AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年12月

Légion

 2016年は、あと1週間で終わる。世界的にはテロや戦争があった1年ではあったけれども、私自身の生活には、特に大きな波乱はなく、それなりに穏やかに過ごすことができたと思う。

 ところで、私は、数年前から、正月には何も特別なことをしないと決めている。つまり、

    • NHK紅白歌合戦を見ず、
    • 初日の出を見るために遠出せず、
    • 初詣に行かず、
    • 雑煮を食わず、
    • おせち料理を食わず、
    • 門松を飾ることもなく、
    • 年始の挨拶に誰かを訪問することもない

ということである。私は、毎年大晦日に墓参することにしており、これが年末年始のもっとも大きな行事となる。これ以外は、他から何かが飛び込んでこないかぎり、普段の休日と同じように過ごす。何が面白いのか私にはよくわからない年末の準備や正月のルーチンをすべて取りやめることにより、毎年年末に感じていた追いつめられるような息苦しさがいくらか軽減されたように思う。特に、私は、赤、白、金、緑などの組み合わせからなる派手な「正月カラー」が大の苦手で、あれを見ずに済むだけでも、気分はかなり落ち着く。

 ただ、12月29日から1月3日まで繁華街で発生する狂乱状態の人ごみを避けるため、この1週間のあいだの食料は12月28日までにすべて買い込み、年末年始には可能なかぎりどこにも出かけないようにする。これが、普段の休日との最大の違いである。

 年末も年始もなく、暮れも正月もない生活を送っている――と書くと、ずいぶん忙しそうに聞こえるけれども、実際にはそれほどでもない――と、年末年始の恒例の行事というのは、単なる雑用にすぎないものとなる。特に年賀状の作成は、私にとってもっとも煩わしい作業である。何とか理由を見つけてやめたいと思っているし、また、以前に書いたことであるが、ハガキの形式による年賀状は、やがて姿を消すことになるのではないかとも予想している。


年賀状 続けるべきか、やめるべきか : アド・ホックな倫理学

今日、下のような記事を見つけた。1月2日の年賀状配達、17年から中止 日本郵便 1月2日の年賀状の年賀状の配達が来年からなくなるようである。 よく知られているように、年賀状というのは、年始の挨拶の代用品であり、年賀状に非常にながい歴史があるわけではない。ま



 いや、年賀状がなくなるばかりではない。年末年始の行事もまた、少しずつ廃れて行くに違いない。何世代も同居して暮らす家族の場合、年中行事を廃止することは困難であろうが、独り暮らしなら、自分の決意だけで正月に何もしないことを選択し――付き合いで顔を出さなければならない新年会のようなものを除き――年末年始を1週間連続した休みとすることができるからである。

 たしかに、来し方行く末を落ち着いて考える時間は、誰にとっても必要である。しかし、少なくとも現在は、平均的な日本人にとり、正月はただ慌ただしいばかりであり、人生について思いをめぐらせる時期ではなくなりつつあるに違いない。

 むしろ、1年の区切りが必要であるなら、それは、自分で好きなように決めればよい。そして、自分で決めた区切りを迎えるとき、ひとりで静かに反省すればよい。私たちには、好きなように年末年始を過ごす権利があり、それぞれの生活の中で、好きなように1年を区切る権利がある。12月には、28日の仕事納めに向かって慌ただしく仕事を片づけ、年末年始には家族サービスに忙殺され、そして、疲労困憊した状態で1月4日の仕事始めを迎える……、このような正月の過ごし方が正常であるはずはないように思われるのである。


hung over

死が人生にとって持つ意味が死の恐怖の原因である

 「死ぬのは恐ろしいか」という問いに対する答えは、「死」をどのように定義するかによって異なる。死が単純な消滅であるなら、死は、それ自体としては、必ずしも注意を惹く出来事とはならないはずである。なぜなら、自分の存在が消えるとはどのような事態であるのか、誰にも見当がつかないからである。

 しかし、もちろん、消滅としての死は恐ろしいものでありうる。なぜなら、それは、人生の限界を作るものだからであり、生存の終わりを意味するものだからである。だから、消滅としての死は、それ自体として恐ろしいというよりも、それが人生の終わりを意味するかぎりにおいて恐ろしいものとなりうると考えるのが自然である。

 また、死は、恐ろしいものであるばかりではなく、「苦しいもの」「悲しいもの」であることも可能である。しかし、死がつらいものであるのは、死の先触れとして何らかの苦痛が避けられないことが多いからであり、同じように、死が悲しいものであるのは、死ぬことにより、親しい人々の別れを余儀なくされるからであろう。

