AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2016年12月

Trinity.

歴史は死者のものである

 「人類はいつ誕生したのか。」この問いに対する答えは、「人類」をどのように定義するかによって異なるであろう。ただ、現代まで大まかに連続している人類の文明がメソポタミアに起源を持つという世界史の常識に従うなら、人類の歴史には少なくとも8000年以上を数えることが可能である。そして、この事実に従うかぎり、私たちの日常生活が前提とする社会的、政治的、経済的、文化的な枠組はすべて、この8000年以上の歴史を生きたおびただしい人々の手によって作り上げられてきたものであると考えねばならない。つまり、私たちの現在の生活は、よい意味でも悪い意味でも、死者たちによって準備されてきたものである。

 実際、古代から現代まで、人類の歴史を形作るのは、膨大な数の死者とわずかな数の生者である。歴史において、生者はつねに圧倒的少数派であり、何層にも重ねられた分厚い伝統の表面を覆う薄い膜のようなものである。私たち生者の世界は、死者のおかげで成り立っているばかりではなく、死者に取り囲まれ、死者とともにあるものなのである。

呼びかけと応答

 人類の歴史において、生者は、死者たちの声を日々聴き取り、死者たちと対話することにより生者の世界を産み出してきた。このかぎりにおいて、現在とは本質的に過去であり、歴史であり、伝統である。

 もちろん、歴史を満たす死者たちの声はほぼすべて、さしあたり彼ら/彼女らが直接に見たり、触れたりすることのできる者たち、声をかければ物理的な応答が戻ってくる可能性のある者たちに向けられたものであろう。しかし、すべての声が物理的な応答への期待から発せられたものであるわけではない。なかには、数十年後、数百年後の生者たちのあいだからの応答を期待する孤独な呼びかけが聞こえてくることもある。彼ら/彼女らは、みずからの声に対する応答が、声を発した者自身のもとへと戻ってくることを期待するのではなく、むしろ、みずからが死者として遇されるはずの後世の生者のあいだで応答が生れることを期待して何かを語り、そして、何かを書いているのである。

 同時代の生者たちのあいだに速やかに受け容れられる作品というものは、文学であれ、哲学であれ、音楽であれ、絵画であれ、やはり速やかに消費され、あるいは腐蝕し、後世を持つことができないのが普通である。このような作品が後世からの応答に与ることができるとするなら、それは、作品に新しいコンテクストが与えられる場合だけであろう。同時代から受け容れられない作品のすべてが「古典」となり、未来の生者に受け容れられるわけではないけれども、少なくとも、普遍的な価値を持ち、後世からの応答を期待しうる作品は、同時代の社会、政治、経済、文化などのコンテクストに拘束される度合いが小さく、その分、同時代の生者たちの目には接近することが困難なものと映ることは確かである。

歴史を作る使命

 古典的な書物を読み、古典的な藝術作品を鑑賞することは、何よりもまず、死者たちとの対話である点において意義を与えられるべきものである。しかも、古典への接近は、生者の歴史を形作ってきた死者たちとの対話であり、生者の世界を支える伝統に埋め込まれた死者たち、「内なる死者」たちとの対話でもある。私は、時間の暴力に抗して私のもとに届けられた声に耳を傾けるとき、偉大な死者たちの呼びかけに敬意をもって応答していることになる。死者の呼びかけに応答することは、生者の責任でもある。

 現在の生者にとり、古典に接近することは、時間のへだたりを超えて死者と言葉を交わすことであり、古典によって形作られてきた伝統へと沈潜しながら何かを語ることは、死者への応答であるとともに、他人への呼びかけでもある。もちろん、呼びかけへの応答をみずからが直接に耳にすることができるとはかぎらない。呼びかけが応答を産むのは、数十年後、あるいは、数百年後であるかも知れない。しかし、いつの時代にも、普遍的な呼びかけが聴く耳を十分に持つことはないとするなら、そして、歴史を形作り、死者として伝統の一部をなすことをが生者の使命であるかぎり、呼びかけもまた、本質的に歴史的なもの、つまり、未来の生者への呼びかけとなるのがふさわしいのである。


