AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年01月

Kumamoto Earthquake

 去年(2016年)は――あるいは、「去年も」というべきであろうか――いろいろな災害があった。熊本地震(4月12日)のような単純な自然災害もあれば、博多での道路陥没事故(11月8日)や糸魚川での大火災(12月22日)のように、どちらかと言えば人災に属するものもあった。そして、これらの災害は、現地に居合わせた人々、あるいは、現地にゆかりのある人々の記憶には深く刻まれたことであろう。

 とはいえ、たとえば私のように、上に挙げた3つの災害のいずれの被災者でもなく、また、知人が災害に巻き込まれたわけでもないような者にとっては、大きなニュースになった出来事という以上の印象はなく、実際、この記事を書くにあたり正確な日付をネットで確認しなければならなかった。当事者以外の人間にとり、災害の印象は、それほど薄いのである。

 何人の方が亡くなろうと、何軒の家が破壊されようと、そのような規模には関係なく、災害の記憶は、時間の経過とともに急速に風化することを避けられない。

 実際、1年365日のうち、どの日をとっても、時間を遡ると、過去に何らかの災害が起こっていることがわかる。すべての日は、何らかの災害の記念日、しかも、当事者が存命しているような比較的最近の災害の記念日なのである。(政府が過去5年に激甚災害に指定したものだけでも、30件近くになる。つまり、2ヶ月に1度は激甚災害が発生しているのである。)すべての災害を万人が記憶にとどめるなど、到底不可能なのである。

 たとえば、「2月11日」という日付を目にして、何の災害の日であるかすぐに答えられる人がいたら、それは、この災害の当事者の方か「災害マニア」(?)のいずれかであろう。(答えは下を参照。死者24人を出した大規模な火災であった。)

ホテル大東館火災 - Wikipedia

 私たちは誰でも、自分の身に起った厄災、あるいは、家族や親しい知人が巻き込まれ、自分にも影響が及んだ厄災は、非常によく覚えているが、自分に大きな影響がなかったものは、すぐに忘れてしまう。自分が当事者であるかどうかは、厄災の記憶において決定的に重要な要素となる。どれほど身勝手と受け取られようとも、他人のことはすぐに忘れてしまうものなのである。

 以前、次のような調査結果がニュースになった。

原爆投下日、7割が正確に答えられず NHK世論調査

 広島の原爆投下が8月6日であり、長崎の原爆投下が8月9日であることは、日本人なら誰でも知っているべきであるばかりではない。おそらく、これらは、世界史的な意義を持つ日付であるに違いない。原爆の被害に遭った方々なら、あるいは、広島や長崎出身の方々なら、これを答えられないなど、ありうべからざることであるように思われるはずである。しかし、これほど重要な日付であっても、自分が当事者でなければ、人間は簡単に忘れてしまう。(原爆が投下された日を答えられないとするなら、敗戦記念日を正しく言うこともできないかも知れない。)まして、阪神・淡路大震災や東日本大震災の日付など、あと30年も経てば、9割以上の日本人が答えられなくなっているであろう。

 厄災の大きさに関する客観的な指標などというものはなく、人は誰でも、自分が巻き込まれた厄災をつねに過大評価し、自分とは無縁のところで起こったものは、つねに過小評価する。これは、どれほど努力しても是正することの困難な傾向である。

 厄災の記憶の風化は、非常に残念なことではあるが、それとともに、人間の自然に属することであり、必然である。「忘れるのはけしからん」「薄情者」「決して許さん」などといくら叫んでみても、それは無駄な努力というものであろう。

 被害者、被災者になった人々の試練は、厄災に耐えることだけではない。厄災の記憶の風化、そして、厄災の記憶をただひとりで抱える孤独もまた、このような人々が耐えなければならない試練なのである。(今から30年後、東日本大震災で被災した地域を訪れる観光客の大半は、3月11日が何の日であるか忘れているであろう。また、そのかなりの部分は、かつて東日本大震災なる大地震があったという事実すら知らないかも知れない。しかし、被災者、被害者は、これから、このような「薄情」な人々と付き合って行かなければならないのである。)