自分をコントロールできなくなる恐怖

 とはいえ、死には、これをさらに恐ろしいものとする側面がある。それは、死に近づくとともに、自分自身をコントロールすることができなくなるのではないかという恐怖である。

 私は、今のところは、いろいろな意味において外見を取りつくろいながら生きている。人前に出れば、失言しないよう、礼儀正しく、感じよくふるまうよう心がけている。ひとりでいるとき、あるいは、心の中にどれほど醜く汚い感情、欲求、願望、憎悪を抱えていても、これを外に出すことはない。

 しかし、醜いもの、汚いもの、表に出したくないものを封じ込め、これを表に出さないようにするには、それなりの努力が必要となる。

 もちろん、自分の内面を外部へ溢れ出させないようにする努力など、普通の生活を送っている者が自覚しなければならないほどのものではない。私たちは、他人には隠しておきたいことを、特に意識に上ることもなく、その都度、自然に抑え込んでいるのである。

 けれども、私は、自分がせん妄状態になったり、意識を失ったりするとき、醜く汚いものを抑え込む力が失われるのではないか、そして、ヘドロのような内面が――私の「意識」が完全に忘れているものを含めて――すべて表に噴き出してくるのではないかという恐怖をひそかに抱いている。

 私の内面がヘドロのようであるのかどうか、これは、私自身にはわからない。ただ、私の内部に閉じ込めておくことができなくなった全人生の裏側が、私のコントロールを超えてまき散らされると考えると、死ぬことがとても恐ろしく感じられてくることは確かである。

 私が酒を飲まない理由の1つは、ここにある。酒を飲み、万が一泥酔したら、外見を取りつくろうことができなくなり、醜いもの、汚いものが白日のもとにさらされ、しかも、泥酔した自分の言葉、泥酔した自分のふるまいを何も覚えていない……、このような状態になるのが恐ろしいのである。

死への恐怖は、嘘が露見することへの恐怖に似ている

 みずからを自分の完全な支配下に置くことができない状況への恐怖は、「嘘つき」にも同じように認めることができる。

 嘘つきは、過去の自分の他人に対する言動をつねに反芻し、これと矛盾しないよう、内と外を決して混同しないよう、嘘が露見しないよう、自分の言動の首尾一貫性を維持することに膨大なエネルギーを費やす。不誠実を徹底させるには、相当な体力が必要であり、この体力が奪われたとき、不誠実な人生は破綻を免れない。死への恐怖は、嘘rが露見することへの恐怖に似ている。自分が不誠実であったことが暴露されることへの恐怖が死を怖れさせるのであるなら、私たちは、いや、私は、死を恐れなければならないほど自分に対しても他人に対しても不誠実な態度をとっていることになる。(何とも嘆かわしい、救いのない結論になってしまった……。)


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 人工知能が発達することにより人間の仕事が奪われるかも知れないという予想は、社会の中で広く受け容れられているものの1つである。

 たしかに、社会の中には、機械の性能が向上するとともに姿を消す可能性のある仕事は少なくない。実際、歴史を振り返るなら、技術の進歩とともに不要となった仕事はたくさんある。単純な肉体労働や事務作業というのは、「今は機械にはできない」仕事であるにすぎず――遠いか近いかは仕事の内容によって異なるとしても――将来のいずれかの時期に同じ作業に従事する機械が開発され、人間の仕事ではなくなるはずである。

 しかしながら、「今は機械にはできない」のではなく、「機械には決してできない」仕事というものがある。それは、直接に他人に対して責任をとるタイプの仕事である。

 もちろん、たとえば建設現場で足場を組んだり、オフィスで書類をコピーしたりするような作業に従事する者は、間接的には他人に対して責任を負っている。しかし、それは「業務を指示どおりに遂行する」責任であり、この意味において限定的な責任である。

 これに対し、社会には、「どう責任をとればよいかは相手により異なる」というタイプの仕事がある。たとえば、民間企業の場合、製品開発や市場調査、単なる広告や宣伝については、そのかなりの部分を人工知能に代行させることができる。また、医療や法律の分野でも、単なる情報の整理や書類の作成は、機械でも担うことができる。また、「グーグル・ニュース」がすべて機械によって編集されているという事実が雄弁に物語るように、新聞についても、近い将来、記事を配列し整理し配布する作業は、人間を必要としなくなるはずである。

