AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

2017年01月

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電子書籍は蔵書と見なさない

 本についても雑誌についても、私は、電子版というものを好まない。だから、本についても雑誌についても、電子版を購入することは滅多にない。仕事の必要上、

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などを利用し、著作権の保護期間が終わった作品を読むことがないわけではないけれども、これはあくまでも、紙の本が手に入らない場合の緊急避難的な措置である。

 そもそも、

    • 何度も読み返す可能性の低い本は、読んだあとに手もとに置く必要がない場合が多く、この意味で、古本屋に売ることができない電子書籍は割高であるし、
    • 仕事に必要な本は、紙で手もとに長期間保管できないと、書き込んだり複数の本を机の上に広げて同時に参照したりするのに不便であるから、

 いずれにしても、私の蔵書に電子書籍の入り込む余地はほとんどない。この問題については、以前、次のような記事を投稿したことがある。


蔵書整理のヒント#3 電子書籍か紙の本か : アド・ホックな倫理学

電子書籍は「蔵書」ではない 電子書籍の登場以前、蔵書を管理するときに考慮しなければならないのは、紙の本だけであった。また、現在でも、電子書籍とは無縁の生活を送っているなら、電子書籍の扱い方に頭を悩ませることはないであろう。 しかし、自分が所蔵している本を



 また、紙の本を手に入れれば、その所有者は私であるが、電子書籍の場合、私には閲覧する権利が与えられているにすぎず、データの所有権は私にはない。だから、電子書籍のデータがクラウド上にある場合、売り手の都合で突然削除されてしまうおそれがある。私は、これを「電子書籍のリスク」だと考えている。

電子版の雑誌は読むのを忘れる&読みにくい

 もっとも、雑誌の場合、不要になっても古本屋に売ることは難しく、手もとから消すには、廃棄するしかない。だから、雑誌については、電子版だからと言って割高であるわけではないと言うことができる。

 ただ、雑誌の電子版には、固有の問題が少なくとも2つある。1つは、読むのを忘れること、もう1つは、読みにくいことである。

 以前、一度だけ、電子版の月刊誌を定期購読したことがある。非常にかさばる雑誌だったため、電子版なら場所をとらず、ゴミにする手間もかからないと期待したのである。また、価格も、紙媒体と比較してやや低く設定されてはいた。

 しかし、結果として、この電子版は高くついた。電子版の雑誌の新しい号が発行されると、通知のメールが来る。しかし、電子版には形がなく、目の前にブツが転がっているわけではないから、ウッカリすると忘れてしまい、次の号の発行の通知が来るまで放置してしまうことがある。だから、発行の通知が来たら、忘れないうちにすぐに読むようにしていたのだが、この「読まねば」という圧力は、私にとっては大きなストレスであり、結局、半年で購読をやめてしまった。

 電子版の雑誌のもう1つの問題は、その読みにくさである。

 もとの雑誌の判型によって事情は異なるけれども、「かさばる」という理由で電子版を求める雑誌というのは、B5以上であるのが普通であるように思う。(判型がA5以下であれば、それほど多くの空間を占領しないからである。)

 しかし、紙媒体でB5版の雑誌は、開くとB4版の大きさになる。そして、もともとの誌面のレイアウトは、B4版の面積を一度に視野に収めることを前提としている。ところが、電子版の雑誌を読むのに端末が携帯電話やタブレットが使われるときには、誌面全体が画面に収まらない。あるいは、全体が収まるとしても、縮小された状態でしか見ることができないのである。

 紙媒体でB4版の雑誌をもともとの大きさで読むためには、少なくとも20インチ程度のモニターが必要になるが、これは、テレビかデスクトップのPCのサイズである。当然、携帯電話やタブレットで電子版では、ページの細部を虫眼鏡で拡大しながら順次点検するような読み方になることが避けられない。雑誌というのは、見開きの全体を視野に収めてざっと眺めることができる点に特徴があるはずであるにもかかわらず、電子版では、これが活かされていないことが多いのである。少なくとも私にとっては、この点が苦痛であった。


