AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年01月

Ready. Set. TEST!

教育の本質は自己教育

 「すぐれた教育とは?」という問いに答えることは、難しくもあり、簡単でもある。これが「教育の本質」を問う問いであるなら、その答えは、少なくとも形式的には誰の目にも明らかである。教育の本質は、「現状を乗り越えることを目指す自己教育」以外ではありえないからである。換言すれば、教育というのは、内容が行政学でも、中世日本文学でも、バドミントンでも、自分の現状を克服し成長することを欲する者の存在から始まる。教育とは、みずからを教育することであり、他人の手で施される教育には、成長を欲する者たちの支援以上の意味はない。だから、成長への意欲を欠いた者を教育すること、つまり、勉強する気のない人間に無理やり勉強させることは、権利上不可能なのである。

 それでは、成長を欲する者たちに対する教育は、どのように行われるべきか?もちろん、教育の手段は無数にあるであろうが、この問いに対し、最初に心に浮かぶ答えは、大抵の場合、「学校」であるに違いない。学校というのは、教育の装置を代表するものであるから、「教育はいかにあるべきであるか」という問いは、事実上、「学校がいかなる役割を担うべきか」という問いに置き換え可能となる。

学校と試験の関係における「欧米型」と「非欧米型」

 もちろん、社会における学校の役割は、時代により地域によりまちまちであり、「学校制度のあるべき姿」など、どこにもないように見える。ただ、試験の位置という観点から光を当てることにより、学校制度は、大きく2つの種類の区分することができるように思われる。すなわち、(1)学校における教育活動の整備がまず試みられ、このプロセスにおいて、カリキュラムに区切りを与えるために試験が導入される場合と、反対に、(2)何らかの能力や資格を認証するために複数の試験が最初に制度化され、その後、試験と試験のあいだを埋めるために学校が作られる場合である。ここでは、前者を仮に「欧米型」、後者を「非欧米型」と呼ぶことにする。

 宮崎市定の古典的名著『科挙 中国の試験地獄』、

科挙 中国の試験地獄

あるいは、天野郁夫『試験の社会史 近代日本の試験・教育・社会』

試験の社会史 近代日本の試験・教育・社会 増補

を見ればすぐにわかるように、日本や中国の学校教育の制度は、試験と試験のあいだを埋める形で作られたものである。まず試験があり、この試験の受験資格を与えるため、あるいは、試験の準備の機会を与えるために学校があとから設置されてきたのである。

 寺子屋や私塾は、江戸時代の教育水準に大きな影響を与えた教育の装置である。そして、これらはいずれも、学ぶことをそれ自体として目的とする者たちのための学校である。しかし、試験があるかどうかに関係なく、「学ぶ」ことを目的に作られた学校というのは、日本の歴史全体として見ると、むしろ例外に属する。学校で学ぶことの本体は、そこで学ぶ者たちの大半にとっては、基本的に障害物競争のハードルのようなものであり、勉強することには、さしあたり、「試験に出る」ことを覚える以上の意義はなかったことになる。(もちろん、例外はいくらでもある。)日本の場合、教育に関する制度の実質は、学校ではなく試験だったのである。

教育の型だけを欧米化すればよいというものではない

 これに対し、よく知られているように、ヨーロッパやアメリカでは、授業を中心とする学校教育――18世紀まで、授業の基本は個別指導であった――が教育の中心にある。だから、欧米の試験制度は日本のように体系的ではなく、また、評価が公平というわけでもない。しかし、試験による能力や資格の認証ではなく、学校における成長の支援を重視するのであるなら、厳格な試験というのは必須ではないことになる。(もちろん、ヨーロッパやアメリカの一部の大学には、学期末に個性的で難しい試験を課す教師がいるけれども、全体から見れば、これは少数派である。)