Hitomi Launches

 昨日の夜、22時30分ころ、「こうのとり6号」がH-IIBによって打ち上げられた。これは、去年の夏に打ち上げられた「こうのとり5号」と同じように、宇宙ステーションに物資を届けるため無人のロケットに搭載された宇宙補給機である。

 22時10分ころ、打ち上げのカウントダウンが始まったことをスマートフォンに入れてあるNHKのアプリがアラートで教えてくれたため、私は、パソコンの前に坐り、打ち上げの様子をNHKのサイトで見た。(動画は、YouTubeに開設されたJAXAのチャンネルでも見ることができる。)


 私は、仕事中で手が離せない場合を除き、ロケットの打ち上げをできるかぎりリアルタイムで見守るよう心がけている。日本人にとり、ロケットの打ち上げは、それなりに特別な出来事だからである。(私自身は、打ち上げを見るたびに感動し、涙が出そうになる。)

 日本のロケット技術は高い。すでに30回以上連続して打ち上げに成功し、21世紀に入ってからの成功率は98%である。これは、アメリカやEUよりも高いと言われている。また、正確な数字は公表されてはいないはずであるが、ロシアや中国のロケット打ち上げなど、成功率の点では、日本とは比較にならないほど低い水準にあることは確かである。

【中継録画】「こうのとり」6号機打ち上げ成功 H-IIBに搭載され宇宙へ | THE PAGE(ザ・ページ)

 とはいえ、2001年以前、日本の打ち上げ成功率は、外国とくらべ、決して高くはなかった。また、打ち上げのコストにも問題があり、20世紀末の時点では、「衛星ビジネス」に関し市場のシェアはかぎりなくゼロに近かった。国産のロケットが種子島から打ち上げられるのを見るたびに私が感動を覚える理由の1つであり、日本人ならロケットの打ち上げに立ち会うべきであると私が考える理由の1つでもある。

 わが国の航空技術および宇宙技術の開発は、1930年代に始まり、しかし、敗戦後、GHQによりこれを禁じられたという不幸な歴史を持つ。そのせいで、日本は、航空と宇宙の分野で外国に引き離されていた。日本は、「技術大国」と呼ばれ、世界の技術開発の先頭に立つことが多いにもかかわらず、これらの分野では、戦後、つねに外国を追いかけてきた。航空宇宙開発は、わが国が開拓すべき最大の民生分野であった。だから、複雑な技術の結晶であるロケットが打ち上げられるのを見て、「愛国的」(?)な感慨に襲われるのは当然であると言うことができる。スポーツの日本代表選手が国際試合で勝利するのを見て感動するなら、「日の丸」が胴体に印刷された大型ロケットが大気圏の外に飛び出して行くのを見て感動を覚えないはずはないように思われるのである。

 しかし、日本人なら――そして、「右翼」を自称するならなおのこと――ロケットの打ち上げを真面目に見守るべきであると私が考えるのには、他にも理由がある。

 宇宙開発には膨大な予算が投じられており、また、そこでは、多種多様な最先端の技術の可能性が試されている。たしかに、これらの技術の大半は、毎日の生活へ直接に影響を与えるような性質のものではなく、したがって、宇宙開発に税金を使うことは、共産党に代表される左翼的ポピュリズムの攻撃の標的となっている。しかし、これらの技術は、ながい目で見るなら、必ずわが国の利益になる――ロケットを正確に飛ばす技術は、当然、弾道ミサイルに転用可能である――ものである。「反日」的な政治家のあら探しをするのが悪いわけではないが、そのようなことに使う時間と体力があるなら、テレビの前に坐り、ロケットの打ち上げの成功を――日の丸の小旗でも振りながら――寿ぐ方がよほど生産的であり、精神衛生面でも好ましいに違いない。


葬式

 直接あるいは間接の知人が亡くなり、何らかの仕方で遺族に香典を渡す。大人であれば、このような経験は誰にでもあるに違いない。そして、大抵の場合、葬儀の場で香典を渡すと、しばらく経ってから、何らかの「香典返し」が送られてくる。百貨店や贈答品の専門店が用意したものが送られてくることもあれば、亡くなった人の好物のようなものが届くこともある。いずれにしても、やや日持ちのする食品に代表される「消えてなくなるもの」が香典返しに選ばれることが多く、「消えてなくならないもの」は忌避されるのが普通である。

