AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年12月

Washington DC

 11月にアメリカの大統領選挙が終わったころから、「偽ニュース」(fake news) という言葉を目にする機会が増えた。特に、いわゆる「ピザゲート」事件以降、広い範囲において偽ニュースに対する懸念が共有されるようになったように思われる。

偽ニュース、小児性愛、ヒラリー、銃撃...ピザゲートとは何か

 「偽ニュース」というのは、文字どおり偽のニュースである。英語版のウィキペディアの記事「偽ニュースサイト」(fake news website) によれば、偽ニュースの内容となるは、プロパガンダ(propaganda)、いたずら(hoax)、偽情報(disinformation) であり、虚偽を虚偽として掲載したりニュースのパロディを掲載したりする”news satire”――日本では虚構新聞がこれに当たる――とは異なり、「偽ニュースサイト」は、読者をミスリードし、欺き、そして、世論を誤った方向へと誘導する意図のもとに、ある情報が虚偽であるとわかっていながら、これを事実といつわって掲載するサイトである。

 実際、今回のアメリカ大統領選挙を始めとして、政治的な意思決定が偽ニュースによって阻碍されたり歪められたりするケースが散見するとウィキペディアには記されており、オーストラリア、オーストリア、ブラジル、カナダ、中国、フィンランド、フランス、ドイツ、インド、インドネシア、フィリピン、イタリア、ミャンマー、ポーランド、スウェーデン、台湾、ウクライナ、アメリカ、イギリスなどの事例が紹介されている。(ただし、中国は、偽ニュースを口実にネット上の検閲を強化しただけである。)

 欧米諸国では、偽ニュースの拡散が「心理戦」であること、民主主義の脅威であること、ネット上の「荒らし」の一種であることは共通了解になっており、さらに、偽ニュースの主なものが、ロシア政府が関与する「偽ニュース通信社」(pseudo-news agencies) が民主主義に対する信頼を損ね、社会を分断させるために流布させていることがすでに明らかになっている。アメリカ政府は、アメリカの大統領選挙期間中に流布し、ソーシャルメディアによって拡散した偽ニュースはほぼすべて、ロシアから発信されたものであることをすでに確認したようである。

 このような事実を考慮するなら、偽ニュースが拡散している現在の状況は、すでに戦争状態にあると考えるのが自然である。そして、この戦争は、自由と民主主義を標的とするものであるから、私たちは、偽ニュース(=デマ)――「陰謀論」の形をとることが多い――に騙されることのないよう細心の注意を払ってニュースに接することが必要となる。

 たしかに、偽ニュースの中には、私たちの耳に快く響くものがあるかも知れない。しかし、偽ニュースが耳に快いのは、それが私たちの妬み、憎しみ、怒りを正当化し、増幅させるからであり、オープンな討議による合意の形成を促すからではない。偽ニュースサイトが目指しているのは、否定的な情動を煽ることにより、民主主義と平和と自由の破壊であり、かゆい湿疹で皮膚が覆われるとき、これを治療する薬が与えられるのではなく、反対に、傷つき、出血し、化膿し、ただれるまで皮膚を掻きむしり続けるよう煽られているようなものなのである。

 だから、複数の大手のメディアが伝えていないような情報、ソーシャルメディアに由来するような情報は、どれほど耳に心地よいものであるとしても、決してそのまま受け止めるべきではない。社会を分断する可能性のあるニュース、少数者に対する敵意を煽ったり、政府の陰謀の可能性を示唆したりするニュースには最大限の警戒を忘れてはならないと思う。

 残念ながら、平均的な日本人のメディアリテラシーは決して高度なものではない。そのため、日本共産党――「偽ニュースサイト」がそのまま政党化したような集団――やその周辺の団体の宣伝に簡単に騙される日本人は、いまだに少なくないように思われる。(そもそも、社会の混乱を目標とする偽ニュースの流布は、ロシア革命以来、共産主義政党の得意技でもある。)

 しかし、共産党に由来するすべての主張と情報は、「政権をとる可能性がなく、したがって、自分の公約について責任を取らされるおそれがない」ことを前提とする――政府に対する国民の信頼が傷つきさえすれば何を主張してもかまわないという――無責任なプロパガンダである。共産党に代表される左翼の主張が社会の分断を目標とする虚偽であると想定すること、選挙において左翼の候補者が語ることを間違いか嘘と見ななして警戒することは、新しいメディアリテラシーの獲得のための最初の一歩であるに違いない。