With reverence

 本には、他の商品には特殊な性質がある。それは、何のために役に立つのか、どのくらい役に立つのかという点に関し、予測することが困難であるという性質である。

 たとえば「まな板」や「ボールペン」や「Tシャツ」などについては、これを買う計画が心に浮かんだときにはすでに、これを何に使うのか、これを使えば生活のどこがどのように改善するか予測が可能であり、着地点が見えているはずである。(もちろん、予測が外れることはある。)

 たしかに、私たちは、使う具体的な予定がなくても購入することがないわけではない。それでも、使用することによる生活の質の改善や向上が予測不可能であるということはない。むしろ、このような予測は、何かを購入する場合には絶対に必要である。実際、私たちは、新しいボールペンに対し、書く作業に関する何らかの品質の改善を期待するであろうし、まな板を買うときにも、料理の効率の改善を何らかの意味において期待するであろう。

 もちろん、本を買うときにもまた、私たちは、読書により生活が何らかの意味において好ましい方向へ変化することを「予測」してはいる。しかし、その予測というのは、まな板やボールペンが収まるはずの位置に関する的確な想定(「このTシャツを着ると冬を温かく過ごせる」)と比較すると精度の低いもの、荒っぽいものであり、予測というよりも単なる「期待」にすぎないのが普通である。特定の効用への期待が購入の前提となる本というのは、料理本や日曜大工のマニュアルやガイドブックや会社四季報のような実用書や資料集の類であり、これは、例外に属する。実際、たとえば小説やエッセーや漫画や歴史書の購入が具体的な効用の的確な予想を前提とすることは滅多にないはずである。(本への支出が家計のすべての項目のなかで優先順位がもっとも低く、したがって、最初に削られるのは、効用の予測が困難だからである。)

 なぜ本のそれぞれに関し具体的な効用を予測することが困難であるのか、しかし、その答えは、比較的明瞭であるように思われる。すなわち、上に挙げたような実用書を例外として、私たちが本に対し漠然と期待しているのは、効用を正確に予測しうることではなく、むしろ――読むことによって生活が何らかの意味において好ましいものとなることはつねに期待されているとしても――読書が私たちをどこに導くのか、実際に読んでみるまでわからないことである。読書により、新しい経験を手に入れ、新しいものの見方を手に入れること、つまり、本を読んだあと、私たちが言葉の本来の意味において「新しい」存在へと変身すること、未知の自分に出会うことが読書の意義なのである。

 したがって。まだ読んだことのない1冊の本を初めて手に取ったとき、この本を読むことが私たちをどこに連れて行くのかがすでに分かっている、などということはありえない。到達点があらかじめ分かっているのなら、私たちは、本を読む前にすでにその到達点に身を置いていることになってしまうからであり、「まだ読んでいない本をすでに読んでしまっている」ことになるからである。これが自己矛盾であることは明らかである。

 本を読むことで自分たちがどこに着地するのか、読んだあと、どのような「新しい」私に出会うのか、予測することはできないし、予測することができないからこそ、私たちは本を読むのである。そして、これが読書というものの、教育というものの、つまり、自己形成――新カント主義の教育論を俟つまでもなく、すべての教育は本質的に自己教育である――というものの本来の意味であるに違いない。


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酒とスマホと、どちらが有害か

 携帯電話、タブレット型端末、ゲーム機などのデジタル機器を未成年に持たせるべきではないと私は考えている。未成年にとって、このようなデジタル機器は有害だからである。未成年に酒や煙草が禁じられているのと同じ理由で、このような機器も禁止すべきなのである。

 飲酒や喫煙は、健康を損ねるおそれがあるという理由で、未成年には認められていない。大人になり、自分の健康を自分で管理することのできる(ということになっている)年齢に達してから、自分の責任において酒や煙草を手に入れればよいのである。

 実際、酒と煙草に関する規制は、社会において広く受け容れられているはずである。少なくとも、未成年の飲酒と喫煙を禁じる法的な規制に対する露骨な異議申し立てというものを私は知らない。たしかに、次のような主張がまったく見出されないわけではない。

酒や煙草の依存症が生まれるのは、成人に達するまでこれらにアクセスできず、酒や煙草に対する幻想を抱くからである、したがって、子どものころから酒や煙草に慣れさ、酒や煙草との正しい付き合い方を覚えさせれば、酒や煙草について余計な幻想を持たずに済むから、大人になってから酒や煙草に溺れて健康を損ねるリスクを減らすことができる。

