AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年12月

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 東京オリンピックまであと4年弱になった。そのせいなのか、あるいは、都知事が交代してオリンピックの運営体制の見直しが進んだせいなのか、よくわからないけれども、最近、オリンピックに何らかの形で関連するニュースを見かける機会が増えた。たとえば、一昨日には、次のような記事を見つけた。

五輪バレー会場、有明アリーナに 小池知事表明

 スポーツ全般におよそ関心がない私のような者にとっては、なぜバレーボールのために新しい競技場を建設しなければならないのか、しかも、建設のために税金を投じなければならないのか、サッパリわからない。もちろん、東京オリンピックが終わったあと、新しい競技場が「負の遺産」になるのではないかという懸念が広い範囲において共有されているのか、日本バレーボール協会は、大会のあとの利用に積極的にコミットすることを表明したようである。

アリーナの後利用で「リーダーに」=バレー協会が意欲:時事ドットコム

 そもそも、アマチュアスポーツというのは、それ自体としてはカネを産まない。だから、愛好家が集まり、自分たちの負担でスポーツを楽しんでいるかぎりでは、何ら問題は発生しない。そのようなスポーツの競技団体というのは、日本中、いや、世界中にたくさんある。

 けれども、その競技がオリンピックの種目、特に重要な種目に選ばれると、競技団体は、世界大会やオリンピックでの代表選手の入賞を目標に競技を上からコントロールする組織となる。そして、このような競技団体や日本オリンピック委員会を受け皿として多額の補助金が投入されることになる。

 たしかに、オリンピックの種目となるような競技には、それなりの公的性格がないわけではなく、このかぎりにおいて、スポーツの振興のために多少の税金が投入されることには正当な根拠があるのかも知れない。けれども、公的な性格を具えているのであるなら、競技団体は、自分たちの要求や要望に公共性があるのかどうか、公共の福祉を促進するのかどうか、補助金を受け取る資格があるのかどうか、慎重に吟味すべきであるように思われる。

 何年か前、大阪市が文楽協会に対する税金による補助を打ち切ったことが大きなニュースになった。私は、文楽が決して無価値であるとは思わないけれども、補助金というものが、文楽について何の知識も興味もない納税者から徴収された税金を原資とする以上、文楽協会には、当然、文楽に関心のない公衆に対し文楽が公共の福祉を促進するものであることをわかりやすく説明する責任が課せられていたはずである。幸い、文楽協会は、自力更生したようであり、自力更生することができたのであるなら、それは、世間が文楽の意義を承認したことを意味するから、文楽協会に対する公的な補助を再開してもよいのではないかと私は考えている。

 各種のアマチュアスポーツの競技団体についても、事情は同じである。少なくとも、アマチュアスポーツが公的な補助を受けるのは決して当然のことではないし、競技場の選定や建設に関して口を出す当然の資格が競技団体や日本オリンピック委員会にあるとも思われないが、なぜか世間は、そして、政府は、学術や文化とくらべ、スポーツに税金を使うことには寛大である。

 しかし、私は、大阪市が文楽協会に対する補助金を打ち切ったのと同じように、どこかで一度、アマチュアスポーツにどの程度の公共性があるのか、競技ごとに厳しく査定し、場合によっては補助金を一旦打ち切ってもよいのではないかと考えている。補助金に頼ることができなくなれば、また、政府や地方公共団体の負担で競技場や練習場が建設されないことになれば、そのとき、競技団体は、競技人口を増やし、裾野を広げる努力を死に物狂いで始めることになるであろう。そして、このような努力の結果として、競技の裾野が広がり、競技人口が増えれば、そのときには、競技の存在意義に対する国民の関心もまた深くなっているに違いない。


Red Cross Museum Geneva

 私は医者が好きではない。必要に迫られなければ、病院には行かないし、医者と話したくもない。幸い、今のところは、持病と言うほどのものはないから、日常的に服用している薬もなく、定期的に医者の診察を受ける必要もない。これはありがたいことである。

 私の場合、歯医者に定期的に通うのを除くと、医者に行く機会は多くはない。だから、差し迫った必要があるわけでもないのに医者にかかる人の気持ちがよくわからないのだが、自分の身体の不調の解消を期待して病院に行くのであろう。たしかに、病院に行って病気を治す、あるいは、治してもらうというのは、ごく当然のことのように見える。

 実際、単なる風邪から十分な治療薬のない難病まで、人間は無数の病気に罹る可能性があるけれども、純粋に「数」という観点から眺めるなら、病院は、これらの病気の大半を治すことが可能である。人間の寿命が大幅に延びたのは、医療の進歩により多くの病気が克服可能になったからである。