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 そして、欧米の教育がすぐれたものであるかどうかはよくわからないが、日本では、小学校から大学まで、最近20年くらいのあいだ、教育制度の改革は、学校教育を「充実させる」方向へと進められてきた。つまり、「非欧米型」の教育の「欧米型」への転換が試みられてきたのである。

 しかし、一部に成功例があるかも知れないとしても、この試みが上手く行く可能性はきわめて低いと私は考えている。というのも、このようなスタイルの大転換が可能となるためには、次の2つの条件のうち、少なくともいずれか一方が満たされていなければならないからである。すなわち、(1)学校教育によって獲得された知識や能力が社会において活かされるか、あるいは、(2)少なくとも、このような知識や能力が社会において尊重され、知識や能力を保持していることがステータスになるか、いずれかが絶対に必要となるはずである。しかし、誰でも知っているように、現在の日本社会は――というよりも、明治以来ずっと――これら2つの条件のいずれとも無縁であり続けてきた。

 それでも、外面的には「欧米型に見えるような」教育を実現することを必要とする人々がいたのであろう、また、社会の方を変えるよりも、学校を変える方が簡単だったからであろう、学校の教育内容を尊重するよう社会に求めるのではなく、反対に、「欧米型に見えるような:教育を実現するという目標に合わせ、学校での教育内容を(1)(2)のうち少なくともいずれか一方を満たすようなものに変えてしまうことが試みられた。つまり、時代と社会に迎合し、現実に社会で必要されているような実際的な知識を学校で教えれば、学校で学んだ者は、有用な人材として社会から歓迎されるはずであると考えらたのである。

 しかし、これは、教育というものの自殺行為であるように私には思われる。というのも、教育というのは、人間を有用なロボットに変えることではなく、人間を人間らしいものにすることであるはずだからであり、大切なのは、現に目の前にある社会での「遊泳術」ではなく、社会をよりよいものにして行くための「批判的なまなざし」であるはずだからである。この意味において、最近――いつからかは正確にはわからない――の日本における教育改革はすべて、学校と、学校の外部に広がる社会の「野蛮化」を指し示しているように思われてならないのである。


Baxter on Location

 昨日、次のような記事を見つけた。

ロボット化する社員が企業の倫理的問題を招く

 ここで「ロボット化する社員」と呼ばれているのは、ある職場で設定されているルールに機械的に従うだけで、何のためにそのルールがあるのか、ルールに実際に従った場合、どのような事態が結果として惹き起こされるのか、などの点に考えが及ばない従業員のことである。マニュアルに盲従することにより、ロボットにかぎりなく近づくわけである。これに対し、この記事の筆者は、他からの指示を待ち、これを機械的に実行するだけではなく、何をなすべきなのか、自分で考えることが必要であることを主張している。

 とはいえ、この記事で述べられていることは、特に独創的なことでもなければ、新しいことでもない。むしろ、「何を今さら」という感想を持つ人の方が多いであろう。

 現代の社会では、ルールに対し(2つの意味で)機械的に(、つまり、機械のように正確に、そして、機械のように無反省に)従う人間は、きわめて有害で危険な存在と見なされている。自分の行動へと反省が向かわないため、悪をなしているという自覚のないまま、巨大な悪を産み出してしまうからである。これは、「悪の凡庸」(『イェルサレムのアイヒマン』)の名のもとでハンナ・アーレントが指摘したとおりである。

 ルールへの忠実な態度を要求する軍人や官僚の集団が先にあり、この集団が、ロボット化する従業員を産み出すのか、それとも、ロボット的なメンタリティ(?)の持ち主が集まって細かいルールを持つ組織を作り上げるのか、それはよくわからない。確かなことがあるとするなら、それは、ルールに機械のように従って行動する――だから、言われたこと以外は何もしない――従業員をコントロールするには、ソフトウェアのプログラミングのように、ルールを際限なく細かく記述しなければならないことになるが、このような措置は、従業員をますますロボット化することになる。