 しかし、多くの日本人は、このような主張を極端な少数意見、考慮するに値しない意見と見なすであろうし、実際、そのとおりであろう。

 ところが、デジタル機器については、事情は正反対である。デジタル機器、特にインターネットに接続可能なものについては、これらが依存症を惹き起こすことが20年以上前から実験や観察によって繰り返し確認され、この事実が社会において広く共有されているにもかかわらず、したがって、未成年の精神的、身体的な健康を脅かすことが明らかであるにもかかわらず、未成年のデジタル機器の使用を法律によって規制すべきであるという声は驚くほど小さい。(少なくとも、私自身は耳にしたことがない。)

 デジタル機器の使用を法律によって規制すべきであるという主張を耳にすると、多くの人は、次のように反論するであろう。

現代社会では、デジタル機器を使いこなすことができなければ生産的な活動に従事することができない。デジタル機器に早くから慣れさせ、ネットとの正しい付き合い方を覚えさせれば、デジタルやネットについて余計な幻想を持たずに済むから、デジタル・デバイドになったり情報弱者になったりネット中毒になったりするリスクを減らすことができる。

 驚くべきことに、これは、子どものころから酒や煙草に親しむことを推奨する上記の極論と同じ論法であるにもかかわらず、多くの日本人がこれを受け容れている。これは、実に不思議なことである。

未成年のデジタル機器の使い方は「子ども英語」と同じ

 もちろん、子どものころからデジタル機器に親しんでいれば、現代社会において生産的な活動に従事することができるのという相関関係が明瞭であり、大きなメリットがあるのなら、未成年のデジタル機器には少なからぬ危険があるとしても、いわば「ホメオパシー」のようなものとして、デジタル機器を子どもに使わせることは、現実的な選択となりうる。しかし、もちろん、子どもにデジタル機器を持たせてもよいのは、この相関関係を確認することができるかぎりにおいてである。

 それでは、子どものころからネットに接続した機器を使っていれば、社会に出たときに、これを使いこなして生産的な活動に従事することができるようになるのであろうか。両者のあいだに相関関係を認めることができるのであろうか。もちろん、私たちがよく知る事実が示しているように、この問いに対する答えは「否」である。

 スマートフォンやタブレット型端末を自由自在に使いこなしている(ように見える)若者でも、就職してから、パソコンによるデータの処理、資料の作成、メールの送受信などの基本的かつ初歩的な作業すらできないことが少なくない。そもそも、そのため、30歳以上年長の、社会人になって初めてパソコンに触れたような世代から「情弱(=情報弱者)」などと呼ばれているのである。

情報の「捨て方」 知的生産、私の方法

 上の本において、著者の成毛眞氏は、若者の大半がデジタル機器を使いこなすことができない情報弱者であるという意味のことを語っているけれども、これは、私の印象に合致するばかりではなく、私の世代のサラリーマンの多くが日々実感していることでもあるに違いない。実際、次のような記事をネットで見ることができる。

日本の学生のパソコンスキルは、先進国で最低レベル

NEWSポストセブン|パソコンを使えない新入社員増 スマホネイティブの弊害│

「PCを使えない学生が急増」の問題点 (1/5)

 ただ、少し冷静に考えてみれば、デジタル機器に早くから親しむことと、大人になってからの生産性とのあいだには何の関係もないことは、実験や観察によらなくても、誰にでもわかるはずである。というのも、社会に出る以前の(大学生を含む)子どもが日常生活おいて必要とするデジタル機器のスキルは、社会に出てから要求されるスキルとはまったく異なるからである。スマホをダラダラといじったりゲームに興じたりしていても、生産性を向上させるためのスキルが身につくわけではないのである。

 子どものころに英語圏で何年か生活し、表面的には英語がペラペラに喋ることができるように見える大人がいる。しかし、このようないわゆる「帰国生」(最近は「帰国子女」と呼ばれなくなっている)の英語は、ネイティヴ・スピーカーからは必ずしも評価されない。なぜなら、子どものときに現地で習得した英語というのは、基本的に「子ども英語」だからである。帰国生が現地で身につけてきた英語は、子どものあいだでの会話に最適化された英語であり、大人の耳には、舌足らずで幼稚で乱暴な英語と響く。帰国生であるとしても、英語力のアップデートを普段から心がけ、「大人英語」を身につけないと、ある程度以上フォーマルな場面で通用する英語にはならないのである。