 しかし、医療の進歩が人間の長寿を実現したという事実は、私たちに2つのことを教える。第一に、人間の寿命が今ほど長くなかった時代には、医療によって克服することのできる病気や怪我は必ずしも多くはなかったこと、第二に、人間と医療との関係もまた、現在とは異なるものであったことである。

 少なくとも20世紀半ばまでの何千年ものあいだ、医者というのは、病気に対して無力な存在であり、医療の対象となる病気は限られていた。だから、病気に罹り、日常生活にいちじるしく支障をきたすような異状が身体に認められるようになるとき、それはほぼそのまま死を意味したはずである。

 もちろん、中には、病気を治すために考えうるかぎりの可能性を試す者がいないわけではなかったであろう。しかし、このような者が頼るのは、普通の意味における医療ではなく、どちらかと言えば、呪術に属するものであったに違いない。

 「病気になったら病院で治せばよい」というのは、現在の常識であるかも知れない。しかし、これが常識となったのは、最近60年か70年のことである。もちろん、病院に行っても、すべての病気を治すことができるわけではなく、人間にとって死は不可避である。人間はどうせ死ぬのだから治療しても無駄であると言うつもりはないけれども、それでも、医療には明瞭な限界がある。どう生きるか、あるいは、同じことであるが、どう死ぬかを、つねに考えながら医療というものに向き合うことは、治癒する可能性のある病気が増えただけに、そして、死が私たちの身近からその分遠ざかっただけに、現代の私たちにとって、愚者にならないための不可欠の心がけであるように思われるのである。


Gourmet Food Court @Isetan - Shinjuku

 週に1回か2回、平日の昼間に新宿三丁目駅で地下鉄を降りることがある。そして、地上に出るときには、伊勢丹の地下1階を通り抜けて地上に出ることが多い。

 伊勢丹の地下1階の食品売り場、いわゆる「デパ地下」を通り抜けるとき、いつも感じることがある。それは、「どこが不景気なのだ」ということである。というのも、そこでは、1片が500円を超えるケーキや、100gで1000円近い惣菜が売られており、しかも、ときには、購入する順番を待つ客の行列が発生していることすらあるからである。バブルの再来ではないかと思うことすらある。

 たしかに、景気がよくないという話はいたるところから聞こえてくる。「個人消費が伸びない」「子どもの貧困が深刻である」「非正規労働者の賃金が上がらない」……、しかし、伊勢丹のデパ地下を歩いていると、この同じ社会には、経済的につらい生活を送っている人々とともに、高額な菓子や惣菜を大して吟味することもなく購入することができるほど経済的に余裕のある人々もいることがわかる。(新宿の伊勢丹が全国の百貨店において占める位置を考慮するなら、おそらく、伊勢丹のデパ地下の店頭にあるのは、デパ地下の中ではもっとも高額な食品ばかりであるに違いない。)

 私は、明日の食べものにもこと欠くような生活を送っているわけではない。だから、今の日本の中では、私は、どちらかと言えば恵まれた生活を送っていることになるのであろう。それでも、1片が500円のケーキを自分のために買おうとは思わない。たしかに、高級とは言えない菓子屋で売られている1個200円のケーキには期待することができない何か、値段にふさわしい何かが500円のケーキにはあるのであろう。それでも、小さなケーキ1個に500円も出すことは、私の金銭感覚が許さない。カネがないからではなく、少なくとも私にとっては、500円というのは、もはやケーキの値段ではないからである。

 とはいえ、激安を売りものにする近所のスーパーマーケットが伊勢丹のデパ地下と同じようにいつも混雑しているのを見るたびに、次のように考えるようになった。すなわち、社会全体に対し通用可能な金銭感覚なるものはもはやどこにもなく、「つつましい生活」「贅沢な暮らし」などの表現にかつては具わっていたリアリティも失われてしまったのかも知れないのである。現代では、何を「つつましい」と呼び、何を「贅沢」と評価するかという点に関し、社会的な合意が失われてしまったのであろう。

 生命を維持するために必要な最低限の食料すら手に入れられなくなるような状態――いわゆる「絶対的貧困」――に陥らないかぎり、生活に困窮しているとしても、他人の目には貧困と映りにくい。「相対的貧困は目に見えない」とよく言われるけれども、おそらく、相対的貧困が目に見えないのは、社会全体が漠然と共有する金銭感覚が失われたからであると考えるのが自然である。

 漠然と共有された金銭感覚がある状況のもとでは、誰かが貧乏であるかどうかは、職業、外見、カネの使い方などの観察にもとづいて比較的簡単に判定することが可能であるけれども、現在では、金銭感覚なるものからパブリックな性格、規範としての性格が失われ、他人が貧乏であるのかどうか、直観的に判定することはできない。生活に困窮している人々のことを気の毒と思わない者はいないであろう。しかし、このような人々がどのような金銭感覚のもとで自分の人生を眺め、世界を眺めているのか、相手に身になって想像することは、現代では途方もなく困難な作業になっているように思われるのである。