 しかし、もっとも狭い意味での「営業」は、人工知能には担うことができない。これは、企業活動を構成する要素の中で、最後まで人間によって担われるはずである。それは「今はまだ」人工知能には無理なのではない。営業の本質が他人の話に耳を傾け、他人を説得することにあるかぎり、これは、人工知能には「決して」担うことができない。なぜなら、これは、人間の反応、具体的には満足/不満足に責任を負うものだからである。営業の仕事を人工知能に置き換えるなら、今度は、営業の成否についいて、人工知能を開発した者が責任を負うことになる。

 同じように、小学校から高等学校までの教員――さらに、幼稚園の教諭、あるいは保育士など――もまた、人工知能が代わることのできないものである。教員の仕事が「知識を提供すること」に尽きるのであれば、人工知能が教師の役割を担うことは容易であろう。しかし、実際の教員の仕事は、生徒や児童に対する「指導」であり、これは、子ども一人ひとりを観察し、いつ、どのような状況のもとで、誰に対し、どのような態度をとるか、その場で個別に決断することによってしか成り立たないものである。(人工知能にできることがあるとすれば、膨大な量のアドバイスをティップスとして蓄積し、状況に応じてこれを「提案」することであろうが、これは「指導」でも「教育」でもない。)そして、その「指導」は、指導する側が最終的な責任を負う。最終的な責任を負う仕事は、人工知能がどれほど発達しても、決してなくなることはない。(そもそも、人工知能には「人格」がないから、責任は一切負うことができない。)

 とはいえ、最終的な責任を負う者には仕事を人工知能に奪われるおそれがないことは確かであるとしても、このような仕事がつねに非常に大きなストレスを与えることもまた事実である。たとえば、教員なら、自分の指導に従わない生徒一人ひとりに向かい合い、関係を作って行くことがストレスになるばかりではない。上司、同僚、保護者などが突きつける要求を考慮することからも逃れることができない。実際、最近20年のあいだに新任の教員が少なくとも10人自殺しているようである。

新人教員 10年で少なくとも20人が自殺 | NHKニュース

 また、文部科学省は、2015年の1年間に精神疾患で休職した教員が5009人になるという調査の結果を公表している。この事実は、学校における教員のストレスの大きさを示している。

文科省調査:精神疾患で休職教員5009人 15年度 - 毎日新聞

 当然、民間企業で営業に従事する者もまた、客の気まぐれや手違いに振り回され、自分の予定や計画が狂い、これがストレスの原因になることがあるであろう。

 人工知能によって奪われない仕事は、最終的な責任を負う仕事である。しかし、それは、対人関係に由来する烈しいストレスにさらされる仕事であり、ことによると、給与に見合わない仕事、好んで就きたいと思う者が少ない仕事ということになるのかも知れない。


節分

節分の儀式は厄払いのためのもの

 2017年2月3日は節分である。「節分」というのは、旧暦で1年の最後に当たる日である。だから、節分の翌日、つまり2月4日は「立春」であり、ここから新しい1年が始まることになる。

 現在の日本社会のスケジュールは、基本的に新暦を1年の枠組としているけれども、年中行事の大半は、現在でも旧暦の二十四節気にもとづいて進められる。陰陽道や四柱推命を始めとする卜占が基準とする1年の区切りも、元旦ではなく立春である。たとえば、陰陽道が利用する九星では、2016年の立春から2017年の節分までのあいだに生まれた者は「二黒土星」であり、同じように、2017年の立春と2018年の節分のあいだに生まれた者は「一白水星」となる。同じ年の生まれでも、1月生まれと3月生まれでは「星」が異なるのである。

 このような事実を考慮するなら、古い1年に別れを告げる日としての節分は、もっと大切にされてよいのではないかと私は考えている。

節分には「豆まき」が正しい。それは、豆がまずいからである。

 ところで、節分がこのような性格の日である以上、節分に行うのが望ましいのは、1年の厄を落とし、新しい年のために福を呼び込むような儀式であろう。具体的に何をするかは、もちろん、人によって違うであろうが、私自身は、何か1つ選ぶなら、「豆まき」を行う。

 「豆まき」の儀式は、遅くとも平安時代の初期には行われていたことが確認されている。儀式とは言っても、「鬼はそと福はうち」と言いながら炒った大豆を手に取ってあちこち投げるだけの単純きわまるものである。腕が動くなら、この動作ができない者はいないであろう。

 私は、年中行事にはカネをほとんど使わないけれども、節分に撒く豆にはそれなりのものを使うことにしている。この10年くらいは、節分が近くなると京都の「豆政」が売り出す豆を取り寄せて使っている。(「それなり」とは言っても、送料込みで1500円もしないのだが……。)