 デジタル機器の使用についても、事情は同じである。大人として社会に出たときにデジタル機器を使いこなして生産的な活動に従事することができるかどうかは、大人の社会に最適化されたデジタル・スキルを身につけたかどうかによってのみ決まるのであって、子どものときからデジタル機器に親しんでいることは、子供の将来にとって何の役にも立たない。それどころか、スマホやゲームによって貴重な時間が奪われているにすぎず、この意味では、子どもにデジタル機器を持たせるなど、害しかないように私には思われる。


Medieval Crime Museum

古典とは文化的再生産の規範として繰り返し参照されるべき作品のこと

 書物の中には、「古典」に分類されるものがある。「古典」という言葉を目にすると、ただちに「文学」を連想するのが自然であり、それにはそれなりの理由があるが、古典に分類される作品は文学ばかりではない。音楽にも、落語にも、漫画にも、映画にも古典に分類される作品がある。(高校では、いわゆる「古文」で書かれた文学作品が単に「古典」と呼ばれてきた。そのせいで、日本人のあいだでは、「古典」と「文学」のあいだ一種の観念連合が成立しているのかも知れない。ただ、この事実は、「古典」と「文学」という2つの観念のあいだに認められる強い結びつきの主な理由ではないが、この点は、ここでは話題にしない。)

 ただ、以下では、話を簡単にするため、文学の読書に範囲を限定する。

 古典というのは、大抵の場合、それなりに古い時代に成立し、その後、時間の荒波に抗して現代まで読まれ続けてきたもののことを指す。本来は、古代に成立し、文化的再生産の規範となりうる文学作品だけが「古典」と呼ばれていたけれども、その範囲は少しずつ広がり、現在では、近代に成立した作品の中にも古典と呼ばれるものが少なくない。

 どのジャンルにおいても、古典というのは、それぞれのジャンルの歴史的奥行きを示すとともに、作品の生産において繰り返し参照されるべき規範となるようなものである。だから、文学は、その歴史が複雑で豊かであるのに応じ多くの基準から選ばれた多くの古典を持っているけれども、たとえば「アニメ」や「自己啓発」の場合、古典の名に値する作品は少なく、また、新しい。「アニメ」や「自己啓発」が大した歴史を持たないジャンルだからである。

 つまり、古典に認められてきた価値というのは、さしあたり、文化を再生産する者たち、「クリエイター」にとっての価値であり、読者にとっての価値ではないことになる。

古典は「読むべき本」ではなく「読みたくなるはずの本」である

 それでは、直接に文化的な再生産に直接には携わらない者にとり、古典の受容がどのような意味を持つのか。(もちろん、読書は、決して情報の受動的な吸収ではなく、むしろ、能動的に作品を解釈しこれをみずからのものとして引き受ける行為であるから、単なる読者であっても、読書を通じて文化的再生産のサイクルに間接的に参入してはいる。)

 古典を読むことが望ましいと考えられているのには、いろいろな理由がある。たとえば、「規範となる作品に優先的に触れることにより、読書を正しい方向へと導くことができるようになるから」「豊かな人生を送るための智慧がそこに見出されるから」などの教育的な理由は、誰もがすぐに思いつくものであろう。実際、これらが全面的に間違いというわけではない。

 ただ、古典にどれほど価値があるとしても、たとえば現在の平均的な高校生や大学生にとり、『源氏物語』や『カラマーゾフの兄弟』が面白い作品であるはずはなく、このような作品を無理に読ませようとすれば、「古典=退屈」という不幸な観念連合が成立し、永遠に修正することができなくなるおそれがある。

 むしろ、古典については、これが読書の入口で読むべきものではなく、終着点に位置を占めるものであり、古典が面白いと感じられるようになったら、それは、本格的な読書家であることの証拠であると考えるのが自然であり、気楽でもあるように思われる。

 好きな本、読みたい本、面白そうな本を片っ端から読んでいると、読んだの本の量に比例して、手に取る本のレベルが自然な仕方で少しずつ上がって行く。つまり、面白いと感じられる本のレベルが少しずつ変化するのである。(必ずそうなる。)面白さの感覚に忠実な仕方で読書を続けていると、やがて、それなりの読書経験がないとついて行けないような本に面白さを感じられるようになる。そして、最終的には、「面白そうである」という理由で古典に手が伸びるようになる。(その意味で、古典というのは「珍味」によく似ている。)