源光庵

モノが消去されればそれでよいのか

 去年の今ごろ、次の本を読んだ。

ぼくたちに、もうモノは必要ない。

  「ミニマリズム」(minimalism) というのは、何年か前にアメリカで生まれたライフスタイルの流行であり、これを実践する者が「ミニマリスト」(minimalist) と呼ばれている。持ち物を最小限に限定したシンプルな生活を理想として目指すものである。

 たとえば、すでに一昨年には、次のような本が日本語に翻訳されている。

minimalism 30歳からはじめるミニマル・ライフ

 アメリカでは、この本の著者たち、

The Minimalists

あるいは、下のようなブロガーがミニマリストとして有名であり、

Becoming Minimalist

ミニマリズムに関するドキュメンタリー映画も作られている。

Minimalism: A Documentary About the Important Things

 私自身、本を始めとする大量の持ち物につねに悩まされており、ミニマリスティックな生活には大きな憧れを持ちながら、片づけに励んでいる。

 ただ、しばらく前、最初に掲げた本の著者の次のインタビューを聴き、ミニマリストの生活について、ある疑問を持った。


 このインタビューにおいて、著者の佐々木氏は、持ち物を処分するにあたり、すべて写真に記録したと語っている(9分すぎから)。これに対し、インタビュアーは、すべてを写真に記録していると、膨大なデジタル情報が整理されないまま増えて行くのではないか、デジタル情報の氾濫と表裏一体になって初めてミニマリズムが実現しているのではないかという疑問を口にしている。佐々木氏は、デジタルデータがいくらあっても気にならない、と意味のことを語り、インタビュアーの疑問を一言のもとに斥けている。

 しかし、これは、ミニマリズムの核心にかかわるきわめて真っ当な問題提起と見なされねばならない。つまり、目の前にあるものを消去しても、脳内を「汚屋敷」の状態で放置しているのなら、これは本当の意味におけるミニマリズムと言えるのであろうか、というのが私の疑問である。

本当のミニマリズムは「デジタル汚屋敷」を解消しなければ実現しない

 目の前から物理的なモノが消去されても、見えないところにそれが隠れているだけであるなら、隠れている場所がサイバースペースであり、モノが三次元空間を占領しないとしても、そのモノは、私の注意力を奪い、記憶を圧迫し続ける。所有物は、三次元空間を占領しているかどうかに関係なく、所有されているかぎり、私の世界を形作る要素であり続けるのである。

 したがって、所有物を占有するスペースを「デジタル化」という形で圧縮するのは、ミニマリズムでも何でもない。それは、場所を占領するものを目の前から消しているにすぎず、汚屋敷に住む老人のふるまいと同じであり、サイバースペースの「汚屋敷」、いわば「デジタル汚屋敷」を作っているのと同じことである。

 むしろ、ミニマリズムが目指すべきであるのは、不要な記憶を消去することであり、そのためには、捨てると決めたモノを写真に記録するなど、決してしてはならない。写真に記録したら、今度は、写真をどのように保管し整理すべきかという問題が頭を悩ますことになるからである。思い出すよすががなければ、不要なこと、思い出したくないことの記憶はやがて失われて行く。だから、何を捨てたか、手帳に書きとめておく程度ならかまわないとしても――手帳に書きとめる作業は、写真撮影のように簡単ではないから、本当に書きとめるに値するかどうかを否応なく考えることになる――「モノとして手もとに残すもの」と「痕跡を残さずに処分するもの」のいずれかにすべてを分類すべきであろう。


Evernote Goodies

Evernoteの迷走

 昨日、Evernote社は、社員が利用者のデータを閲覧することができるよう2017年1月からプライバシーポリシーを改訂すると発表した。

さよならプライバシー、Evernote社員が利用者のノートを閲覧可能に - Computerworldニュース:Computerworld

 しかし、当然のことながら、この発表は利用者の神経を逆撫ですることになり、批判がネット上に氾濫した。Evernote社は、批判をうけ、改訂を諦めたようである。

Evernote、ユーザーの反発受け「機械学習のためのノート閲覧」ポリシーを撤回。ユーザーによるオプトイン方式に変更へ - Engadget Japanese

 たしかに、これは、テロや戦争のような世界的な大事件ではない。しかし、現実にプライバシーポリシーが改訂されることになれば、Evernoteを普段から使っている者の生活にはそれなりに大きな影響を与えることは事実である。プライバシーポリシーの変更のニュースを聞き、Evernoteをそのまま使い続けるか、それとも、別の道を検討するか、悩んだ人は少なくなかったに違いない。