 以前に述べたように、日本人は、個人としての政治家が嘘をついても驚かないのに反し、政党には無邪気な信頼を寄せているように見える。


「真理にもとづかない政治」と民主主義の危機 : アド・ホックな倫理学

甲状腺がん、線量関連なし 福島医大、震災後4年間の有病率分析 「真理にもとづかない政治」とは、post-truth politicsの訳語である。日本では、イギリスで行われたEU離脱の国民投票の際、「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) という言葉が何回かマス



 日本人に政党を疑う習慣がないのは、平均的な日本人が「政党」という言葉を耳にして最初に連想するのが自民党だからであろう。たしかに、自民党には、党員全員が一致して嘘をつくことができるほどの結束力はない。しかし、現実には、1つの政党が結束して組織的に嘘をつくことは可能であり、実際、共産党は、これまで組織的に国民を騙そうとしてきた。幸いなことに、これまで共産党(を始めとする集団)に騙された日本人は、相対的に少数であった。しかし、現在の世界がすでに戦争状態にあるなら、私たち一人ひとりが毎日の生活において社会の健全性を損ねるような敵から身を(というよりも心を)護ることは避けて通ることの許さない課題であるに違いない。


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これが問題になったきっかけは、授賞式に現れた国会議員

 昨日、次のような記事を見つけた。

「日本を愛しています」と語った俵万智さんに集まる「反日」批判 愛国とは何なのか

 これは、「保育園落ちた日本死ね」が新語・流行語大賞に選ばれたという出来事に関連する記事である。(なお、正確には、「保育園落ちた日本死ね」ではなく「保育園落ちた日本死ね!!!」と表記しなければいけない。)

 たしかに、「保育園落ちた日本死ね」は、きわめて格調の低い発言であり、これが選ばれることにある違和感を覚えるのは当然である。実際、新語・流行語大賞のウェブサイトには、この文字列について、次のように記されている。

「死ね」というのは美しい表現ではないが、一つの言葉がここまで待機児童問題を世の中に周知させたという事実を評価し、受賞語として選出した。

 しかし、多くの人々が漠然と抱いていた違和感を増幅させ、この違和感が単なる格調をめぐる趣味の問題を超えて「政治的」なレベルに拡大したのは、受賞者とされた野党の国会議員が「満面の笑顔」で授賞式に現われ、登壇したからであり、この「満面の笑顔」が日本を貶めることに対する満足の笑顔として解釈されたからであるに違いない。

 もちろん、形式的に考えるなら、(本人の心中はわからないが、)問題の国会議員の笑顔を日本を貶めたことの満足の表現、あるいは、政権を攻撃するプロパガンダが成功したことの満足の表現と受け取ることは不自然であり、やはり、上に引用した言葉のとおり、世論を喚起し、問題の解決に貢献したことへの満足と受け止められるべきであろう。(もちろん、世論を実際に生産的な方向へと喚起したかどうかについては、議論の余地がある。)

 また、たとえ彼女が反日のプロパガンダの成功に満足しているとしても、この程度の成功で「満面の笑顔」を隠すことができないのなら、この笑顔は、野党のあまりにも低い「志」を反映するものとして、驚きとともに受け取られるべきであろう。また、新語・流行語に選ばれたくらいで「してやったり」と考え、みずからを肯定的に評価してしまう野党など、現在の政権にとっては脅威でもライバルでもないことが公衆の前で露呈したにすぎないと考え、右翼は大いに安心すべきであろう。