 ところが、何年か前から、葬儀に出ると、メール便や宅急便で分厚い冊子体のカタログが香典返しとして送られてくるようになった。いわゆる「カタログギフト」である。しかし、私自身は、1度だけこのカタログを開けてみたことがあるけれども、それ以降、カタログが届いても開封したことがない。香典返しとして送られてくるカタログに強烈な違和感を覚えるからである。

 香典返しにカタログを送ることを最初に思いついたのが誰なのか知らないが、これは、葬儀の意味を不可逆的な仕方で変質させることになったように思われるのである。

香典返しは、故人または遺族にゆかりのある品物とするのが筋

 そもそも、香典返しというのは、故人を送る儀礼に参加してもらった人々への御礼である。つまり、香典と香典返しのあいだに見出されるのは、支払われたカネとその対価としてのモノの交換ではない。それどころか、「香典返し」という名称に反し、香典返しというのは、香典に対する返礼ではなく、故人を偲んでもらったことに対する返礼なのである。したがって、香典返しとしてもっとも望ましいのは、故人や遺族にゆかり(=縁)のある品物であり、しばらくのあいだ故人を思い出すよすが(=縁)となるようなものであるはずである。

香典返しは「ギフト」ではない

 もちろん、遺族には、ゆかり/よすがの役割を担うような品物を選ぶ余裕などないのが普通であるから、無個性的な贈答品が結果として選ばれるのはやむをえないことであるかも知れない。ただ、注意しなければならないのは、香典返しが決して「ギフト」ではなく、あくまでも、故人を思い出すきっかけを作るもの、故人をめぐる記憶の記号にすぎない点である。カタログギフトを香典返しに使う理由として関係するウェブサイトで繰り返し語られているのは、「もらってうれしいもの」を各人が選ぶことができる点であり、実際、カタログギフトのメリットはここにあると普通には考えられているようである。しかし、本当は、これは、カタログギフトが全力で忌避されるべき第一の理由と見なされねばならない。

 そもそも、形式的に考えるなら、人々が葬儀に参列するのは、香典返しが欲しいからではない。香典返しの内容が葬儀に参列するかどうかの決定に影響を与えることはないはずである。特定の商品が欲しいのなら、自分で買う方が時間の点でも手間の点でもはるかに効率的である。葬儀に参列して香典返しとしてもらうなどという迂路をあえて選択する者などいないであろう。

香典返しを受け取るのは故人を見送る儀式の一部

 さらに、葬儀において主役となるのは、遺族(と故人)である。葬儀は、決して参列者が楽しむためのイベントではない。だから、葬儀が楽しいものである必要はないし、遺族にとっては、香典返しとして送り出す品物の選択に当たり参列者の好みを考慮する必要もないことになる。いや、参列者の好みを考慮して香典返しを選ぶことは、香典返しを当てにして参列する者を想定することであり、むしろ、参列者に対し失礼であると私は考えている。

 そして、このような点を考慮するなら、香典返しというのは、それ自体が主題的な注意の対象となってはならない品物であることになる。香典返しとして送られてきた品物を受け取るというのもまた、故人を見送る儀式の一部なのであり、香典返しは、その内容について受け取る者があれこれと論評するような性質の品物ではないのである。

 同じ理由によって、香典返しとしてカタログを送り、カタログから商品を選ばせるというのも、参列者に対し失礼であると私は考えている。というのも、カタログを開封し、特定の商品を選び、注文するという行動は、その商品に対する明瞭な欲求を前提とするものであり、カタログを送った遺族は、故人とは何の関係もない商品に対する欲求をあらわにするよう参列者に求めていることになるからである。私は、香典返しとしてカタログを受け取っても、これを開封しないことにしている。つまり、「何も選ばない」ことを選択している。自分の私的な欲求をあらわにするきっかけとして故人を利用するのは、故人に対し失礼だからであり、香典返しが葬送の儀式の一部をなすものであるかぎり、その意義を損ねることになる。カタログを開封せず、何も選ばないことは、故人に対する最低限の礼儀であると私は信じている。

