AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年01月

All they did was

 「趣味」(hobby) というのは、私を始めとして、趣味を持たない人間には一種の謎である。そこで、趣味というものが成立するための形式的な条件について少し考えてみたい。

 「何を趣味にしているのか」という問いに対し「趣味は仕事」などと答えて得意になっている人がいるけれども、大抵の場合、「趣味は仕事」という文は、「生活の糧を得るために従事している労働の内容が積極的な仕方で関心を惹きつけることで生活が充実している」ことの短縮表現であり、「趣味はない」という文の言い換えにすぎない。「趣味は仕事」などとうそぶく人が労働を趣味としているわけではないと考えるのが自然である。そもそも、常識に従うなら、趣味というものは、基本的に報酬とは無縁の活動であるはずであり、この意味においても、「趣味は仕事」は、上の問いに対する適切な答えではないと言うことができる。

 夏目漱石は、1911(明治44)年に行われた講演「道楽と職業」において、みずからの重要なキーワードである「他人本位」/「自己本位」を「職業」/「道楽」の区別に重ね合わせる。漱石によれば、他人の利益のために働いて報酬を得るのが職業であり、自分自身の満足のために従事するのが道楽となる。漱石のこの区分が妥当であるなら、「趣味」なるものは、道楽であるか、あるいは、少なくとも道楽の重要な一形態であると考えねばならない。

 趣味は、自己本位を本質と活動であり、他人本位の労働と対立する。趣味は、それ自体が目的であるような活動なのである。だから、知り合いを作りたくて碁会所に通う人にとって、囲碁は趣味ではなく、単なる口実にすぎないことになる。

 趣味は、自己目的的な活動、誰から強いられるわけでもない活動であり、自由な活動であり、このかぎりにおいて、人間に固有の活動である。なぜなら、動物は、生存の必要とは無縁の活動に従事する能力を欠いており、外的な状況によって強いられないかぎり何もしないからである。

 とはいえ、趣味が趣味として成立するには、職業に要求される以上の自発性、主体性が必要となる。趣味というのは、純粋の能動なのである。もの言わぬ自然、もの言わぬ素材に働きかけ、ときにはこれを変形し(盆栽、陶芸、料理など)、ときにはこれを制御し(乗馬、サーフィン、登山、楽器など)、ときには何かを取り出す(釣り、彫刻など)……、「趣味」と呼ばれるものに手先を使うアナログなものが多いのは、趣味が本質的に能動的なものであることを考えるなら、至極当然なのである。(同じ理由により、空いた時間にスマートフォンをダラダラといじることを「趣味」と見なすことはできない。さらに、テレビゲームが趣味となりうるかどうかということもまた、問題となりうるであろう。)

 「趣味を持つのはよいことである」「老後の生活を充実させるために何か趣味を持て」などという平凡な忠告には深い意味がある。趣味というのは、これが本当の意味における趣味であるかぎり、人間の人間らしさを表すものだからである。人間として生きるということは、何か趣味を持つことと同じであると言ってもよい。もちろん、絵画、彫刻、釣り、蕎麦打ち、盆栽、陶芸、囲碁、旅行などの趣味は、その本質的な部分に関しコンサマトリーであり非生産的である。(だから、その面白さを他人に説明するのが難しく、完全な門外漢が新たに参入し面白さを見つけるのは容易ではない。)しかし、純粋に自由で能動的な活動であるかぎり、どのようなものでも趣味となるのであり、自分なりの趣味を見つけることは、普通に考えられている以上に大切な課題であるに違いない。


Metropolis (making off).