 冒頭の記事では、選考委員の一人である俵万智氏が攻撃されていることが紹介されていた。俵氏は、次のように語っている。




 私は、少なくとも新語・流行語大賞に関するかぎり、彼女の発言が特別に偏向しているとも反日的であるとも思わない。問題があるとするなら、彼女を始めとする選考委員が待機児童の解消のための政府や自治体の努力について正確な知識を欠いたまま、この文字列を選んでしまった点である。(右翼によれば、これは、無知によるものではなく、故意のすり替えであるということになる。もちろん、右翼の見方は、単なる憶測によるものにすぎないけれども、選考委員の顔ぶれが全体として「左」方向に大きく傾斜していること、また、実質的な主催者であり「現代用語の基礎知識」の発行元である自由国民社が――もともとは右寄りのメディアだったにもかかわらず――この何年かのあいだに急激な「左旋回」を遂げたことを考慮するなら、さらに、去年は「アベ政治を許さない」が受賞していることを考慮するなら、このような憶測が「右」の人々のあいだで生まれるのは仕方がないような気もする。)

新語・流行語大賞はながく使われるような言葉に与えられてきたわけではない

 とはいえ、根本的な問題は、俵万智氏を批判したり、「保育園落ちた日本死ね」が選ばれたことに憤りをあらわにしている人々がいずれも、次のような誤解に不知不識に囚われている点である。すなわち、新語・流行語大賞が何か権威のある賞であり、これまで受賞してきたのがいずれも、積極的に使うのが望ましい言葉、ながく使われ、人々の記憶に遺るのにふさわしい言葉であるという誤解が批判や憤りの前提になっているのである。

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 少し冷静になって過去の「受賞語」を振り返るなら、私たちは、次のことに気づく。新語・流行語大賞とは、あくまでも、それなりに広い範囲において新たに使われるようになった言葉を対象とするものであり、きれいな言葉が選ばれてきたわけではないし、受賞した言葉がその後も使い続けられたわけでもない。それどころか、新語・流行語大賞に選ばれて初めてそれが新語あるいは流行語であることを知ることも珍しくない。2016年に受賞した11の言葉のうち、私は、「神ってる」「聖地巡礼」「(僕の)アモーレ」「復興城主」の4つを見たことがなかった。また、去年までに選ばれたものについても、全体として少なくとも半分は知らない。さらに、10年以上前に受賞した言葉については、詳しく説明されなければその意味がわからない場合もある。(2006年の「たらこ・たらこ・たらこ」、2007年の「鈍感力」など。)

 新語・流行語大賞は、言葉を選ぶことにより、日本語の使用の規範を定めようとしているのではないし、表現の格調、言葉の背後にある事実認識の妥当性などを基準としているわけでもない。だから、過去の「受賞語」は、意味不明な文字列の見本市であり、文字通りの「阿呆の画廊」であるけれども、日本語としての品質や格調が最初から無視されている以上、これは当然のことなのである。「保育園落ちた日本死ね」もまた、それほど時間を経ることなく、人々の記憶から姿を消し、意味不明な文字列の見本市を飾る作品の一つに数えられるようになるであろう。


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 上手く行かないことが一日のうちに続けざまに起こることがある。予定していた会合が急にキャンセルになったり、書類にミスが見つかったり、仕事上の関係者の不手際のせいで面倒な雑用が急に飛び込んできたり……。このようなとき、その日にするはずだったことが片づかないばかりではなく、何となく消耗して意気阻喪し、生産的な仕事に着手する気が失せることがある。また、このような気分をおして無理に何かを片づけようとすると、新たなミスが発生するのではないかという気がかりに襲われ、ミスを避けることに注意がさらに奪われて消耗することになる。

 このような悪循環が生れる原因の1つがオーバーワークにあることは確かであり、このような場合、仕事量を減らし、自分の目の前のスペースを片づけるだけで、生活に秩序が戻ることは少なくない。

時間に余裕がなければ、目をつぶって深呼吸する

 しかし、「今日は何もかも上手く行かない」と思ったら、ほんの少しでもよい、仕事の手(あるいは足)を止めて、別のことをすべきである。私自身は、仕事に余裕がないときには、目をつぶって2分か3分のあいだゆっくり深呼吸する。思い切り深呼吸しながら呼吸の数を数えていると、少なくともそのあいだは、注意が数えることに完全に奪われるから、今日の上手く行かなかったことを考えずに済ませることができる。もちろん、深呼吸しても、問題の根源がどこにあるのかわかるとはかぎらないけれども、それでも、少しだけ問題から距離をとって落ち着くことができるに違いない。