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 しかし、一度ロボット化してしまった社員に対し、何をなすべきかを自分で考えるよう求めるなど、可能なのであろうか。私は疑わしく思う。自分自身をロボットに擬することにより何らかの利益に与ってきた人間、具体的には、自分で考えることを放棄し、機械のようにふるまう習慣を身につけることで生活の糧を得てきた者は、自分で考えるなどという面倒くさいことは、徹底的に忌避するはずだからである。

 細かいルールが記されたマニュアルを破棄し、原則を簡潔に記述するだけのものへとあらためれば、従業員は、間違いなく混乱に陥り、組織はアノミーを避けられない。なぜなら、示されているのが抽象的な原則だけであるかぎり、この原則と個別の事例をつなぐ「中間原理」のようなものを自分で見つける作業がどうしても必要になるが、「思考」をもっとも要求するのは、この「中間原理」を見つける作業だからである。

 たとえば、ある飲食店に「客が満足するような料理を出す」という原則があるとする。この原則のもと、ある客がメニューにない料理を注文したとき、客の要求にどのように応えるかは、それぞれの従業員が決めなければならない。これが原則と個別の事例のあいだを媒介する「中間原理」であるが、この中間原理の内容はつねに同じではなく、状況により変化するものである。だから、「メニューにない料理を客から要求されたらどうするか」を問い、マニュアルに慣れた従業員に思考実験を促しても、大抵の場合、戻ってくる答えは「どうでもいい」であろう。

 また、客がメニューにない料理を実際に注文したら、接客する従業員は――「メニューにない料理は作らない」ことがマニュアルに明記されていれば、客の注文をその場で断るであろうが、マニュアルがない場合――この要求をそのまま別の従業員に丸投げし、この従業員はさらに別の従業員へとこれを丸投げし……、客への「応答」(response) は、無際限に繰り延べられることになるように思われる。

 マニュアルに従って機械のようにふるまうとは、「応答可能性=責任」(responsibility) を免除されるということであり、労働条件がどれほど劣悪であっても、自分で考えないかぎり、最終的な「責任」を負わずに済むという点において気楽なのである。ただ、社員の「ロボット化」は、それほど遠くない将来に解消される問題であるような気もする。というのも、人工知能が広い範囲で実用化されれば、「ロボット化した社員」――つまり「人力のロボット」――は、本物のロボットによって置き換えられ、人間に残るのは、責任を負うという仕事だけになるはずだからである。

【関連する記事】


人工知能に決して奪われることがないのは「最終的な責任を負う仕事」 : アド・ホックな倫理学

人工知能が発達することにより人間の仕事が奪われるかも知れないという予想は、社会の中で広く受け容れられているものの1つである。 たしかに、社会の中には、機械の性能が向上するとともに姿を消す可能性のある仕事は少なくない。実際、歴史を振り返るなら、技術の進歩と


Texting

「なすべきこと」を「何となく」やりたくないとき

 勉強したくない、本を読みたくない、会社に行きたくない、家事をやりたくない……、人は、このような気分に陥ることが少なくない。身体を動かすことすら面倒くさいこともある。そして、このような気分は、労働の生産性をいちじるしく損ねたり、家族や友人との関係を危うくしたりする場合が少なくない。

 もちろん、目の前にある「なすべきこと」から逃れたいと考える理由が明確であるなら、そこには何の問題もない。「なすべきこと」をしない理由を周囲に説明し、納得してもらえばよいだけのことである。

 しかし、私たちが「なすべきこと」をやりたくないときには、理由を問われても、「何となく」としか答えようがないことがある。「何となく」やりたくないのであるから、原因を明らかにすることもできないし、理由を明らかにして「なすべきこと」から逃れるわけにも行かない。そのため、このような気分に陥ると、私たちは、このような気分に陥ったという事実が原因となって、ますます追いつめられることになる。しかし、この気分が精神障害によるものでないのなら、これを解消して生活に生産性を取り戻したり、家族や友人との関係を回復したりすることは、必ずしも難しくはないように思われる。