 Evernote社は、2008年にアメリカでサービスを開始し、日本には2011年に上陸した。もちろん、Evernote社がサービスを始めたころには、複数の端末でメモを同期するサービスには競合する企業がなかった。しかし、このサービスでEvernote社が大きなシェアを持っているのは、そのためではない。

 グーグル、アップル、マイクロソフトなどと比較すると、Evernote社は、ユーザーのプライバシーを守ることについて真剣な態度を示してきた。Evernoteの成功をうけ、他の企業が類似のサービスを始めても、また、サービスの改悪や料金の値上げなどが繰り返されても、Evernoteの熱心な利用者が離れて行かなかった最大の理由は、プライバシーの問題に対しEvernote社が特別に神経質であったという点にある。また、これが、熱狂的な「信者」を増やしてきた理由でもある。

 私自身、Evernoteが日本に上陸してからすぐに使い始めた一人であるが、この1年か2年くらいのあいだ、類似のサービスに乗り換えることを何回か考え、しかし、結局、Evernoteを使い続けてきた。それは、やはり、プライバシーに関するEvernote社の方針を評価していたからである。今回の騒動をうけ、Evernoteに対する信用を失い、離れる利用者は増えるであろう。少なくとも、利用者の多くは、Evernoteにデータを預けることに慎重になるに違いない。

便利と安全のトレードオフ

 誰でもわかるように、クラウドコンピューターを使ったサービスでは、便利であることと安全であることはトレードオフの関係にある。

 Dropboxは、有名なオンラインのストレージサービスであり、利用している人は多いであろう。利用者が多いのは、使い方が簡単だからである。しかし、便利に使うことができる分、このDropboxには、セキュリティ上の懸念がつねに付きまとう。

 これに対し、たとえば、同じサービスを提供しているSpiderOakは、利用者のプライバシーを全面的に保護することを売りものにしている。(エドワード・スノーデンが使用を推奨するサービスでもある。)けれども、その分、使い勝手は悪くなることを避けられない。SpiderOakの場合、データを同期することのできる端末の数に制限はないが、Dropboxとは異なり、事前に登録した端末からしか使うことができない。10年近く前にサービスが始まったにもかかわらず、ユーザーが必ずしも増えないのは、不便だからであろう。

 私自身、2011年からEvernoteを使ってきたけれども、今回の事件をうけ、ある程度以上のセキュリティを必要とするデータをすべてEvernoteから引き揚げ、自宅のNAS(=ネットワークHDD)でこれを管理することに決めた。機器の管理を自分で行わなければならないけれども、自宅のLANを家族以外の誰とも共有していないのであれば、NASは――家族の誰かのいたずらでデータが消去されてしまうことでもないかぎり――セキュリティ上の問題とは無縁だからである。

「デジタル汚屋敷」を解消し、ダウンサイジングするのが一番安全

 しかし、もっとも安全なのは、データを減らすこと、自分が掌握可能な範囲に情報量を制限することであろう。

 いつか使うかも知れない情報であるという理由でEvernoteに無差別に放り込んだり、自分が作った書類を何もかもDropboxに放り込んだりする……、私は、ながいあいだ、このような作業を漫然と繰り返してきた。そのせいで、決して見返されることのない膨大なデータがEvernoteやDropboxの底に澱のようにたまっていた。EvernoteやDropboxに保存、保管したデータを検索していると、何のためのデータなのかまったく思い出すことができないものに出会うことが少なくない。

 オンラインストレージは、自分が覚えていられない情報を蓄積させる「第二の脳」などと呼ばれている。「第二の脳」というのは、大いに結構な響きであるけれども、よほど几帳面にデータを整理しないかぎり、その実態は「デジタル汚屋敷」と呼ぶのがふさわしいものとなる。

 「第二の脳」に記録して自分自身は忘れたつもりになっていても、情報が失われたわけではなく、自分の記憶を――しかも、利用不可能な形で――圧迫し続ける。ゴミを見えない空間に放り込めば、さしあたり目の前からは消去されるが、ゴミが消えるわけではなく、また、ゴミを見えないところに放り込んだという記憶が消えることもない。「汚屋敷」の問題は、ゴミによって空間が占領されることにあるのではなく、むしろ、ゴミを見えないところに蹴り込んだ事実が住人の精神衛生をむしばむ点に求められるべきである。EvernoteやDropboxの内部が「デジタル汚屋敷」になっているのなら、情報量を減らすことは、安全を実現するためであるばかりではなく、心の余裕を作り出す上でも大切な作業となるのではないかと私はひそかに考えている。


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