 上手く行かないことが続き、これに注意を奪われていると、呼吸が浅くなる。深呼吸に効果があるのは、身体が酸素不足の状態になっているからであるのかも知れない。ただ、私はこの点について詳しい知識を持っているわけではないから、断定的なことは言えない。

少し時間があるなら、軽い筋トレを

 30分くらいなら時間をとることができるとき、私は、仕事を中断し、軽い筋トレをすることにしている。筋トレのメリットは、深呼吸と同じである。つまり、自分の身体に負荷をかけるときには、身体に注意を否応なく集中させるから、今日の自分の不運など考えている余裕はなくなるのである。

 同じ運動と言っても、ジョギングやウォーキングのような有酸素運動は、他のことを考えながらでも続けることが可能である。だから、「今日は上手く行かない」という気分は、有酸素運動では解消することができない。スポーツジムに行くなら、トレッドミルの上を歩くのではなく、マシンやフリーウェイトを使った筋トレをすべきであろう。また、その方が、ダイエットにとってもまたはるかに効果的である。

 私は、下の本の著者のように筋トレがすべての問題を解決するとは思わないけれども、それでも、筋トレが精神衛生に与える影響は、もう少し認められてもよいとひそかに考えている。

筋トレが最強のソリューションである マッチョ社長が教える究極の悩み解決法

スマホをいじったり、テレビを観たりするのは逆効果

 なお、深呼吸や筋トレとは異なり、スマホをいじったり、テレビを観たりすることには、仕事を中断して気分と態勢を立て直す効果はなく、むしろ、私の個人的な経験では、これは逆効果である。たしかに、スマホやテレビの画面に注意を向ければ、そのあいだは、自分のことを考えずに済む。しかし、スマホやテレビは、深呼吸や筋トレのように「頭の中をカラにする」のではなく――非科学的な言い方になるが――別の気がかりや別の情報によって頭を満たしてしまう。だから、中断した仕事に戻ろうと思っても、頭の中に霞がかかったような状態になり、生産性はむしろ損なわれるように思われる。


Pilgrimage, Tennyson Down.

 しばらく前、自分の戸籍謄本(全部事項証明書)と親族の戸籍(または除籍)謄本を本籍地を管轄する役所で取得する機会があった。これまでに何度となく見ている書類であるから、何か発見があったわけではないが、それでも、見るたびに感慨を覚えることが1つある。それは、こうした書類に名前が遺されている私よりも1世代上、つまり両親の世代の人々――私の場合、この世代はもう誰もこの世にいない――、あるいは、その上の世代(祖父母の世代)の人々、そして、さらに上の世代(曽祖父母の世代)の人々……、このような人々のうち、私が会ったことがあり、話したことがあり、このかぎりで私が記憶している人々は、ごくわずかしかいないということである。

 もちろん、上の世代には、私以外にも相当な数の知り合いがあるような人物、さらに、本人と面識はなくても、社会的な地位が高かったり、書物や雑誌で名前が取り上げられたりしために、さらに多くの人々から間接的に知られていたような人物がいないわけではない。このような人々は、本人を知る同時代の人々がすべて世を去っても、情緒的なものを洗い流され漂白された客観的な事実へ埋め込まれ、広い意味における「歴史上の人物」としてWho’s Whoまたはプロソポグラフィーの片隅にいつまでも名前をとどめることになるのであろう。

 しかし、このような特殊な例外を別にすれば、大抵の人々は、無名のままこの世に生れ、無名のまま人生を生き、そして、世を去るとともに周囲の人々の記憶から速やかに消去され、単なる除籍謄本上の人名となることを避けられない。たとえば、私の3世代上、つまり、曽祖父母の世代は、計算上8人いるはずであるが、私が生れたときに存命だったのは、このうち、母方の祖父の母親ひとりであり、他の7人はすでに他界していた。私の両親も、これら7人を直接には知らず、また、祖父母の世代の人々が自分たちの上の世代について語るのを聴いた記憶も私にはない。だから、私は、これら7人の人々――すべて明治時代の前半の生まれであろう――がどこでどのような生活を送り、何を考え、何を感じ、そして、どのようにして世を去ったのか、具体的なことはほぼ何も知らない。さらにその上の世代――幕末から明治維新をくぐり抜けた世代――にいたっては、計算上16人いる人々のうち、私は、私の直系の先祖に当たる同じ苗字の1人――高祖父に当たる――についてだけ(諱と字を含む)フルネームを知っており、また、幕臣として明治維新を迎えたことを知っているが、他の15人については、もはや思い出すよすがもないのである。(もちろん、曽祖父母の除籍謄本を見れば、名前はわかるであろうが。)