暇つぶしを追放し、手持ち無沙汰の状態をあえて作り出すと、自分の抱えていた問題が見えてくる

 あらかじめ言っておくなら、このような気分に陥ったとき、決してやってはいけないことがいくつかある。それは、テレビをダラダラと見ること、スマホをダラダラといじること、あるいは、同じようなことであるが、パチンコをダラダラと続けること、さらに、他人には言えないような恥ずかしいことにふけること……、などである。つまり、何かを「ダラダラ」と続けて気を紛らわせるというのは、「なすべきこと」を「何となく」やりたくないときには、決してしてはならない禁忌である。これは、時間の空費と問題の先送りでしかないからである。

 むしろ、最初になすべきことがあるとするなら、それは、時間の使い方を再検討することである。具体的には、あえて手持ち無沙汰を作り出すことである。

 まず、1週間あるいは1ヶ月を振り返り、何ににどのくらい時間を使ったかを思い返してみるとよい。何にどのくらいの時間を使ってきたか、大雑把な仕方で確認するためである。何に時間を使ってきたかがわかったら、「労働」(「介護」や「育児」を含む)と「睡眠」を除き、もっとも多くの時間を費やしてきたもの、つまり、生産的な活動以外でもっとも多くの時間を占領しているものを生活から排除するのである。1日のうち、テレビを見るのに2時間使っているのなら、スマホで動画を見るのに2時間を使っているのなら、あるいは、パチンコに2時間を使っているなら、これをやめるということである。

 テレビを見たり、スマホをいじったり、パチンコ台の前に坐ったりすることが、生活に必要不可欠であることは滅多になく、ほとんどの場合、こうした行動は、暇つぶしのためのルーチンにすぎない。手持ち無沙汰になると煙草を吸うのと同じである。これは、もともと、浪費されていた時間なのであるから、テレビやスマホやパチンコを生活から追放しても、生活が効率的になるだけであり、何らかの悪影響が及ぶ可能性はゼロに限りなく近い。

 しかし、これまで多くの時間を占領してきたルーチンを生活から排除すると、私たちは必ず、恐るべき退屈に襲われる。つまり、禁断症状が出るのである。たしかに、この禁断症状は苦痛であるけれども、「なすべきこと」を「何となく」やりたくない気分に陥ったとき、これを解消するためには、この禁断症状に耐えることが絶対に必要であると私は考える。というのも、暇つぶしのためのルーチンを繰り返すことで、私たちは、自分が抱えている問題から不知不識に逃避しているからである。誰でも、この「強いられた無為」の中にあえてとどまり、自分の本当の姿について考えざるをえないような状況に自分を追い込むことにより、暇つぶしのルーチンとは異なる「何か」をやるようになることは確かである。

 これは以前に書いたことであるが、デジタル断食(あるいはデジタル・デトックス)の意味もまたここにある。デジタル断食は、スマホの使用をコントロールする技術の獲得を目標とするものではない。そうではなくて、手持ち無沙汰を自分に強いることにより、それまで無駄なことに時間を浪費してきたことがわかり、それによって、生活全体の枠組みを見直し、スマホとの関係を見直すことができるような「私自身のあり方」を取り戻すことができる。これがデジタル断食の意義なのである。


24時間「デジタル断食」のすすめ 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

デジタル断食してみた 今年に入ってから、「デジタル断食」を何回か自宅で実行した。期間は、1回につき24時間であった。 デジタル断食またはデジタル・デトックス(digital detox) は、インターネット接続を完全に遮断した状態で時間を過ごすことを意味する。ネットによって



  無為を自分に強いること、手持ち無沙汰に耐える機会を作ることには、大きな効用がある。「なすべきこと」を「何となく」やりたくないときには、暇つぶしの時間を排除することは、1つの有効な手段であるように思われる。