 ※注意:以下の文章は、道具一般の本質と性別の関係をテーマとするものであり、女性に対する差別を肯定、助長することを意図して書かれたものではない。

人工知能には、人間一般の模倣ではなく女性の模倣が期待されている

 人工知能というのは、それ自体としては生命を持たない機械を動かす技術またはその仕組みである。当然、人工知能の機構自体に性別はない。

 しかし、人工知能の開発や改良の方向、あるいは、人工知能に人間が期待する役割を考慮するなら、つまり、人間との関係という観点から眺めるなら、人工知能には明らかに性別があり、それは、女性であると考えることができる。

 人間にとっての何らかの利益が想定されているのでなければ、人工知能が開発されることはなく、これが使われることもないはずである。そして、人工知能に関しあらかじめ想定されていた利益とは、忠実な道具が人間に与えるはずの利益、つまり、手間を省き、労働を代行することにより、人間の生活を便利なものに変えることである。レンブラントの贋作を描かせたり、囲碁やチェスで名人と対戦させたりするというのは、人工知能の性能を確かめるための実験であり、また、面白い遊びであるかも知れないとしても、社会が人工知能に対し本当に期待していることではない。

 そして、人工知能のこの道具としての性格は、本質的に「女性的」である。というのも、現在では――幸いにも事情は変化しつつあるけれども――この何十年かの社会が女性に期待してきたことは、便利な道具であることだったからである。

女性的なものは、現実への密着を特徴とする

 実際、男性中心の伝統的な社会の性的役割分業において、特に生産の場面において、「女性的」なるものの本質は「器用」にあると考えられてきた。つまり、女性に求められてきたのは、現実に密着することにより、男性から受け取った大雑把な略画の細部を埋め、これを密画へと変換する作業だったのである。このような作業では、知識や意欲に「ムラ」がなく、すべてを満遍なく処理する能力が絶対に必要である。実際、女性は、製品の仕上げと点検、給仕、運転、経理、校正など、好き嫌いに関係なく、中程度の技術と知識を浅く広く持つことが要求されるような作業に従事することが多かったように思われる。そして、まさにこのような作業、中程度の技術と知識を浅く広く満遍なく持ち、社会の生産活動に関してあらかじめ描かれた略画を密画へと仕上げて行くような役割を、現代の社会は機械、コンピューター、そして、人工知能に期待するようになっているのである。

 これは私の単なる偏見かも知れないが、人工知能、あるいは、人工知能を具えたアンドロイド(人造人間)を具体的に心に描くとき、女性が想起される場合が多いのではないかと思う。「アンドロイド」(android) は、古代ギリシア語で成人男性を意味する名詞aner(アネール)をもとに作られた言葉であり、語源に忠実に日本語に訳せば「大人の男っぽい生き物」となるから、アンドロイドの性別は、本来は男性でなければならないのであるが、実際には、女性のアンドロイドが想起されることが少なくない。現代の社会では、女性の仕事の多くが人工知能によって置き換え可能であると誰もが漠然と感じているからであるに違いない。

 今から2年ほど前、人工知能学会の機関誌の表紙に女性のアンドロイドが描かれ、これがネット上に否定的な反応を惹き起こしたことがある。この表紙と女性蔑視との関係については、私は判断を差し控えるが、人工知能の活用により、性的役割分業において女性に割り当てられてきた仕事、特に、多くの女性にとっては不本意な仕方で割り当てられてきた仕事の多くが人工知能によって置き換えられるようになる可能性が高いことは確かである。

「ロボットは奴隷ではない」擁護する意見も

 ところで、女性の場合と同じように、伝統的社会の性的役割分業では、男性に期待されている役割がある。ただ、この役割の多くは、産業革命以降、20世紀ある時期まで、機械によって積極的に置き換えられてきた。というのも、男性に固有とされてきた仕事の大半は、いわゆる「力仕事」だったからである。実際、21世紀前半の現在、機械によって置き換え可能であったものの大半は、すでに機械によって置き換えられている。しかし、それだけに、男性に固有の役割のうち、機械によって置き換えられなかった部分に人工知能が進出することは困難であるように思われる。というのも、機械化を免れた男性の男性らしさとは、「好い加減」である点だからである。