 以前、歴史が死者のものであるという意味のことを書いた。


死者との対話 : アド・ホックな倫理学

歴史は死者のものである 「人類はいつ誕生したのか。」この問いに対する答えは、「人類」をどのように定義するかによって異なるであろう。ただ、現代まで大まかに連続している人類の文明がメソポタミアに起源を持つという世界史の常識に従うなら、人類の歴史には少なくとも8



 これは、まぎれもない真理である。しかし、それとともに、この世が、そして、私たちの日々の生活が生者のためのものであり、決して死者に奉仕するためのものであってはならないこともまた確かである。

 死者が生者の記憶をいつまでも占拠することは許されない。私がいつ世を去るか、これはわからないけれども、私は、世を去ると同時に人々から忘れられてしまうであろう。多くの人々は、私の死を知っても、これを悼むことすらないはずである。これは、大変に悲しいことではあるが、忘却の暗闇に吸い込まれ、記憶の彼方へと消えてなくなることは、死者が甘受すべき宿命なのである。役所の窓口で自分と親族の戸籍を受け取り、直接には知らぬ人々の名をそこに認めるたびに、私の心には、このような感慨が浮かぶ。


Reading and chatting

 しばらく前、iPad miniを廃棄した。私が廃棄したのは、2013年に購入した第1世代のiPad miniである。故障したわけではないし、決定的に不要になったわけでもなかったけれども――主に出先で移動中に電子書籍を読むためにPad miniを使っていた――それにもかかわらず廃棄したのには、ある単純な理由がある。すなわち、第1世代のiPad miniのiOSのアップデートが9.35までで止まっており、iOS10以降にはアップデートされないことがわかったからである。

 OSがアップデートされなくなるからと言って、すぐに動かなくなるわけではないが、少なくともアップルの製品の場合――特にiPadやiPhoneでは――OSがアップデートされていないと、アプリのアップデートから次第に取り残されて行くことを避けられない。ネットに接続して使うことが前提となっている以上、アップルの製品であり安全であるとは言っても、やはり、これはどうでもよい問題ではないに違いない。

 マイクロソフトの場合、Windows XP以降のOSが出荷時にインストールされていたPCなら、理論上は、CPU、メモリ、HDなどの環境が許容するかぎり、OSのアップデートが無際限に可能である。Windowsでは、PCが動かなくなったときがアップデートできなくなったときとなる。

 これに対し、アップルの製品は、今回のiPad miniのように、機器の寿命が来る前に使えなくなる可能性がある。アップルは、同一の機器やソフトウェアを長く使い続けるユーザーを大切にするよりも、最新の技術を取り入れた最新の製品を開発することをつねに優先させるからである。

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 だから、20年前にWindows95用に開発されたソフトウェアが最新のWindows10でも動くのに反し、同じ時期にMacのOSであった漢字Talk7.5(懐かしい……)で動いていたソフトウェアは、現在のMacにはそのままではインストールすることすらできず、どうしても動かそうと思うなら、(漢字Talkについて開発されているのかどうか知らないが、)エミュレータが必要になるはずである。このような観点から眺めるなら、アップルの製品、特にiOSやMacOSで動く製品については、5年も10年も使い続けられる見込みはなく、最短で約3年で「賞味期限」が来ると考えた方が無難であり、この意味では、アップルの製品は割高であると言うことができる。(もっとも、アップルが好きな人々は、価格など一切考慮しないのかも知れないが。)

 WindowsとMacのあいだの選択は、もちろん、各人の好みによるであろうが、少なくともMacには、周辺機器が急に使えなくなったり、データをそのままでは読み込めなくなったりする懸念がつねにつきまとうことは確かである。私は、12インチのMacBookを所有しているけれども、ネット上で完結する作業以外、Macを仕事で使うことはない。やはり、WindowsではなくMacを仕事用の主なマシンとして支障なく使うことができる職業は、今のところかなり限られているように思われる。


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