Robbery

 何日か前、次のような記事を見つけた。

74歳女性が強盗撃退、ピストルを突き付け返す 米

 幸いなことに、私自身は、自宅で強盗に襲われた経験がない。だから、私が気をつけることと言えば、戸締りくらいしかない。強盗が来たときの対処法を普段から検討しているわけでもない。ただ、上の記事で紹介されているように、たしかに、銃を持って侵入してきた強盗を銃で迎え撃つのは、海外ではごく普通のことであるのかも知れない。去年の秋には、スウェーデンで次のような出来事があった。

【海外こぼれ話】マジ切れの店主怖い!...トイレに逃げ込んだ窃盗犯、警察到着に「感謝」

 侵入者の方が怯えてしまうとしても、もちろん、侵入した方が悪いのだから、「過剰反応」として非難されるいわれはないであろう。

 しかし、銃火器を含む暴力によらなければ強盗を撃退できないわけではないのかも知れない。たとえば、次の記事は、自分が働く売店に侵入してきた強盗に対し、紅茶を飲んでいるから終わるまで待つように言い、やがてナイフを取り出して強盗を追い払ったイギリス人の女性を紹介している。

英国のある店主の女性、「紅茶を飲んでいるから忙しい」と強盗を待たせる - AOLニュース

 また、次の記事では、店に侵入した強盗を単純に無視することで撃退したニュージーランドの例が紹介されている。

ケバブ屋に強盗が入るも、ガン無視されてすごすご帰る事案が発生 ニュージーランドで

 相手が設定した(無視を含む)コミュニケーションの土俵に乗ってしまうと、強盗の方も、身動きがとれなくなるのであろう。

 とはいえ、やはり、日本人としては、次の撃退法を忘れてはならない。

 これは、今から5年前、2012年7月4日の名古屋市での強盗未遂事件に関する毎日新聞(7月5日付、中部版朝刊23面)の記事である。

強盗未遂:女性宅に覆面男 「はあ?」で撃退--名古屋・昭和区

 4日午後8時35分ごろ、名古屋市昭和区鶴羽町3のマンション2階に住む女性会社員(21)方で、玄関に侵入した男が簡易ライターに火をつけ、「金を出せ」と脅した。会社員が「はあ?」と聞き直したところ、男は何も取らず逃げた。愛知県警昭和署は強盗未遂事件として男の行方を追っている。

 同署によると、会社員は1人暮らし。室内でテレビを見ていた時に物音がしたため、振り向いたところ、男が玄関にいたという。玄関は鍵をかけていなかった。男は20代とみられ、身長170センチ前後。サングラスをかけ、水色のタオルで覆面していたという。【渡辺隆文】

 私は、強盗には一切同情しない。また、強盗に入ることは弁解の余地のない悪であると考えている。

 それでも、強盗に入り、住人に「カネを出せ」と言ったところ、「はあ?」という反応が戻ってきたため、そのまま退散した強盗の気持ちはよくわかる。自分が何かを誰かに語りかけ、これに対して「はあ?」(「あ」の部分が特に高くなる)という反応が戻ってきたら、非常に不快であり、また、ガッカリさせられるからである。血圧が一気に上がる人もいれば、意気阻喪して何もかもいやになる人もいるであろう。

 「はあ?」は、単純な無視以上に冷たいコミュニケーションの拒絶の意思表示であり、相手が提供するコミュニケーションの内容と枠組を一度に斥ける強力な手段である。どこかに侵入し、「はあ?」という反応に出会ったら、侵入者からは、言葉による脅迫という選択肢が奪われてしまうから、残されるのは、本格的な暴力に訴えるか、あるいは、そのまま黙って退散するか、2つの選択肢だけである。常識的に考えて、「簡易ライター」が威嚇の手段とはなりえない以上、もはや逃げ出す以外に道はなかったのであろう。

 「はあ?」というのは、きわめて否定的な作用をコミュニケーションに与える発言である。私自身は、一度も使ったことがないし、使うべきではないと考えているが、それだけに、危機的状況の下では思わぬ役割を担うことになるのかも知れない。(ただ、当然のことながら、すべての強盗が「はあ?」で撃退可能であるわけではない。この点には十分に注意し、戸締りを怠らないことが大切である。)


Sales !