 好い加減であること、あるいは、ほどほどに手抜きすることが可能となるためには、現実世界を「雑」に眺めることができなければならないが、これは人工知能にはできない。「雑」には尺度がないからである。人工知能にできることは、現実に密着し、これを一切の手抜きなしにトレースし、これを丁寧に制御することだけである。(だから、「雑」の基準を定めれば、人工知能にも世界を「雑」に眺めることができるようになる。ただ、この場合の「雑」は、「密画をある観点から省略することにより作られた略画の雑」、つまり「精密な雑」(?)であり、本当の意味での「雑」ではない。)人類の未来を担うのが人工知能の丁寧な仕事であるのか、それとも、機械によって削り取られた男性らしさの残滓としての「好い加減」であるのか、これはよくわからない。しかし、人工知能によって制御される社会が、好い加減を許さない鬱陶しい社会となることは間違いないように思われるのである。


Appetizers Winter 2011

 もう何年も前になるが、ある講演を聴いたことがある。それは、動物行動学に関係あるらしい自然科学系の分野の研究者による一般向けの講演であったが、独立の講演会ではなく、ある財団が主催する別のイベントの前座として行われたものである。私は、イベントの本体に参加するために出かけたついでに、その講演を聴くことになったのである。

 講演の内容は、もはやほとんど覚えていない。覚えているのは、私にはほとんどまったく理解できなかったこと、そして、何よりも、「目の前にいる人間の反応を無視して話せる人間がいるんだな」という雑な感想が自分の心に浮かんだことだけである。スピーカーの話は、最初から最後まで、化学物質、薬品、器具、手順などを表すらしい(が、説明がないから、ハッキリとはわからない)片仮名やアルファベットのテクニカルタームの羅列であり、これらの名詞を簡単な動詞、助詞、助動詞、接続詞などでつないだだけのものであった。私は、スピーカーが「マウスに××××を投与し、○○○○を使って△△△△を◇◇◇◇という条件で行うと、☆☆☆☆という結果が出るが、これに対し、◆◆◆◆を使って◎◎◎◎を行うと、※※※※という結果になり……」というような調子で、実験のデータと関連する映像をパワーポイントで次々と映し出しながら相当なスピードで話すのを約1時間にわたって聴かされたのである。

 当日の聴衆の半分は、文系の人間であった。そして、このことは、スピーカー自身、事前に知らされていたはずである。私がスピーカーなら、テーマを決めるに当たり、専門がまったく違う人間にもわかることを最優先で考慮する。万が一、テーマが自由に決められないとしても、完全な素人にも一応は理解できるよう心がける。これは、話す側の当然のマナーであるに違いない。いや、マナーである以前に、これは、講演というコミュニケーションを成立させるための最低限の条件である、小心者のせいか、私はこのように考えている。

 それだけに、目の前にいる人間が自分の話をまったく理解しなくても、一向に意に介さない人間がこの世にいて、しかも、国民が納めた税金を原資とする補助金を使って学術研究に従事しているというのが、私には不思議で仕方がなかった。もちろん、私は、「公金に頼って学術研究を続ける以上、全国民にわかるような結果を出すべきだ」と主張するつもりはない。実際、そのようなことは不可能であろう。しかし、自分の研究の意義を、関心を共有していない人々に説明する努力は、つねに必要であると思う。

 形式的に考えるなら、コミュニケーションというものは、「コミュニケーター」(communicator) つまり送り出す側と「コミュニケ―ティー」(communicatee) つまり受け取る側の両方がいないと成り立たない。また、すべてのコミュニケーションでは、(マス・コミュニケーションを含め、)コミュニケーターとコミュニケ―ティーの役割は、それぞれ異なる人間によって担われるのではなく、すべての当事者がこれら2つを同時に担う。

 しかし、両者は決して対等ではない。コミュニケーションにおいて決定的にに重要なのは後者、つまりコミュニケ―ティーの方である。なぜなら、それぞれのコミュニケーションの価値を決めるのは、コミュニケーターではなく、コミュニケ―ティーだからである。小説の価値を決めるのは、作家ではなく読者である。落語の価値は、落語家自身にとって面白いかどうかによって決まるのではなく、聴衆が面白いと思うかどうかによって決まる。作家は、読者に受け容れられるかどうかをつねに考慮しながら作品を執筆し、落語家の最大の関心事は、聴衆が自分の期待どおりに反応してくれるかどうかという点であるに違いない。これは、あまりにも当然のことであるけれども、残念ながら、私の狭い経験の範囲では、講演に関しこの点に配慮するスピーカーは、現実には決して多くはないように思われるのである。