 香典返しは、参列者の好みとは無関係に選ばれるべきものである。(同一人物の葬儀が複数回行われることはなく、葬儀の「リピーター」などありえないのだから、)「もらってうれしいもの」を送るくらいなら、「もらってもありがたくないもの」を送るか、あるいは、何も送らない方がまだましであるに違いない。

葬儀は通販なのか

 ところで、現在はまだ、インターネットにアクセスすることのできない老人への配慮なのか、香典返しとして冊子体のカタログが送られてくる。しかし、遠くない将来、葬儀に参列すると、会場でURLとパスワードが渡され、オンライン上のカタログにアクセスして香典返しを選ぶ……、などというシステムが作られるであろう。(すでに現実のものになっているのかも知れないが、私は知らない。)そして、そのとき、葬儀は、「ふるさと納税」と同じように、通販への堕落の道を踏み出すことになるに違いない。


Subway

 電車に乗っていると、バックパック、書類鞄などを床に直接置く乗客が少なくない。それどころか、買ったばかりの高価な衣類が入っていると思われる専門店のロゴが印刷された紙製のショッピングバッグや、生鮮食品が入ったプラスチック製のショッピングバッグ(=いわゆる「レジ袋」)を床に無造作に放り出したり、これを床に引きずったりしている客を見かけることもある。

 しかし、荷物を直に床に置くことは、2つの意味において避けるべき行動であると私は考えている。

衛生面での上と下

 床あるいは地面は、どれほど掃除が行き届いているとしても、途方もなく不潔であり危険に満ちていると考えるのが自然である。少なくとも、これは、人間の手や舌と接触することは想定されていない領域であるはずである。(だからこそ、人間は、靴を履いて足の裏を保護するのである。)

 スーパーマーケットで購入した食品が入ったショッピングバッグを電車の床に置く者は、自宅に戻ったら、これをどこに置くのであろうか。屋内の床に置くのであろうか。あるいは、大胆にも、電車の床に長時間接触していたショッピングバッグをそのまま台所の天板の上に置いてしまうのであろうか。私には、そのようなことは、恐ろしくてとてもできない。

 私は、ショッピングバッグを地べたに置くなど決してしないけれども、万が一ショッピングバッグの底面が地べたに接触してしまったら、私なら、自宅では、ショッピングバッグは玄関の三和土に置き、食品だけを台所に運ぶか、あるいは、ショッピングバッグを手に持ったまま台所に行って食品を取り出し、ショッピングバッグの方はどこにも置かずに捨てる。

 電車の床は、無数の足によって踏まれている。そして、これらは、電車の床と接触する以前に、何を踏んでいるかわからない足である。ゴミや犬の糞、有害な物質を踏んだ足が、そのまま電車の床を踏んでいる可能性は高いと考えるのが自然である。電車の床や地面に接触したショッピングバッグの底面が台所の天板にそのまま接触することは、有害な化学物質、雑菌、ゴミなどがそのまま台所に移転することを意味する。「除菌」に狂奔している主婦が地べたに置いた鞄やショッピングバッグによって台所を汚染することは頓着しないとするなら、それは実に不思議な事態であると言わざるをえない。

清潔感における上と下

 しかし、荷物を床に無造作に置く客に違和感を覚えるのは、その姿が私の物理的な衛生感覚を逆撫でするからであるというよりも、むしろ、本質的には、彼ら/彼女らのふるまいに「清潔感にもとづく位置の区別」がまったく認められないように見えるからである。地べたに鞄やショッピングバッグを置くことは、私の清潔感に従うなら、ただ不潔であるばかりではない。それは、本質的に「すべきではない」ことに属する。なぜなら、雑菌や有害物質の有無には関係なく、日本人の常識は、上方は清潔なものであり、下方は不潔なものと見なされるべきであると私たちに教えてきたはずだからである。