 昨年末、12月29日の朝、思い立って新宿の紀伊国屋書店に行った。12月の初め、紀伊国屋書店で本を買ったとき、年末で失効するポイントについてレジで注意喚起があったのを急に思い出したためである。

 私は、ある程度以上高額の本については、街の書店やアマゾンではなく、手に入るまでに少し時間はかかるが、職場に入っている書店で注文し購入することにしている。全品一律10%割引になるからである。したがって、紀伊国屋で買うのは、店頭で現物を見て確認する必要があるもの、あるいは、文庫、新書、薄手の洋書などであり、それほどたくさんの本を買った記憶はない。それでも、現実には相当なポイントがたまっていたらしく、結局、前から読もうと思っていた高額なハードカバーの文学作品――カナダの小説家マーガレット・アトウッドの大作――を買って――というよりも、実際には、現金はほとんど使わなかった――ポイントを消費した。(これを書いているうちに、一昨年の末にも、同じように、紀伊国屋書店に駆けつけてポイントを消費したのを思い出した。)

 とはいえ、私は、この種のポイントをあまり好まない。そもそも、ポイントカードをあまり作らないし、ポイントをもらっても、ためるのではなく、その都度使ってしまうことが多い。むしろ、ポイントをくれるくらいなら、その場で値引きしてくれる方がありがたいと考えている。

ポイント還元と現金値引き、どっちがお得? | 家計・貯金

 上の記事が強調するとおり、ポイント還元よりも値引きの方が客にとっては得である。(ただ、本については、再販制度があるため、値引きはできない。)以前、高額の商品を買うと優遇されることへの違和感について書いたことがあるが、


高額な商品を買うと優遇されることへの違和感 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

ある1年間にある金額以上の商品を購入した客を、次の1年間、何らかの形で「優待」する小売店は――通販でも、現実の店舗でも――少なくない。それは、割引であったり、ポイントの付与であったり、何らかの――予約を優先的に受け付けたり、イベントに招待したりする――優



それでも、ポイントではなく、値引きという形で優遇するのなら、まだ納得することができる。しかし、たとえば年末にニュースになったドミノ・ピザのような時間と条件を限定した値引きを別にすれば、

ドミノ・ピザに各地で客殺到、クリスマスイブに1時間以上の大行列店も

値引きの形で客を優遇する店は決して多くはないような気がする。優待サービスの内容を変更するにあたり、「値引き」から「ポイント還元」に変更する――これは、客にとっては不利益変更に当たる――例はあるけれども、少なくとも私自身は、逆の方向への変更が行われた例を知らない。そもそも、客に与えるポイントは、店にとっては、事実上の負債に当たるから、客がポイントを使わない方が店には好ましい。ポイントが使われないまま失効することは、借金が帳消しになるのと同じことであり、客がポイントを使いにくくになるように制度を設計すれば、その分、店の利益は大きくなる。

三越伊勢丹/来年4月、エムアイカードの特典をポイント制に変更

 ある店で将来にわたって継続的に買いものするのなら、大量のポイントをためてもよいであろう。しかし、基本的には、ポイントカードのようなものはできるかぎり作らないようにすること、そして、ポイントがたまったら、その都度こまめに使ってしまった方がよいということになるのであろう。


new years resolution wall at the kimmel center

 今日は1月8日である。日本の正月には、「三が日」(3日)「松の内」(7日)「小正月」(15日)という3つの区切りがあるが、一般には、7日、つまり「松の内」までが正月と考えられている。実際、官公庁や民間企業の仕事始めは4日、学校の始業は8日が普通であろう。(「松の内」は7日までではなく6日までであるという意見があるが、6日でも7日でも、実質的には同じことである。両者のあいだに横たわるのは、門松を片づけて七草粥を食べる日、つまり1月7日を正月に含めるかどうかという問題をめぐる立場の違いだけだからである。1月7日を正月に数え入れれば、「松の内は7日まで」となり、この日を正月に含めなければ、「松の内は6日まで」となるにすぎない。)

 もっとも、私自身は、12月末から1月初めは、例年のとおり、普段の休日と同じように時間を過ごし、年中行事らしいものはすべてパスした。何らかの職業に就いている人なら誰でもそうであろうが、普段からあれこれと用事に追われていると、精神的にも物理的にも、「正月を迎えるため」などという理由で新しい雑用を抱え込む余裕はない。私の場合、新しい雑用の流入が少なくなるこの時期、デッドラインを疾うに過ぎた仕事の山を下を向いてコツコツと片づけるのが、年末年始の慣例になっており、正月が終わったからと言って、生活が劇的に変化することはない。

