別し、不要なメールを削除するだけでも、仕事のためも貴重な時間がかなり無駄になるはずであるし、何よりも、生活が非常にせわしなくなるはずである。

 むしろ、受信箱にはメールが溜まるのに任せておき、読む必要がありそう――この「ありそう」という曖昧な基準が重要である――なものだけ選んで読む、という方が、よほど気楽であるように思われる。

未読メールを放置する度胸が人間を自由にする

 アメリカの週刊誌「アトランティック」で次のような記事を見つけた。

Why Some People Can't Stand Having Unread Emails

 受信箱にいくらメールが溜まっていても一向に気にならない人と、受信箱をつねにカラにしておかないと気が済まない人のそれぞれの調査、分析を試みた情報科学の専門家は、後者、つまり、メールをつねにチェックし、受信箱がカラにしておくことにこだわる人がこの作業に駆り立てられるのは、それが自己支配の一部だからであり、メールを読まず、情報を見落とすと、このような人は自己支配できていないと感じる可能性があると語っている。

 Inbox Zeroの信者にとり、受信箱に大量のメールを未読のまま放置し、読む必要が「ありそう」なメールだけをつまみ食いするというのは単なる「だらしなさ」の現われにすぎないけれども、上の記事が正しいとするなら、受信箱に大量のメールを残し、その大半をそもそも読まないことができるのは、むしろ、積極的な能力として評価されるのがふさわしいことになる。

 そもそも、それぞれのメールが読むに値するかどうかは、タイトルを見れば大体わかるものであり、たとえ読むべきメールを見落としたとしても、あるいは、読むのが遅くなったとしても、それが本当に重要なものであるなら、送った側が何らかの仕方でフォローしてくれるから、大ごとにはならないのが普通である。(そもそも、メールというのは非同期のコミュニケーションツールであるから、相手がすぐに読むことを前提にメールを送るなど、本来はありうべからざることなのである。)

 それどころか、メールをチェックする回数が少なく、受信箱に残る未読メールの数が多いほど自由であると考えることは可能であり、実際、下の記事にはそのように書かれている。

Inbox Zero is BS

 実際、読むに値するメールがどのくらいあるのか、また、メールに限らず、こちらの都合を無視して外から舞い込んで来る情報、依頼、連絡などのうち、真面目に受け止めるに値するものがどのくらいあるのか、自分の胸に手を当てて考えてみることは決して無駄ではないように思われる。


Lean Product Management

「時間管理が私たちの人生をダメにしている理由」

 今日、イギリスのガーディアン紙のウェブサイトで次の記事を見つけた。

Why time management is ruining our lives | Oliver Burkeman

 「時間管理が私たちの人生をダメにしている理由」という表題を持つこの記事は大変に長いのだが、その内容をごく簡単にまとめると、次のようにななる。

 産業革命以降、生産性の向上を目標として「時間管理」(time management) が試みられてきた。最初は、時間管理の対象は、製品を産み出すプロセスであったけれども、やがて、時間管理の範囲は、労働者一人ひとりの労働へと広がる。特に、19世紀末、フレデリック・テイラーがベスレヘム・スティール・ワークス社での実践にもとづいて労働者管理のシステムを開発してから、時間管理は、生産性向上の必要不可欠の手段と見なされるようになる。大雑把に言い換えるなら、労働から無駄を排除し、有限な時間の中に作業を効率よく詰め込むことが生産性向上の近道と考えられるようになったのである。20世紀後半以後に登場したいくつもの生産性向上のスキームーーGTDはそのもっとも有名なものである――はすべて、時間管理が生産性を向上させることを当然のように前提とするものである点において、テイラーの労働者管理法と何ら違いはない。しかし、20世紀末以降、「生産性」(productivity) や「効率」(efficiency) は、労働を評価する尺度であるばかりではなく、人生全体においてつねに考慮することが望ましい理想となり、この意味において「個人的」なものとなった。食事、余暇、デート、しつけなど、あらゆる点に関し「生産的」(productive) であることが追求されるようになり、生産性と効率が一種の強迫観念のようになったのである。しかし、人生から無駄を取り除き、Inbox Zeroの状態を実現しても、なすべきことから完全に解放されるわけではなく、むしろ、さらなるタスクと忙しさ、そして、一種の落ち着きのなさを生活に呼び込んだだけである。(Inbox Zeroとは、メールを受信箱に残さず、メッセージを受け取ったら即座に次の行動を起こすか削除するかのいずれかを選ぶことで生産性を向上させる方法である。この記事では、冒頭に、Inbox Zeroを提唱したマーリン・マン(Merlin Mann) のグーグルでの講演の様子が紹介され、後半では、同じマンが時間管理をテーマとする著作の執筆を宣言し、しかし、結局、執筆を断念した事情が記されている。)

ライフハックは人生を「楽しむ」ことを妨げる

 英語には「ライフハック」(lifehack) という言葉がある。これは、個人的な日常生活における生産性の向上を目指す試み全体を指し示すために使われているものである。ライフハックを形作るのは、作業を効率化し、作業に必要な時間を短縮し、そして、処理すべき他の新たな作業のために時間を確保するさまざまな工夫である。もちろん、ライフハックには、私たちの一人ひとりの生活の改善と人生の幸福が遠い目標として暗黙のうちに設定されているに違いない。

 日本やアメリカには、このライフハックについて著述を行う専従のブロガーやライターまでいる。生産性向上のティップスを考案し提案することを生業とするこのような特殊な人間が考えつくことは、同じような関心を持ち、同じような生活を送っている人間たちの役には立つのであろう。また、たがいのアイディアを褒め合ったり共有したりすることにもそれなりの意味があるのかも知れない。(「タスク」に対するフェティシズムを基礎とする疑似宗教のように見えないこともない。)しかし、このようにして産み出されたティップスは、平均的な生活を送る「普通の」人間の生活の質を改善することがないばかりではなく、仕事の効率化にすら大して役には立たないであろう。

 そもそも、上の記事が強調しているように、時間を効率的に使うことは、人生を幸福にするとはかぎらない。朝起きてから夜寝るまでの何もかもが「処理」の対象となり、さらに、睡眠すら効率的に生産的に処理されるべきものとなってしまったら、私たちが人生の中で通過するすべての時間は、未来のいずれかに時間が使われるべき何かのための準備として使われることになり、決して、人生を「楽しむ」ことができなくなってしまう。「楽しむ」ということは、何よりもまず、みずからの心を現在へと集中させ、1つのことをそれ自体のために行うことによって初めて可能となるものだからであり、「処理する」ことの対極に位置を占めるものだからである。


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