創業明治17年、京名物の夷川五色豆を始めとした京都の豆菓子・和菓子老舗 豆政

 また、節分には「豆まき」でなければならないと考えるのには、理由がある。それは、豆が決しておいしいものではないという点である。炒っただけで味がついていない豆を年齢と同じ数だけ食べる作業は、年齢を重ね、食べなければならない豆の数が増えるとともに、次第に苦痛になる。数え年で100歳になれば、100個を食べなければならない。子どもなら、食べるべき豆の量は少ないとしても、味のない豆を食べることに耐えられないかも知れない。

 しかし、この豆の「まずさ」こそ、豆まきが正統な儀式であるために必要な要素である。食事としてではなく、純粋な儀式として食物を口にする機会は、少なくとも平均的な日本人の生活の中では滅多にない。豆の「まずさ」が節分の豆まきを儀式として生活の他の部分から区別してきたのであり、この点は、特に注意すべきであるように思われる。

 だから、大豆の代わりにピーナッツや砂糖菓子を使うのは、邪道であるばかりではなく、豆まきの儀式としての性格の否定でもある。まして、恵方巻など論外であろう。恵方巻が節分のアイテムとして受け容れられるようになったという事実は、日本人の幼児化の現われとして受け止められるべきであり、大いに憂慮すべき事態であると私は考えている。


St. Thomas Public Library- Official Opening preview, 1974

 一昨日、次のような記事を見つけた。

給付型奨学金、月2~4万円 18年度から

 文部科学省は、現在の高校2年生、つまり、2018年4月以降に大学に入学する者を対象とする給付型奨学金の支給を決めたようである。給付型奨学金というのは、返済を必要としないタイプの奨学金であり、国庫からの一方的な持ち出しとなる。

 たしかに、大学生に対して学費を補助することは、それ自体としては、決して後回しにしてよい課題ではない。むしろ、対策の時期はあまりにも遅く、しかも、規模はあまりにも小さいように思われる。(新たに予算に計上される210億円など、高齢者の医療費とはケタが2つ違う。)

 しかし、私は、この制度には反対である。

 この問題については、以前、次のような記事を書いたことがある。


給付型奨学金はどのように配分されるべきか : アド・ホックな倫理学

昨日、次のような記事を見つけた。高校成績「4」以上→月3万円 給付型奨学金の自民案:朝日新聞デジタル 現在の日本では、大学生を対象とする奨学金のほぼすべてが貸与型、つまり、返済を必要とするタイプの奨学金である。これに対し、外国、特に他の先進国では、奨学



上の記事で強調したことであるが、この制度には、少なくとも

    1. 評定平均を基準として
    2. 高等学校の卒業生を対象に
    3. 現金で支給する

という3つの点において深刻な欠陥が認められる。特に、第3の問題点を放置したまま奨学金を支給した場合、新たに予算として計上された210億円は、「カネのない世帯に学資を配った」という政府の単なるアリバイ作りの材料に終わってしまうであろう。

 そもそも、1つの高校について1人を選び、この生徒に1ヶ月に4万円を支給するくらいで格差や貧困が解消するはずはないし、たとえ4万円が大学生の手もとに届いたとしても、現金で支給されれば、生活費として優先的に使われ、学資に回ることはないであろう。

 奨学金は、勉強を支援するためのものであり、決して社会保険ではない。税金が原資となる以上、奨学金は勉強のために使われるべきであり、食品や携帯電話を買うために奨学金が使われてはならない。奨学金は、現金ではなく、「教育バウチャー」――教育サービスに限定したクーポン――の形で支給すべきであると私が考える理由である。実際、文部科学省では、教育バウチャーの検討が進められているようであり、この給付型奨学金に限定して試験的に導入してもよいのではないかと私自身はひそかに考えている。

教育バウチャーに関する研究会 教育バウチャーに関する検討状況について 1.主な論点及び意見−文部科学省

 奨学金を教育バウチャーとして支給することにより、サービスを提供する側あいだで競争が生まれ、学生に対する研究支援の市場の拡大と質の向上も促されるはずである。この分野の市場規模は、現在では、学生の数に反し、驚くほど小さい。それは、大学自身が片手間で提供するサービスにより、この分野の需要がほぼすべて吸収されてしまっているからである。しかし、冷静に考えるなら、これは異常な事態である。

 奨学金を現金で支給すると、生活扶助と区別がつかなくなる。この制度を続けていると、いずれ、「奨学金をもらえないと生活が成り立たない」などという見当はずれの声がどこかから上がり、そして、この声に応えるため、受給者の選定が単なる「貧乏くらべ」になって行く……、このようなことにならなければよいと心から願っている。


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