 本来なら、正月には、来し方行く末を慮り、反省とともに抱負を語るべきなのであろうが、実際には、「今年の抱負」(new year’s resolution) などを格好つけて書き出してみたのは、小学生のころが最後で、それ以降は、現在まで、年末年始は、試験の直前や仕事のデッドラインであり、特に忙しい時期と重なる。忙しさが一段落したころには、もう2月下旬になっており、抱負を語るには遅すぎる……、このようなことの繰り返しであったように思う。

 とはいえ、今年は、1つだけ抱負を掲げたいと思う。すなわち、年末までには生活を立て直し、年末年始に「新年の抱負」について考えをめぐらせるだけの気分的な余裕を得られるようにすること、これが私の抱負である。(「抱負」というよりも、単なる「希望」かも知れない。)

 私は、それほどの年齢ではない――今の職場に定年までいると仮定すると、まだ20年くらい勤めることになる――が、単調な生活を何年も続けてきたせいか、最近、さすがに少し疲れてきた。この意味で、今年は、「小さな締めくくり」の年にしなければならないと考えている。


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 以前、次のような記事を投稿した。


「手段としての男女共同参画」――功利主義的に考える : アド・ホックな倫理学

「男女共同参画」の両義性 もう何年も前から、「男女共同参画社会」という言葉を繰り返し目にするようになった。内閣府男女共同参画局のウェブサイトには、次のような説明が掲げられている。男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって



 この記事の内容を簡単に要約するなら、次のようになる。現代の社会、少なくとも日本の社会では、「男女共同参画」というものに関し、2つの必ずしも相容れない理解が併存し、ときに干渉し合っている。すなわち、「目的としての男女共同参画」と「手段としての男女共同参画」である。前者は、男性と女性が対等の立場で社会を作って行くことをそれ自体として普遍的な価値のあるものと見なす。後者に従うなら、女性の人権や生き方への配慮は、その「効用」(utility) という観点から評価されるべきであることになる。言い換えるなら、男女共同参画が社会全体の生産性を向上させ、民間企業の収益を増加させ、日本のGDPを押し上げる効果があるかぎりにおいて、女性の人権や生き方は優先的に考慮されることが必要であるというのが「手段としての男女共同参画」の内容である。

 今のところ、これら2つの立場は、明瞭に区別されてはおらず、むしろ、一方が達成されるなら、他方もまたおのずから現実のものとなるに違いないという期待が広い範囲において受け容れられているように見える。しかし、これは、甘い幻想である。形式的に考えるなら、両者のあいだに幸福な調和が生れる保証はどこにもない。反対に、少し冷静に考えるなら、「男女共同参画」が手段であるなら、それは、あくまでも限定的なものであり、したがって、男女の平等を損う可能性がつねにある。

 むしろ、この考え方に従うかぎり、人間の存在にはそれ自体としては価値はなく、人間は、「使える」「リソース」であるかぎりにおいて大切にされるべきものであるから、特定の状況のもとで男性よりも女性を優遇することが好ましい結果を産むという予想に何らかの妥当性が認められるなら、そのときには、男性の方が不当な不利益を被ること、つまり「逆差別」(reverse discrimination) が発生することもまた許容される。平等なるものの価値もまた、効用という観点から評価されねばならないからである。

 現実の社会では、「目的としての男女共同参画」のための政策と「手段としての男女共同参画」にもとづく政策が雑然と混在している。そして、そのおかげで、女性に対する差別は、少しずつではあるが、是正されている。また、「逆差別」は、それが認められる場面があるとしても、ある限度を超えると、何らかの仕方で抑止されるのが普通である。この意味では、法制度がそれなりに役割を担っていると言うことができる。たしかに、女性が生産性の極大化のために動員されるリソースであるにすぎないような社会というのは、考えようによっては、悪夢のような社会であるかも知れない。

 しかし、私たちが最終的に目指すところは、生産性の極大化でもなく、男女の形式的な平等でもなく、さらに別の何らかの福祉であり利益であり幸福であるはずである。そして、このような別の到達点から眺めるとき、「男女共同参画」なるものは、上に述べたのとは別の意味における「効用」を実現するための手段として私たちの前に姿を現すことになるであろう。


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