 古典に分類される作品に与えられるべきであるのは、「万人が読むべき」という位置ではなく、「読書を続けることで、いずれ自然に読みたくなるはずの本」という位置である。古典が古典であるとは、その面白さが作品が成立した時代や環境に依存しないことを意味する。だから、古典的な作品は、異なる時代背景や社会的環境のもとでも読者を獲得してきたのであり、同じ読者が人生の異なる時期に古典を再読し、新しい面白さをそこに見出すことも可能なのである。しかし、このような「文脈に依存しない面白さ」や「多面的な面白さ」を享受するには、それなりの人生経験と読書経験が必要であり、子ども、あるいは、読書経験に乏しい大人には味わうことはできないものなのであろう。


236/365: A Sticky Situation

 何か思いついたら、何でも記録しておくのはよいことであると一般には考えられている。私自身は、原則として手帳やメモ帳を使わないから、記録の手段として使うのは、A6版(つまりはがき大)のメモ用紙か、デジタル機器のいずかとなる。実際、外出時についでに済ませるべき買い物、調べなければならない資料や文献のタイトル、執筆する予定の論文に放り込むアイディア、さらに、何となく気になった新聞記事の内容まで、何でも書きとめておく。(下に続く)

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モノが消去されればそれでよいのか 去年の今ごろ、次の本を読んだ。ぼくたちに、もうモノは必要ない。 「ミニマリズム」(minimalism) というのは、何年か前にアメリカで生まれたライフスタイルの流行であり、これを実践する者が「ミニマリスト」(minimalist) と呼ばれてい


 ただ、ライフハックや仕事術に関する本の著者の多くが推奨するのとは異なり、私は、このようなメモを長期間は保存しない。

 買い物の内容を記したメモなら、買い物が終われば捨ててしまう。また、資料や文献にアクセスしたら、タイトルだけが記されたメモの方は廃棄する。これは当然であろう。このようなメモをいつまでも保存するのは、犬が自分の抜け毛を背負って暮らすのと同じである。

 また、私は、何かを思いついたとき、または何かが気になったときに、これをメモに書きとめておくことがあるけれども、これもまた、無期限に保存することはなく、一定の期間が経過したものが目にとまったら、廃棄してしまうことが多い。少なくとも、目にとまった時点で、今後も保存するかどうか必ず検討することにしている。

 たしかに、有名な外山滋比古の『思考の整理学』ジェームズ・W.ヤングの『アイデアのつくり方』は、アイディアを書きとめたら、それをしばらくのあいだ放置し熟成させることを奨めている。しかし、これは、何に使うのかよくわからないまま、何年、あるいは何十年も保存しておくことを意味しないはずである。

 もちろん、アイディアを書きとめたメモの賞味期限は、人によってまちまちのようである。中には、アイディアに賞味期限などなく、メモが5年前のものであっても、あるいは、20年前のものであっても、これを何らかの仕方で活用できる人がいるかも知れない。

 ただ、私自身の場合、アイディアの賞味期限はせいぜい1年か2年である。メモ用紙に書いたものでも、あるいは、デジタルデータとしてパソコンにストックしておいたものでも、少なくとも年に1回は行きあたりばったりに点検し、不要と判断したものは、廃棄/削除してしまう。1つのテーマについてずっと考えていると、ある時点で「世界史的な大発見」だと思って書きとめたメモを1か月後に見直し、バカバカしさにあきれるとともに、そのアイディアに感激した自分が恥ずかしくなることは珍しくない。

 先日、片づけをしていたら、思いついたことを書きとめるために大学院生のころに使っていた小さなメモ帳を見つけ、開いてみたのだが、当時の自分の「バカさ加減」を確認したこと以外には何の成果もなかった。(その間、それなりに成長したわけである。)

 なぜ昔のアイディアをいつまでも保存し、これを有効に使うことができる人がいるのか、不思議で仕方がない。少なくとも私の場合、アイディアには明瞭な賞味期限があり、この賞味期限を過ぎても廃棄されなかったメモの類は、情報ではなく単なるノイズになってしまうのだが……。


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