 小説に関するかぎり、私たちは、これを読まない自由を持つ、同じように、落語を聴く義務が私たちに課せられているわけではない。しかし、世の中には、聴きたくなくても聴かなければならない話、読みたくなくても読まなければならない文章というものがある。そして、強いられた読者、強いられた聴衆をコミュニケ―ティーに持つコミュニケーションにおいてコミュニケーターになるときこそ、相手の関心、相手の期待への最大限の配慮が必要となるはずである。


Million mask march Glasgow

 街を歩いていると、自分が「見世物」にされているという感覚に襲われることがある。これは、たくさんの人々のあいだにone of themの匿名の存在として埋没している状態から私ひとりが引きずり出される感覚である。たとえば、周囲の人間がすべて、私が何者であるかを知っていて、私が過去に失敗したこと、道徳的にいかがわしいふるまいなどを見て、どこかでこれに野次馬的な興味を持ち、無責任な仕方で追跡しているのではないかという感覚であり、私と他人とのあいだに、見る者と見られる者の断絶が見える感覚である。(ひどいときには、覗き見されているのではないかと思うことも稀にある。)そして、このような感覚に襲われるとき、私は、自分と他人のあいだの違いを鋭く自覚するとともに、底なしの孤独を覚える。

 たしかに、このような感覚は、ごく短い時間、ごく稀に私の心を占領するにすぎない。短い時間が過ぎれば、私は、匿名の存在へとふたたび戻る。普段の私は、あくまでも匿名の存在、周囲の環境に溶け込んだ平凡な存在として、毎日をけじめなく生きているのである。(芸能人やプロスポーツ選手でもないのに、他人に覗き見されている感覚につねに付きまとわれているなら、統合失調症を疑うべきであろう。)

 それでは、自分を演じているのではない自分、いわば「本当の私」のようなものがどこかにあるのであろうか。私の外側には、「本当の私」が現れ出ることを妨害しているもの、あるいは、私に対して「本当」ではないあり方を押しつけているものが付着しているのであろうか。そして、このような外的なものをすべて捨て去ったとき、「本当の私」が残滓として姿を現すのであろうか。「本当の私」の正体が「私のミニマム」であるなら、たしかに、余計なものを捨て去ることにより、「本当の私」に辿りつくことができるのかも知れない。しかし、残念ながら、「本当の私」なるものは、どこを探しても見出すことはできない。いや、このような自分探しの涯にあるのが「本当の私」であるなら、それは、探したくなどないもの、思わず目をそむけたくなるほど獣的な何ものかであり、「探さなければよかった私」であるように思われる。

 ただ、見世物にされているという感覚がないときでも、自分で自分を演じているという感覚は残る。特に、疲れていたり、体調が悪かったりすると、自分の持ち物、自分の社会的地位、ときには自分の親類や友人まで、演技のために必要な小道具のようによそよそしく見えることがある。不思議なことに、探すに値する「本当の私」などないとしても、それでも「偽りの私」にはリアリティがあるのである。

 現在の私のあり方について、何か違うという感じを持つことは、しかし、異常でも何でもない。現在の私を偽りと見なし、これを乗り越えて行くことは、人間の自然に属するのであり、「本当の私」なるものがあるとするなら、それはこのあり方、つまり、自分に属するさまざまなものを周囲にとり集めながら、しかし、これを実体化し――つまり、ここから脱皮し――新たなものを求めるあり方に他ならないのである。この意味において、「本当の私」というのは、「自分を演じている自分」をたえず克服しつつ、同時に、新たなる演技を自分に課す存在として把握されるに違いない。


With or Without You

情報には賞味期限がない

 食べものには賞味期限や消費期限がある。それは、数字としてパッケージに印刷されていることもあれば、生鮮食品のように、目で見て確認しなければならないものもある。しかし、いずれの場合にも、ある限界を超えて時間が経過すると食べることができなくなるという点では同じである。