 靴を履いたまま屋内に上がらないこと、椅子に坐り、目の前にあるテーブルに足を乗せないこと、床に落ちた食べものはそのまま口に入れないこと、雑巾と衣類を一緒に洗濯しないこと……、これらがルールまたはマナーとして認められてきたのは、上/下が清潔/不潔に対応すると考えられているからであり、清潔/不潔――あるいは清浄/不浄――を空間的な上下と対応させて理解することは、日本人の行動を統制する伝統的な美意識の核心をなすフレームワークの1つである。地べたにものを無造作に置く者たちの姿を目にするたびに、動物的なものを感じるとするなら、それは、このようなふるまいによって傷つけられているのが、物理的な衛生感覚ではなく、むしろ、美意識だからであるに違いない。


complicated creatures

 職場での付き合いや近所との付き合いで不快な思いをすることは少なくない。

 このような場合、大抵は、「そういうこともある」とみずからに言い聞かせたり、他のことで気を紛らわせたりしてやりすごすが、不快なことの頻度がある限界を超えたり、無視することができないようなノイズとなって生活に影響を与えたりすると、「すべてを放り出してどこかへ行きたい」という欲求が心に生れる。(私の場合、月に1回くらいは逃げ出すことを考える。)

 それでも、実際には、私は、すべてを放り出し、たとえば種田山頭火のように放浪生活を始めたり、あるいは、尾崎放哉のように修養団体に入ったりすることはない。環境を変えるための努力を多少は試みるとしても、全体としては、昨日と似たような生活が今日も続き、そして、今日と似たような生活が明日も続くことになる。

 以前、困難な状況から逃げ出すことに関し、それ自体は何ら悪いことではないという意味のことを書いた。


脱出万歳 : アド・ホックな倫理学

自分の人生を振り返ってみて気づいたことがある。学校や職場など、今まで何度も環境を変えてきたが、それは、「行きたい場所に行く」ためであるというよりも、「いたくない場所を逃げ出す」ためだった、ということだ。 「今の環境もそれなりにいいけど、もっといいところ



 生活環境は不快であるよりは快適である方が望ましいことは確かである。功利主義的な観点から、より好ましい環境へと移動することにはそれなりの意義があると私は考えている。

 しかし、世俗を嫌い、ここから逃げ出してしも、脱出した先には、やはり別の世俗が待っている。ホームレスにはホームレスなりの世俗があり、出家信者には出家信者なりの世俗があり、そこではやはり、くすんだ日常において人間の愚かさや滑稽さを目撃し、こまごまとした日常の問題を一つひとつ解決することを余儀なくされるはずである。世俗から逃れることは、目の前にある問題を消去し、これを新たな問題に置き換えるだけであり、根本的な問題解決にはならないと考えるべきである。

 いや、世俗からの退去は、さらに厄介な問題を私たちに差し出すはずである。ホームレスの社会や出家信者の集団は、大多数の人間が暮らす平凡きわまる俗世間とはまったくことなる秩序が支配する「異界」である。私たちが身を置いている普通の世俗から逃れる場合とは異なり、このような「異界」が異界であるのは、その秩序が外部の世間では決して通用せず、周囲とのあいだに高い壁が築かれているからである。異界にひとたび足を踏み入れた者にとり、ここから逃れることは途方もなく困難であるに違いない。

 世俗というのは、日常の全体であり、したがって、生活の全体である。生きているかぎり、世俗が差し出す個別の問題から逃れることは可能であるとしても、世俗自体から逃れることはできない。実際、冷静に考えるなら、私たちが望んでいるのが、世俗そのものから逃れることではなく、ただ「よりよい世俗」を獲得することであることがわかる。「世俗から逃げ出したい」という文は、「問題を一つひとつ解決するのは面倒くさい」「目の前の問題は自分の手には負えない」という文と同義なのである。

 残念ながら、人生における問題、あるいは、生活における問題には、これを一挙に片づける「アルキメデスの点」はなく、解決は、つねに個別的、具体的に試みられる他はない。一つひとつの問題の前で立ち止まり、自分の五感だけを頼りに――善悪の彼岸に身を置いて――環境を観察しながら、全体としてコストを最小に抑える解決方法を探す努力を積み重ねる、最近、生きるとはこのようなことなのではないかと考えている。


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