After a long tiring day

 ずいぶん前から、私には、ある夢がある。それは、ある朝、目が覚めたとき、その日にしなければならない用事が何もなく、「さあて、今日は何をしようかな?」と心の中で――口に出してもかまわないのだが――つぶやきながら床を出て、ゆっくり朝食を摂りながらその日の予定を決める、というものである。

 もちろん、現実には、そのような朝が訪れる可能性は低い。私に限らず、多くの人々が、ひとりでは担いきれないほど大量の仕事を抱えており、目が覚めたときには、その日1日の予定がすでに埋まっているばかりではなく、翌日も翌々日も、すべての時間を「しなければならないこと」の処理に使わなければならないからである。

 だから、手帳に何も予定が記されていないばかりではなく、そもそも、しなければならないことが何もない状態で――ことによると、鳥のさえずりで――目覚めるなどというのは、荒唐無稽な夢物語なのかも知れないが、それでも、自由な時間を少しでも確保したいとつねに考え、時間に余裕ができることを基準に生活を組み立ててきた私のような人間にとっては、「さあて、今日は何をしようかな?」とつぶやくことで始まる1日が遠い目標であることに変わりはない。

 もちろん、私のこの夢または目標は、次のような批判を避けることができない。「人間は社会的な生き物であり、その価値は、どのくらい他人から必要とされているかによって決まる。『さあて、今日は何をしようかな?』とつぶやきながら床を出る、などというのは、社会から必要とされていない証拠であり、嘆かわしい生き方以外の何ものでもない、云々。」

 私は、どのくらい他人から必要とされているかによって人間の価値が決まるという考え方を好まない。たしかに、他人から頼られ必要とされることは、「生きがい」「やりがい」と呼ぶことのできるような気分を私の心の中に醸成する。それは、間違いのない事実である。しかし、このような「生きがい」「やりがい」に振り回され続けることで、自分がもともと立っていた場所がわからなくなる危険は決して小さくない。むしろ、他人の目に映った自分の姿を手がかりに自分の価値を探ることを続けていると、最終的には、「承認中毒」に陥ることを避けられないように思われる。実際、SNSの普及のせいで、「承認中毒」患者の数は、爆発的に増えているに違いない。したいことをするための自由な時間を確保することを私があえて第一目標として高く掲げているのには、時代のこのような傾向への異議申し立てという意味合いがある。

 ただ、自由な時間は、自律的な生活を保証するわけではない。時間がいくらあっても、何もしないということが可能だからである。実際、物理的な制約が少なくなるほど、人間は怠惰になるような気もする。それでも、することが完全に何もなくなったら、人間は、そのとき、すべきことをみずからの内部からひねり出すことになるはずである。そして、それは、周囲の目にはどれほど下らないと映ることであっても、それは、本人の生存にとって途方もなく価値のある活動であるに違いないが、それがどのような活動であるかは、「さあて、今日は何をしようかな?」とつぶやきながら床を出る体験をしてみないことにはわからない。(もちろん、アンドレ・ジイドが『法王庁の抜け穴』で描く「無償の行為」のように、それは、重大な違法行為であるかも知れない……。)


Child drawing picture

 しばらく前、下のような記事を見つけた。

男性保育士に「女児の着替えさせないで!」 保護者の主張は「男性差別」か

 保育園には、女性帆の保育士だけではなく、男性の保育士もいる。しかし、男性の保育士に女児の着替えをさせたくないという保護者がいるため、保育園は、男性の保育士をこのような仕事から外している。このような措置の是非が問題になっているというのである。

 この問題については、形式的な観点から、最初に2つの事実を確認しておかねばならない。

    • 第一に、男性の保育士も保育士であるという点、そして、
    • 第二に、子どもを保育園に預けるのにリスクがゼロということはありえないという点である。

男性の保育士は保育の専門家である

 まず、最初の点に関して言うなら、保育園内で保育士に着替えを手伝ってもらうというのは、路上で見ず知らずの通行人に着替えを手伝ってもらうのとはわけが違う。

 保育園で働く保育士というのは、子どもとの付き合い方について、どれほど短くても数年の教育と訓練を受け、性別に関係なくある程度以上の品質の業務を遂行する能力があるという認証を国から受けている専門家であり、信頼するに足る存在であるはずである。そして、そうであるからこそ、保護者は自分の子どもを保育園に預けているはずなのである。