 しかし、情報には、明瞭な賞味期限がない。もちろん、比喩的な意味において「情報の賞味期限」なるものが語られることはあるけれども、この場合の「賞味期限」とは、情報そのものの賞味期限ではなく、当の情報がもともと位置を占めていたコンテクストの賞味期限として考えられるべきである。2012年に発売されたアップルコンピュータの新製品に関する情報は、現在ではその当初の価値を失っており、この意味において「賞味期限切れ」であると言うことはできる。しかし、2012年に何らかの製品がアップルコンピュータから発売されたという事実が事実であるかぎり、この製品の情報は、この事実に関連するものとして、もとの価値とは別の価値を与えられて生き残り続ける。食品が熟成したり発酵したりするのと同じように、情報もまた、異なるコンテクストの中で新しい生命を与えられるのであって、賞味期限が切れたとしても、情報が情報ではなくなるわけではない。これが情報の整理に関する厄介な点である。

情報のバッファーとしての「あとで読む」スペースは、情報の事実上の墓場となる

 ところで、ネットで何かを調べると、当然、非常にたくさんの情報が手もとに集まる。しかし、このような情報のすべてをその場で処理し消化することができない場合、私たちは、これを何らかの仕方で保存することを考える。保存にはいくつもの手段があるけれども、もっとも安直かつスマートと普通に考えられているのは、PocketInstapaperに代表されるオンライン上のブックマークサービスであろう。これらのサービスには、URLを保存するばかりではなく、ウェブページをアーカイブとして保存する機能が含まれている。ページを見つけた時点で、「あとで読む」――Pocketの以前の名称はRead It Laterであった――ことに決めたページのURLをこれらのサービスを使って一時的に保存している人は少なくないと思う。このようなサービスには、流入してくる情報のバッファーとなることが期待されているわけである。

 とはいえ、これもまた多くの人が経験していることであろうが、これらのサービスを使って保存したページのかなりの部分は、最終的に読まれることがない。保存されたURL、しかも、なぜ保存されているのかもはや思い出すことができないような大量のURLが蓄積され、何日も、何週間も、あるいは、何ヶ月も放置されていることが多いはずである。

 もちろん、このような事態になるのには、明白で正当な理由がある。すなわち、もしネットで見つけたページが重要であることが直観的にわかっているのなら、どれほど忙しくても、いや、忙しいほど、「あとで読む」などはせず、「すぐに読む」はずだからである。私が「すぐに読む」のは、相対的に重要な情報が含まれている可能性が高いページなのである。そして、このことは、「あとで読む」ために私たちが保存するページには、重要な情報が含まれる可能性が低いことを意味する。保存しても、結局、読まれないまま放置されるのは、読まないことによる損失が少ないと私が判断してしまっているからなのである。

 見つけたときに目を通さなかったページを保存しておいても、それは、単なる無駄な手間に終わる可能性が高い。つまり、「あとで読む」ために保存するようなページのURLは、最初から保存する必要がないページなのである。

 私自身は、「あとで読む」ものはPocketにさしあたり保存することにしているけれども、ある程度の日数――おおむね1週間――のうちに読まなかったページのURLは、いずれ必ず読む予定があるものを除き――読まずにそのまま削除してしまう。それは、不要な情報であり、作業や仕事にとってノイズにしかならないものだったのである。

 以前に書いたけれども、メールについても事情は同じである。


受信箱にたまった未読メールが多い人ほど自由であるか : AD HOC MORALIST

Inbox Zeroは生活をせわしないものにする 毎日の仕事の中にデスクワークが少しでも含まれる人にとって、仕事に関係のあるメールから逃れることは事実上不可能であるに違いない。 しかし、メールの中には、すぐに返信しなければならないもの、返信するのに若干の作業が必要



 着信に気づいてすぐに読まなかったメールをあとで読む可能性はかぎりなく低く、読まずに削除しても、不利益を被る可能性はほとんどないのである。

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