 だから、保育園は、保護者が上のようなことを要求したら、雇用する者の責任として、要求を断固斥けるべきである。男性の保育士に着替えをさせないという措置を講じることは、みずからが雇用する男性の保育士の専門家としての資質や能力を信用していないことを意味する。上の記事では、ある男性保育士が次のように語っている。

「こうした意見が保護者から寄せられると、すぐに男性保育士の持ち場は変わってしまいます。こちらとしては『イヤ、そうじゃない』と否定して欲しいんですよ。これでは、同じ保育士なのに男性だけが『専門職として認められていない』と感じてしまいます」

 実際、保育士になるための教育や訓練を何のために受けてきたのか、これではわからないであろう。

保育園に預けることがそもそもリスク

 そもそも、子どもを保育園に預けることには、それ自体としてリスクがある。個人情報を含む自分のデータをクラウド上に保管するのと同じように、大切なものを他人の管理に委ねる以上、預けたものが毀損されるリスクはゼロではない。そもそも、下の本にも記されているように、生きているかぎり、リスクを100%避けるなど不可能であり、つねに何がしかのリスクにさらされてはいると考えるべきである。

「ゼロリスク社会」の罠 佐藤健太郎 | 光文社新書 | 光文社

 もちろん、保育園に子どもを預けるリスクは、見ず知らずの他人に路上で面倒を見てもらうこととは比較にならないほど小さい。子どもに害が及ぶリスクは、資格を持つ専門家に、また、しかるべき環境で保護を受けることにより、考えうるかぎり最小限まであらかじめ抑え込まれているのである。性犯罪者の9割が男性であるからと言って、男性の保育士の9割が性犯罪者であるわけではない。いくら人手不足であるとは言っても、専門家として訓練を受けた男性の保育士が性犯罪者である確率は、公道上ですれ違う見ず知らずの男性が性犯罪者である確率よりもはるかに低いと考えるのが自然である。(だから、保育園に子どもを預けられるわけである。)男性の保育士を忌避する保護者は、自分の要求が合理的であるかどうか、胸に手を当てて冷静に考えてみるべきであると思う。

 しかし、それでもなお、男性の保育士に着替えをさせることに抵抗感があるなら、あるいは、合理的な手段によってあらかじめ抑え込まれているリスクを非現実的なレベルにまで抑え込みたいのなら、道は2つしかない。すなわち、

    • 保育園に子どもを預けるのをやめ、どれほど多くの犠牲を払っても、自宅でひとりで子どもの面倒を見るか、
    • 保育園が認めるなら、割増料金のようなものを支払って女性の保育士に着替えをさせるか、(美容院での美容師の指名料のようなものである)

いずれかを選ぶしかないであろう。

 当然のことながら、自分ひとりで自宅で子どもの面倒を見るかぎり、保育園に子どもを預けることよるリスクを全面的に回避することが可能となる。ただ、子どもを保育園に預けている保護者の大半にとって、この選択肢は現実的ではないであろう。そして、その場合には、男性の保育士がいない保育園や、男性の保育士には着替えをさせないことを保護者に約束している保育園や、割増料金を支払えば着替えを女性の保育士に着替えを任せられる保育園などを見つけて、そこに子どもを押し込む他はない。だから、このような余分な(しかも、おそらくは相当な)コストをかけてリスクを回避したいと本当に考えているのかどうか、保護者は検討すべきであろうし、時間や手間をかけて保育園を探したり、割増料金を支払ったりする覚悟がないのなら、男性の保育士をリスクと見なして忌避してはならないであろう。


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